夢を見ていた、と刹那は思った。
思っただけで、思い出そうとは思わない。
不愉快でないからきっと良い夢だったのだ。
そんな感覚は初めてだったような気がして、心の中に浮かんだ言いようのないふわふわとした輪郭のない感情をなんというのか疑問に思う。
ゆっくりと瞬きを繰り返すとぼやけた視界がはっきりとしてきて、見なれた天井が目に入った。プレマイトスにある一室。刹那に与えられた小さな部屋。
いつもどおりの光景。
少し感覚の違うだけの、いつもどおりの覚醒。
ふわりと柔らかな香りがして、眉をひそめる。
一体何の香りだろうか。そう視線を巡らし―――。
「…刹那?」
「―――っっ」
困惑しきった表情の、ソレスタルビーイングの仲間がそこにいた。
「刹那? 大丈夫?」
桃色の髪が視界に入る。あまりに鮮やかな髪色。次いで心配げに潜められた眉と、翡翠の瞳、ふっくらとした唇、柔らかそうな肌色。
「フェルト?」
予想だにしない事態に、刹那の動きが止まった。思考も完全に停止する。
何故、彼女がこんなところにいるのか。
起き抜けの頭は何故と思うばかりで働かない。
完全に固まってしまった刹那に、フェルトは居心地悪そうに身を揺する。どうしよう、というように、そろりと刹那の表情をうかがった。
長い硬直。
「あの…刹那?」
呼びかけられ、ようやく刹那の硬直は解けた。
不躾なまでに凝視していた事に気が付いて、僅かに狼狽する。
解凍されたばかりの頭は、一番の疑問を率直に紡ぎだした。
「―――何故、ここにいる」
「…え?」
忙しない瞬きの後、フェルトは困ったように首を傾げて、本当に不思議そうにまじまじと刹那を見る。
「刹那、気付いてないの?」
「…?」
何の話だ? と続けようとして、腕を引かれる感覚に視線を落とす。
半袖シャツ一枚の状態で寝ていたから、当然素肌の状態だ。
腕を引っ張られているわけじゃない。感覚としてそれは分かる。ならば何故腕が引っ張られるのか。身を起こしながら、疑問の答えを探して、刹那は肩先から二の腕、手の先と視線を移動し、びくり、と震えた。
その震えがダイレクトにフェルトにも伝わる。
それもその筈。刹那の手は思いっきりフェルトの手を握りしめていたのだから。
刹那はあっけに取られて自分の手とフェルトの手を見つめる。普段表情に乏しい顔が、今は驚いているのだとよく分かった。本当に今の今まで気がついてなかったのだ。フェルトはそれに気が付いて、なんだかひどく可笑しくなる。
硬直している刹那は、まだフェルトの手を握りしめたままだ。
「沙慈君が聞きたいことがあるから来て欲しいって。かわりに呼びに来たの」
クスクスと笑いながら、フェルトは思い出す。
別にわざわざ呼びにいかなくても機械を通せばすぐの話なのだが、呼び出しても出ないとのことで、丁度そこにいたフェルトに白羽の矢が立った。
様子を見に来てみたらノックの音に反応は無く、鍵はかかってなかったから、おそるおそる中に入ってみると、刹那は静かに眠っていた。もしかしたら体調を崩したのではないだろうか、と、フェルトも沙慈もイアンも心配していたというのに、だ。
「よく、寝てたね」
ちょっとだけ、恨みがましくフェルトは刹那を睨みつける。別に休憩中だったわけだし、ガンダムマイスターとして連日戦闘や機体の調整に追われていることを考えれば、それも仕方ないことだろうと理解出来る。理解は出来るが、彼の体調を案じてのさっきまでの不安や心配は大きくて、肩透かしをくらってしまったことは事実だ。
フェルトの大事に想うが故の恨みがましい視線に、刹那の表情は変わらないものの、僅かにたじろぐ。
よく寝ているのを確認して、呼びかけても全然起きる様子がなかったから、フェルトは一旦引き返そうとしたのだ。けれども扉を開けて出て行こうとしたその瞬間、刹那に呼ばれたような気がして、迷いながらもまた部屋の中へと入る。
昔よりずっと大人びた顔を覗きこんでみると、起きているときよりずっと無防備でかわいらしい寝顔だったので、つい、見入ってしまった。こんな時でもないと真正面から観察、なんてこと出来ない。
寝ているとまるで昔の刹那に戻ったみたいだ、とフェルトはくすぐったい気持ちで寝顔を鑑賞して、どれくらい時間が経ったのか、今度こそ出て行こうと思ったら、手を引かれた。
え? と思って、振り向いてみれば、何故か刹那に手を握られていて、いつの間にか起きていたのだろうかと視線を上げて見ると、先程までと変わらぬ安らかな寝顔。
本当に寝ているのだろうか、と思って顔を覗き込むが、矢張りピクリとも動かない。安らかな寝息が聞こえるだけだ。無理に振り払って起こすのも悪いと思い、そろそろと手を引き抜こうと、して、逆に握りこまれてしまった。
刹那? と呼びかけてみても全く反応は無く、途方に暮れること数分。
ようやく刹那が目を覚ましたという訳だ。
「…すまなかった」
無自覚とはいえ何をしているのだろう、と自分の事ながら刹那は呆れる。
重なりあった手の平。
フェルトの手は刹那のものよりも一回り小さくて、指先は細く長い。しっとりと柔らかくて、吸い付くようなきめの細かさとなめらかさ。マニキュアを塗っているのだろうか、薄桃色に色づいた爪先に目を奪われた。縦横無尽にキー上を動くその様は、まるでピアニストのようだと誰かが言っていた。きっとクリスティナ・シエラとリヒテンダール・ツエーリだ。あの2人は姉のように兄のように、14歳だったフェルト・グレイスを可愛がっていた。対する自分の手は浅黒く、がさついている。あまりに綺麗なフェルトの手は、自分が触れていいものではないような気がして、はなさければ、と強く感じた。
「………」
そう感じるのに、手を握るのやめるべきだと考えるのに、どうしてだか身体が動かない。
「刹那…?」
「ああ」
「沙慈君とイアンさんの所に行こう?」
「ああ―――そうだな」
それでも手を放さない刹那に、フェルトは首を傾げる。
僅かにうつ向いた刹那の表情は、フェルトから見えなかった。
「………刹那?」
「ああ」
「……行こう?」
今度は、返事がなかった。
心底困惑して、フェルトは刹那の顔を覗き込む。考え込むようにしてうつ向いていた刹那の横顔。
鮮やかな夕日色をした瞳は、いつもと違って困惑しているように見えた。目が合うと、刹那は少しびくりとして、身を引く。手の平が繋がっていると、相手の感情がよく伝わるのだと、フェルトは場違いに感動した。
「………フェルト」
「うん」
「もう少し、このままでいても構わないだろうか」
十分な戸惑いの残る言葉に驚いて、マジマジと刹那を見つめる。
彼自身、自分で言っていることの意味が分かってはいないようだった。ひどく複雑な表情でフェルトを見ている。
きっと刹那は気が付いていないだろう。
フェルトの手を握りしめる力が強くなったこと。
今更ながら刹那との距離の近さにフェルトは瞠目して、急に逞しくなった胸板とか手の平とか、そんなところに意識が向く。それがなんだかひどく恥ずかしくて、じわじわと顔が熱くなった。
繋いだ手の平はとても熱い。
けれどそれは不愉快ではなくて、何故か気持ち良い。
「………うん。いいよ刹那」
ひどく恥ずかしいのに、何故だかとても心地よいから、真っ赤になってフェルトはそう頷いた。
つられるように刹那の頬も少し赤く染まって、安堵の息を吐く。
起きた時のふわふわとした温かな感情が、何故だかずっと心の中を占めているから、刹那はもう少しだけ、その奇妙な感覚を楽しもうと思った。
それは"幸福"と人が呼ぶもの
刹那×フェルト祭 『平穏を知らない子供たち』
に、ささげますっっ。
ささげさしてくださいっ。