―――お前の「願い」は何だ? 弥奈

 鬼が言う。
 人を食らう鬼か。
 何故、こんなところに。
 茫洋とした脳のどこかで浮かぶ疑問はただただ遠く。

 記憶の波の中で、強い、自信たっぷりの目をした男の子がこっちを見ている。
 私なんかとはちっとも似ていない、愛されている子の目だ。

 ―――アンタの願いは? 弥奈

 ああ、どうしてこんな、今になって誰も彼もそんなことを言うのか。
 あの、男。
 取引をしよう、そう言ったあの男。
 あの男は私の事なんて見ていなかったのに。
 今、この鬼は確かに私に向かって問いかける。

 ねぇ、ヤナ。
 あなたの願いは、一体何、だったのかしら?

 私の、
 私の―――願いは―――。

 ――-お願いだから、私達から妹を奪わないでくれ

「―――っっ」

 ヤナ、私は。

「弥奈!!!」

 貴敦兄さま。

「弥奈様!!!」

 早紀。

 大切な大切な人たち。

 ありがとう。
 知らなかったの。
 あなたたちの気持ち。
 こんなに想ってくれているなんて知らなかった。

 そうして私は言う。
 私の願い。
 私の望み。
 私の本当の気持ち。

「私はただの弥奈になりたい」

 言葉にした瞬間に、どんどん溢れ出してくる。
 貴敦兄さまに初めて会った日の事。
 早紀と初めて話した日の事。
 愛されていると知って、初めて思い出が色づいていく。

 許されないと思っていた。
 愛されることも愛することも。

 それなのに―――。

 ねぇ、ヤナ―――。
 あなたは、私にこんなにも素敵な家族をくれたのね―――。

 
 ヤナが、私の中から抜け落ちていく。
 不思議なその感覚の中、遠く低い声が耳に残った。




「俺も少しは役に立つだろ―――弥奈サマ?」




 鬼の大きな手が私を離して消えていく。
 そうして、私の中のヤナは消えて、私は私ではなくなった。





 
 弥奈は近づいてくる少年に気が付いて、兄と姉の抱擁からやわらかくはなれた。
 まなじりに残る涙を着物の袖でふいて向き直る。
 弥奈にとって、一体何がどうなったのかはよく分からない。分かりはしないが、この少年のおかげで自分の願いが叶ったのだと知っていた。

「あの…信乃、ありがとうございました」
「ああ、願いが叶って良かったな」

 自分が為したことに対して満足げに笑って見せた少年に、弥奈は強くうなずく。
 少年が、かつて辛気臭いと評した少女の顔は、いまや晴れ晴れと喜びと希望に満ち溢れていた。その足に彼女を生き神たらしめた「印」は既にない。弥奈の皮膚を覆っていた竜の鱗の片鱗も、真っ白な肌のどこにもうかがえなかった。

 ―――彼女の願いは、ヤナの願いと共に叶った。

 弥奈の笑顔が何よりもその事実を語っていた。




 誰も居なくなった境内を悠々と歩いてきた男は、その光景に思わず口を緩める。
 泣いていた少女は笑い、常に不景気な顔をしていた少女の守人は、ひどく穏やかな表情をしていた。いつも自信満々の少年は、実に満足げにうなずいている。
 その場の人間の顔を見れば、うまく状況が運んだのが一目瞭然だった。
現八が近づくと何やら談笑していた四人はそろって振り向く。どの顔も、数時間前とはまるで別人のようである。

「よー現八。ごくろーさん」
「終わったようだな」
「まーな」

 男は小さく肩をすくめ、穏やかな目で信乃を見下ろす。それはどこか誇らしげに見えて、弥奈は大きな目を瞬いた。親に褒められた小さな子供のような表情だ。などということは親がいたこともない弥奈には分からなかったが、自分よりはるかに大きい年上の男が、その瞬間ひどく可愛らしく見えた。
 頃合いを見計らって、ここしばらくで見慣れた軍服の男を見上げて声をかける。
 弥奈には彼に言うことがあった。

「犬飼どの」
「願いは叶ったか」
「はい。…貴方のおかげです」
「俺は何もしていない」

 ちらりと、男が信乃へ視線を送るのを見た後、弥奈は首を振った。

「いいえ。犬飼どの。わがままな私の願いを貴方が聞いてくれたから、信乃が来てくれました。願いを口にする勇気のない私の背を押してくれました」
「あー」

 そこまでの事はしていない、というふうに帽子の位置を軽く直した男を見て、弥奈は笑った。軽く照れているに違いない、この男の目をもっと見たいと思った。今よりももっともっと幼くて、弥奈姫としての責務も重圧もしがらみも何も知らなかった頃を思い出す。怖いものなんてなくて、無邪気に手を伸ばせた子供時代。過去の記憶が、解放された今が、弥奈の気持ちを子供に返らせた。はるか高い場所にある現八の顔を弥奈は背伸びしてのぞき込む。ぐん、と近づいた弥奈の顔に、予想だにしていなかった現八は、手と帽子の影の下で驚きに目を見張った。それはもう吐息さえ届きそうな距離だ。
 ただし、男に届いたのは吐息ではない。

「………貴方はとても役に立つ、素敵な鬼ですね」

 小さな小さな笑いを含む声は小鳥の羽音のように軽やかに、現八の耳をすり抜けた。
 帽子の下の切れ長な瞳がさらに瞠目したのを確認して、弥奈は悪戯の成功した子供さながら無邪気に笑う。

「ありがとうございました」

 何度感謝しても足りない。
 混乱して取り乱した弥奈を拙いながらも慰めてくれた、信乃を連れてきてくれた。
 動転したあまり目の前に現れた男に、殺して欲しいと縋り付いた。出来ないと戸惑う現八に役立たずと叫んだことを、鬼に言われるまでほとんど忘れていた。

 極限状態まで追い込まれた恐怖の中で、チャンスをくれた大きな鬼。
 突然現れて、願いを言うと同時に消えていく間際の優しい声が、目の前の男と重なった。その瞬間にはもう、鬼に対する恐怖は消えていた。
 弥奈に自分自身の願いを言う勇気をくれたのは、間違いなくこの男だった。

 少しの沈黙のあと現八は嘆息とともにゆるりと笑って、弥奈の頭を覆うようにくしゃくしゃとかきまぜた。多少乱暴な大きな手の平は、鬼の手とは違う。けれども同じように優しかった。

 軍服の男を見上げて笑う少女の眼は、今は真っ直ぐに未来を見据えている。
 強く輝くさまは、犬塚信乃という少年のそれに、とてもよく似ていた。



 弥奈の人生の全ては今日変わる。
 生き神としてしか生きたことのない、たった14の少女は、これから全く別の人生を歩き始める。

 それでも、弥奈に不安はない。
 強く願えばその願いはいつか必ず叶う―――。
 そのことを、弥奈はもう知っているのだから―――。
 2015/04/01

 ぴくしぶに上げてるのと一緒ですが、こっちにもあげました。また書きたいし。
 アニメからハマって、友達に借りて読んでます。
 現八と弥奈にフラグが立ってるように見えるのはただの私の病気だって知ってますww

空空汐