ぶち、と、耳障りな音がなった。
コールタールのようなねばねばとした黒い粘液体が流れ落ち、本来なら急速に回復するはずがその気配すらも見せない。
一つしかない赤銅色の眼が、戸惑うかのように少しだけ揺れて。
キーリ、と、決して声になる事のない声が吐息となって零れ落ちた。
それきり、赤銅色の髪は動かなくなった。
『たった一つの届けもの』
それは、不死人のなれの果てだった。
抉り出した心臓の変わりである核は、幾筋ものひびが入り、いつ割れてしまってもおかしくはない。これが今の今まで1人の人間…正確には死体を動かしていた。
不死人と呼ばれる、心臓の変わりに永久稼動の動力源を埋め込まれた動く死体。戦争末期になって兵士の死体を再利用して大量生産されたという、あまりにも残酷な、悲惨な存在。
その様を哀れむように見下ろす男が1人。
青年のようにも見えて、老人のようにも見える、奇妙な男だった。ひどく深い眼差しは淡い緑。
「ハーヴェイ」
老人のような、ひどく引きつった、聞き取りにくい声だった。呼ばれた相手は既にピクリとも動かない。それでも声は続いた。
「私は、君が羨ましい」
カサカサの唇がほんの少し歪み、それはどうやら笑ったようだった。
ひび割れた手のひらに握られたナイフがくるりと回転し、胸の中央を突き刺して真横に引き裂かれる。ハーヴェイ、と呼ばれた赤銅色の髪の男の上にぼたぼたと赤い液体が散った。傷口付近で黒い液体がそれを修復しようとする前に、核と呼ばれる結晶体を引きずり出す。ぶちぶちと生体ケーブルが千切れて、完全に心臓変わりの核が身体からはなれた。骨ばった右手に持ったそれを、迷う事など何もないように、足元で動く事のない不死人の胸の空洞に押し入れた。
核のなくなった身体はもう再生を始めようとはせず、男はただただ小さく笑った。
生きる目的など見つからなかった。
生きる理由などなかった。
ただただ逃げて、逃げて、逃げて、逃げ延びて、そうして、彼らの物語を見つけた。
行った先々で聞いた彼らに関する話を、羨ましいとさえ思った。
1人の少女は赤銅色の青年を照らし、不死人が求め続けても手に入らなかった物を青年は手に入れた。
人間なんて不死人を徹底的に追い詰める存在でしかなかったはずなのに。
憧憬さえ抱いた。
永遠に続く地獄にも等しい生を、生き続けようと願う青年を。
青年をそう導いた黒い髪の少女を。
自分には決して出来なかった事。
全てを諦めて全てに逃げ続けて、何もなくなった手のひら。
青年の核はもう今にも壊れそうで、明日まで持つかどうかも分からないような、そんな代物だった。
それを知った時、なんとなく、ここまで生きてきた意味を考えた。
しようとすることに迷いなど無かった。
ここまで逃げ続け、何の目的も意味も見出せずに生きながらえて、初めて、何かをしたいと、そう、思ったから。
ハーヴェイが眼を覚ますと、涙を瞳一杯にたたえた女が目に入った。それはハーヴェイが一番弱い相手で、一番させたくもない顔だったから、思わずぎょっとして身を引く。何が起こったのだと、10代だった頃に比べて随分と大人になった筈の彼女が、これほどまでの表情をする理由を探す。何故鮮明に彼女の顔が見えているのか考えるよりも、自分達の身に起こっている事を考えるよりも、そのどれよりも早く、キーリはハーヴェイの胸に飛び込んだ。ぼろぼろに泣く彼女を抱き寄せて、その手についた既にどんよりと沈着した赤に驚く。改めて、見える範囲の自分の四肢(右腕は除いて)を確認すると、いたるところに血と、コールタールのような、かつて見慣れていた黒い液体が付いている事に気付く。彼女を胸から少し引き剥がすと、予想通りその空間はべっとりと赤と黒で汚れていた。
「ハー…ヴェイっ?」
しゃくり上げながら、ハーヴェイの服をしっかりと掴んで離さない彼女の頭に手を置いて、小さく笑う。それは彼女にとって挙動不審であったのか、きょとんとした顔で、口を開けたままこちらを見上げてきた。
「キーリ」
そう、出ないはずの声を唇にのせたつもりが、しわがれたガラガラの声が喉奥から飛び出て、ぎょっとして喉を押さえた。そういえば、何故はっきりと目が見えるのか。涙を零す大人びた彼女の顔が分かるのか。視界なんて、とっくの昔にふさがっていた筈なのに。驚いたのは何もハーヴェイだけではない。彼女もまた、どうして、と言いたげにパクパクと口の開け閉めを繰り返す。
無言の視線の訴えもあって、口を開ける。昔極自然に成していた事を意識すると妙に難しい。舌を動かし喉奥の空気を外に押し出すようにして。
「あー」
「…っっ!!!」
出た。
驚愕の視線を送るキーリを見ながら、喉に手を当て、もう一度。
「キ ー リ」
かつての声とは全く違う、しわがれた、聞き取りにくい声。
それでも、ハーヴェイの声だ。
何故、と、2人は顔を合わせる。
それと、同時だった。
ハーヴェイとキーリは、未完成の線路の上に立っていた。突然変わった場面に驚愕しながらも周囲を見渡せば、男が立っていた。何もない荒野に、少しずつレールがひかれ、男はそのたびに少し笑う。
淡い緑の瞳をした、黒い髪の青年。若々しいその顔は、あっという間に苦く染まる。それと同時に血が舞い飛び戦乱の最中に立っていた。延々と続く殺し合いはハーヴェイにも見覚えのある、いや、経験した事だ。まるで物のように殺されていく人間と、それを追い詰める不死人。不死人の中に砂色の髪が見えて、一瞬のうちに消えていった。様々な街を渡り、先々で不死人狩りが起こり、目の前で死んでいく不死人と、手のひらを返したかのように裏切っていく人間達。
その全てがあっという間に通り過ぎて、また場面がくるりと変わる。
ハーヴェイにも、キーリにも、見覚えのある世界へ。
小さな小さな、集落。クイという比較的小柄な草食動物。戦争も何もなかったかのように穏やかな、空間。そして、退廃現象の始まった<最初の人>。
それから先は、見覚えのある光景ばかりだった。
協会の総本山。曲がりくねった通路。無駄に広いエントランス。
黒髪の、薄手の白い服を着た少女。
聖堂の奥の彫刻や絵画の数々。中でも特別美しい、あまりに精巧な、あまりに美しい、彫刻の天使。
移動するラジオ塔。岩ライオンみたいな、犬みたいな立派なたてがみを首回りに持つ動物。
ウエスタベリ。
イースタベリ。
見覚えのある場所。
見覚えのある人達。
知っている場所。ハーヴェイとキーリが一緒に歩いて、一緒に旅をして、過ごした場所。
まるで時間を逆回しにしたように、くるくると場面が変わって、懐かしい想いがこみ上げる。
そして青年だった不死人は、ひどく疲れたような表情で、カラカラのしわがれた声を紡ぐ。聞き取りにくいノイズ交じりの声だった。淡い緑の瞳が見下ろすのは赤銅色の髪を持つ不死人。
「ハーヴェイ」
名前を呼ばれ、ハーヴェイは胡乱気な顔を自分の死体から不死人へと移す。当たり前の事だが、自分が殺される現場を見るのは気分が悪い。けれど、それでもがたがたと震えるキーリを腕に抱いて、既に起こった出来事を見ていた。ハーヴェイにとって彼は、知らない不死人だった。多分ユドは知っているであろう、相当古い時代に作られた不死人。
「私は、君が羨ましい」
意味の分からない言葉だった。
カサカサの唇がほんの少し歪み、それはどうやら笑ったようだった。
ひび割れた手のひらに握られたナイフがくるりと回転し、胸の中央を突き刺して真横に引き裂かれる。ハーヴェイの上にぼたぼたと赤い液体が散った。傷口付近で黒い液体がそれを修復しようとする前に、核と呼ばれる結晶体が引きずり出され、ぶちぶちと生体ケーブルが千切れて、完全に心臓変わりのそれは身体から離れた。骨ばった右手に持たれたそれが、迷う事など何もないように、ハーヴェイの胸の空洞に押し入れられる。
ハーヴェイが自分の胸に目をやると、核が琥珀色の光を明滅させて、弱弱しく動いていた。生体ケーブルと黒い液体とが緩慢に動き、じわじわと修復を始めている。
淡い緑の瞳の不死人の身体はもう再生しない。
それでも何故か、何故か彼は小さく微笑んでいる様で。
次の瞬間にはもう元の場所に立っていた。
見下ろした先にある不死人だったもの。
ゆるりと笑んだ不死人はひどく満足げに見えて、ハーヴェイはただ首を振った。キーリが腕の中から抜け出し、死体の横に膝をつく。
2人は彼に語る言葉を持たなかった。
だからただ、彼に小さな黙祷と祈りを捧げ、それで別れを告げた。
「なんで、こう、したんだろうな」
2人で立てた小さな墓の前で、ポツリとハーヴェイがこぼした。彼の指にはもうずっと握られる事の無かった煙草があって、白い煙が長く長く立ち昇っていた。
キーリに返す言葉なんて無くて、ハーヴェイもそんなこと分かっていて、それでも何か言いたかったのだ。だから小さく首を振った。
「…分からないよ」
「…ああ」
ハーヴェイの声が、あの、喉のあたりで少しごろつく、わずかにノイズ感のある低い声に近づいている。喉は怪我をしていたわけではないだろうから、しばらくすれば自然に戻るだろう。
名前も知らない淡い緑の瞳をした不死人が眠る場所へ頭を下げた。自然の存在でない彼らは霊体になることもないのだろう。出来る事ならば、彼と話をしてみたかった。何を考え、ここまできたのか、何を思い、自分の核をハーヴェイに移したのか。
何も分からないけど、ハーヴェイがそこに居て、4年前のようにちゃんと喋って、当たり前に動いていて、それだけの事がただ嬉しい。
ハーヴェイの胸に耳を当てると、静かに、けれど確かな音が脈打っていた。核の古さを考えれば、いつ退廃現象が訪れるかも分からない。それでも、ほんの少し先が明るくなったような気がする。最近のハーヴェイはほとんど動かなくて、視線の動きですら少ししかなかったから、いつそれが止まってしまうのかと恐ろしかった。
この考え方はひどいと思う。人が死んだのだから。
けれど、それでも。
ハーヴェイが生きていて、ここに居てくれて、感謝している。
2度と聞けないと思っていた低い声を聞く事が出来て、本当に、涙が出そうなほど嬉しいのだから。
―――だから。
ありがとう。
感謝しています。