『ありがとう、と伝えるために』
扉を開けて光を背に入ってきた人物に、カイは大きく瞳を開いた。
”いらっしゃい”というお決まりの台詞も忘れ、ぽかんと口を開けたまま、何度も何度も瞬きを繰り返す。
来客を告げる音。
扉の閉まる音。
どれもこれもカイの耳を素通りする。
自分の目を疑う事しかできなかった。
瞬きを繰り返せば、目の前の光景は幻でしかないと証明できるというように。
幻である事を願うのか、幻であってほしくないのか。
全身を襲う震えは歓喜なのか驚愕なのか。
背中の中ほどまでもある、波打つ金色の髪。
動きに合わせて肩から零れ、流れ、揺れる。
頼りなさげな、儚げな、穏やかな、見るからに気弱そうな雰囲気の柔和で、端正な顔立ち。
ぼんやりとした瞳が店内を見渡し、ゆるやかにカイの姿を捉え―――。
動かなく、なった。
ぴたりと時間の止まったような空間で、互いに互いの顔を凝視しながら動かない。
動けない。
どれだけの時間が経ったのか、その静寂を叩き壊すように軽快な音と共に扉が開いた。
「カイ、ただいまー」
「ただいまー」
同じ声、同じ調子。
聞きなれた2重層に、カイはぎこちなく顔をずらした。扉の前に立つ2人の少女。
短い黒い髪に、きらきらと好奇心に輝く黒い瞳。
全く同じ顔の、瞳の色だけが違う双子の少女。
それはカイにとって見慣れた光景であり、いつもの光景。
けれど、2人の少女にとっては、あまりにも違うカイの対応。
きょとんとしてカイを見上げる。
その後ろ。
扉の横にひっそりと立っていた少女が、震える唇を開く。
「…か…い」
あまりにも小さな声。
聞き損ねてしまいそうな、小さな声。
そのささやかな声に、その呼び声に、カイははっとして少女へと視線を移す。
突然すぎる行為に、カイの視線を追いかけた2人の少女は、ようやっと自分達以外の存在がいる事に気がついた。
2人、同じように目を丸くする。
「あれ…? あなた」
「確か、転校生の…」
2人の言葉は、もうカイの耳に入らなかった。
少女の薄い緑の瞳とぶつかった瞬間、思わず口をつく…もういない筈の人の名前。
「…イレーヌ…」
それは、カイにとってあまりにも懐かしく、あまりにも苦い記憶と共にある名前。
既に遠い記憶であるにも関わらず、当時のことをカイはまざまざと思い出せる。
ほんの少しの時間を共にした少女。
特殊な生まれと、異形の力、僅かな交流と、密やかな願いと、あっけない別れ。
イレーヌ、という名前の持ち主は、10年以上も前に死んだ。
それは、カイ自身が誰よりもよく知っている。
―――そうであるにも関わらず、カイは、目の前にいる少女をそう呼ばずにはいられなかった。
あまりにも、あまりにも、記憶の中の少女と同じ容姿を彼女は持っていたから。
その纏う雰囲気すら、同じように思えたから。
ありえない、そう思いながら。
それでも…呼ばずには、いられなかった。
「…イレーヌ」
カイの声にあわせて、大きく開いていた少女の眼が動揺にゆらめく。激しい感情のぶれを示すように、少女の身体は小刻みに震えていた。その震えは次第に激しくなり、とうとうこらえきれなくなったかのように顔を覆った。
白く細い指の間からぽろぽろと涙が伝う。
この展開にまるでついていけなかったのは、後から入ってきた黒髪の双子たち。
外国から転校してきたばかりの少女が、どうしてこんなところにいるのか。
どうしてカイは彼女の名前を知っていたのか。
どうして彼女は急に泣き出したのか。
分かるはずもない疑問が頭の中を散々駆け巡る。
完全に固まってしまった2人の少女が見守る中、カイはぎこちなくイレーヌの前に立ち、腕を伸ばす。
日の光に焼けた腕が少女の頭をゆるやかに撫ぜた。
イレーヌはただただ泣き続ける。
そして…そしてまた、見守る双子にとって信じられないことに、カイもまた、静かに、静かに、涙を流していた。
彼女が記憶の中の"イレーヌ"な筈はないけれど、ただ、目の前の少女はあまりにも懐かしく、あまりにも似ていて、カイは自分の胸を締め付ける想いにただ涙するしかなかった。
「落ち着いた?」
双子の少女の片割れ、響の言葉に、散々泣いて真っ赤な瞳になったイレーヌはひどく恐縮して頭を下げた。
泣くだけ泣いた所為もあって、イレーヌの視界は全然はっきりしない。
目の前にいる双子の少女たちの顔はうっすらとしか伺えず、ただただ申し訳なく頭を下げる。店の中で、他に客がいなかったとはいえ人前で散々泣いてしまったのだから、恥ずかしいやら申し訳ないやらの気持ちで一杯だった。
「は、はい。…あの、ごめんなさい…ご迷惑をおかけして」
「あーいーのいーの。イレーヌさん、って言うんだよね。私は響、こっちは奏。よろしくね」
「イレーヌさんってすっごい日本語上手なんだね! クラス違うから知らなかったな」
同じ顔から飛び出す2つの言葉に、イレーヌは頭の中で一旦言葉を整理しなくてはならなかった。なにせ2人の声はどちらも全く同じように聞こえたから、一緒に話されると何がなんだか分からない。
「あの、よろしくお願いします。…日本語は、小さい頃からずっと勉強していたのです」
「へー? いつからいつから?」
「3歳、の頃です」
「! すごいっ!」
「3歳なんて、もう何にも憶えてないよ。なんでそんな小さい時から?」
「その頃、テレビで流れた日本語をずっと口にしていたそうなんです。それで、母が知り合いの日本人を探してくれて、教えていただくことが出来ました」
「すごいすごい! カイも昔から英語教えてくれたら良かったのに!」
「カイは英語ぺらぺらだもんね。 それだけ昔から教えてもらってたら今頃私たちもぺらぺらだったかも!」
手を合わせて笑いあう2人の少女は、一体どっちが響でどっちが奏であるのか、イレーヌには既に判断できなかったが、その微笑ましい光景に肩の力が抜けた。
「おいおい。俺はちゃんと教えたぞ。したらお前ら2人とも全然聞かねーで飛び出してただろ」
ノックの音と同時に扉が開いてカイが顔を出す。
あまり意味のないノックに、響も奏も全く同じ顔でカイを睨みつけた。
「「カイ立ち聞きー! ノックしてすぐ開けないでよ!」」
ぴったり重なった言葉に、カイは呆れたように肩をすくめて見せた。
「お前らがそんだけ騒いでるならもう大丈夫ってことだろ」
「「騒いでない!」」
「ほら騒いでる」
くく、と笑って、カイは2人の少女の頭を押さえる。
笑いあう3人を見ながら、イレーヌはカイの声が聞こえた瞬間からの全身の硬直をといて、おずおずと立ち上がる。
少女の行動に気付いた3人は騒ぐのを止めて、じっとイレーヌを見つめた。
その視線を上手く受け止めることが出来ずに目を伏せる。
「あ、あの…本当にすみませんでした。今日は、その…失礼します」
そのまま頭を下げてすぐにでも走り出そうという動作に、奏と響は慌てて止めた。イレーヌの前に立ちはだかって、扉を塞ぐ。
「「だめ!」」
はっきりとした否定に、カイとイレーヌは呆気に取られ、2人の少女を見つめる。
視線を浴びた少女たちは、まっすぐな瞳で、それを受け止めた。
「だって、2人ともなんか話すことあるんでしょう?」
「そのためにイレーヌさんここに来たんじゃないの?」
言葉に、イレーヌはびくりと震える。
「私…私は…」
ゆっくりと、顔を上げて、心配げな眼差しとぶつかる。
何故か、ひどく懐かしい感覚に陥る、その不思議で優しい瞳。
見ているだけで、どうしてだか、胸が苦しくなる。
「………俺も、少し話したい。駄目か?」
カイの言葉に、双子の少女はこくこくと頷き、期待に輝かせた目でイレーヌを見つめる。
「………」
沈黙は少し長く。
イレーヌはゆっくりとカイの顔、奏の顔、響の顔を見回し、そして頷いたのだった。
そして今、カイとイレーヌは2人で向き合っている。
カイの差し出したコーヒーをソーサーから持ち上げ、口をつける。
その様子をじっとカイは見ていた。
本人にそんなつもりは全くないのだろうが、その視線はかなり強い。
よく見れば、当たり前のことではあるのだが、カイの知るイレーヌと目の前のイレーヌは違った。
穏やかな眼差し、緑の瞳、ゆるやかな金の髪、それらはまるで一緒。けれど、その細い髪の隙間から覗く耳の形は…丸い。人間であるならば、当たり前の形。
けれどもカイの知るイレーヌは耳の先が鋭く尖っていたから。
「ひとつだけ、聞いてもいいか?」
カイの言葉に、カップをソーサーに置く。小さな音が、やけに大きく響いた。
ゆっくりと頷く。
「………君は、俺のことを知っているのか?」
迷いに迷い、カイは結局そう口にする。
聞きたい事は幾らでもあった。
けれど、何を聞いていいのか。何を話していいのか。
カイにはわからない。
彼女はイレーヌではない。
生きていた、なんて事は絶対にありえない。
目の前にいる少女は、紛れもなく人間で。
それなのに、何故、カイを見たときあんな反応をしたのか。
どうして、高校から随分と離れたこの店まで来たのか。
「…多分、知りません。けれど、知っていると、思います」
「どういう、意味…」
「物心ついたころからずっと、頭の中にあったんです。"カイ"って言葉が。それが、人の名前だってことも、なんとなく分かっていました。どうして、そう思うのか…分からなかったけど」
"カイ"という名前は頭の中にずっと存在していて。それが誰の名前で、誰のことを示すのか、まるでわからなかった。
だからイレーヌはずっと"カイ"を探していた。
"カイ"に会いたかった。
誰かも分からないのに、ずっと会いたかった。
「…日本、って国を聞いた時、行かないといけない気がしたの。日本の…沖縄ってところ」
何故か、ひどく気が急いて、どうしても行きたくて、行きたくて、両親に頼み込んだ。
そこになら、"カイ"に会える気がした。
"カイ"がどんな人かも、どんな顔をしているのかも、何も知らないのに。
じっ、とカイを見上げ、微笑む。
「……私、きっと貴方に会いたくて、生まれてきたんだと思います」
目の前にいる"カイ"が、イレーヌの求めていた"カイ"だ。
それは、見た瞬間分かった。
だから、嬉しくて。嬉しくて。嬉しくて。
どうしてだか、哀しくて。
沢山の感情が内側からあふれ出して。
"イレーヌ"と、そう呼ばれたら、もう止まらなくなった。
今もそう。
カイを見ていたら、イレーヌの中で色々な感情がわきあがる。
それはイレーヌという器よりもずっと大きくて、"カイ"を探している時のようにまっすぐではなくて、ずっとずっと複雑で、たくさんの想い。
ずっと会いたかった。
ずっとずっと探していた。
「…今、私、凄く嬉しくて…どうしてだか分からないけど、本当に嬉しくて…」
それ以外の想いを、どう表現すればいいのか分からない。
この感情の大きさを、温かさを、どう説明すればいいのだろう。
はっきりとした言葉が浮かばず、唇を噛む。
「……昔、俺があんたくらいの年の頃にさ、あんたそっくりの女の子に会ったんだ」
それはイレーヌじゃなくて、カイの中の"イレーヌ"。
「俺、友達になったんだよ。そいつとさ。……でも、俺の見ている前で、死んでいった」
辛そうに顔を歪めた男に、イレーヌは息を呑む。
カイの中の"イレーヌ"は、イレーヌじゃない。そんな当然のことに、何故か動揺する。
カイの中に、イレーヌはいない。
イレーヌとよく似た"イレーヌ"が住んでいる。
「守りたいって、思ったんだよ。あいつを、イレーヌを…。けど、守れなかった」
泣きそうな顔でカイはそう言って、俯く。
イレーヌは憂いの濃い瞳でそれを見上げる。
なんて言っていいのか、見当もつかない。
カイは想像よりもずっと大人の人で、ずっと大きな人で、とても温かい人で、とても優しい人で、一目でそんなことが分かるはずないのに、イレーヌはそう思ったから、こんな顔をさせてしまっているのが、悔しい。
"イレーヌ"と同じ背格好で同じ容姿をしたイレーヌが目の前に現れた所為だと思ったら。
……それは、とても、苦しい。
「……でも、あんたは、あいつじゃないけど、嬉しいって、会えて嬉しいって…そう、言ってくれるなら、なんでだろうな。…すごい、嬉しいよ」
無意識に握り締めていた拳を開いて、自然と下がっていた頭を上げる。
俯いて見えなかったカイの顔は、はっきりとイレーヌを見つめ、とても柔らかい微笑を浮かべていた。
とても、とても、柔らかくて、温かくて、どこか、懐かしくて。
「あっ、あのっ、私…日本語を聞く前から知っていた言葉が、一つ、あるのです。…母が言うには、私が初めて話した言葉は"ありがとう"だった…って」
何故そんなことを言ったのか、イレーヌ自身も分からなかった。
けれど、何故か急きたてられるように口にしていた。
カイに伝えなければいけない気がした。
そして、それはきっと間違いではなかったのだ。
だってカイは、その精悍な顔をくしゃりと崩して、まるで幼子のように無防備な、そのくせどこか切なそうな笑顔を見せたから。
イレーヌは、確信する。
日本に…沖縄に行きたかったのは彼に会うためで…彼のこの顔を見たかったからなのだと。
理由も根拠も何もなく、ただ、そうイレーヌは確信した。
2008年4月13日
ものっそ今更ですが、血+でカイイレ。
サイト巡りで生まれ変わりネタに転がり落ちたころのネタでした。
生まれ変わりモゼルルとかさvvvv
最近はもっぱらハジルルに転がってます。