『メガネ』







「…私が動けば何か変わったのかしら?…」

 誰も聞いていないのを承知でポツリと落とした言葉は、闇の中に吸い込まれる。
 なんとなく笑って、テレポットの上に横になった。くるりと仰向けになって、満点の星空を見上げる。

「ここから私たちの旅が始まった」

 今はもう静まり返った広場。
 ここで予想を超える出来事が起きた。

「マールが消えちゃって、クロノが追って…私もそれを追って…」

 それは、まだ何も知らなくて、前だけを見て走っていた時代。
 色んな人と出会って、苦しんで悲しんで笑った…私たちだけのお祭り。
 だけど祭りはもう終わった。
 祭りの終わりは祭りが貴重で大切だった分余計に空しい。
 後はもう日常に戻るだけだ。

「祭りは終わった。ロボもいない。エイラもいない。カエルも魔王もいない…。マールもクロノも…いないも同じ…かしらね?」

 満点の星空がなぜかぼやけた。

「あれ?」

 おかしいな。と思って、メガネを拭いてみる。それでもぼやけたままで、今度はメガネを外して目をこする。
 熱いしずくが手を濡らした。

「おかしいわね」

 今度は口に出す。どこかうつろな呟きは、細く闇に吸い込まれる。


 なんで泣いてるんだっけ? 


 ぼう―――っと焦点の定まらない瞳で、涙のこぼれるままにかすかに首を傾げた。
 動きに伴って、頬からテレポットの上に流れ落ちた。
 まるでそれに呼応するかのように

 ―――ザァ―――と木々が揺れた。

 それ、に。
 全身の産毛を逆立たせて、一瞬のうちにルッカの体が飛び跳ねた。
 銃を構え油断なく周囲を探る。
 戦闘態勢をとりながら神経を集中させた。
 旅を続けるうちについた習慣。

「うわっ…たっ…タンマ!!ルッカ!!僕だよ…」
「クロノぉ?」

 あまりにも予想外な相手と気が抜ける登場の仕方に、体中から緊張が抜けて、ルッカはその場に座り込む。
 バツの悪そうな顔をしたクロノがテレポットの前に立つ。
 ひどく曖昧で、どう声をかければいいのか分からないといった様子のクロノに首を傾げ、直後にそのわけに気付き慌てた。

「うわっ…わわわっ…!!」

 あたふたとメガネをとって、勢いよく目をこする。
 あんまり勢いがよかったので、目と目の周辺が真っ赤になってしまった。
 あまりにも気まずくて、ルッカは下を向いたままそっぽを向いた。
 その間にクロノが魔法を使って辺りを薄くてらす。

「………何の用かしら?」

 さりげない風を装ってみても、声が険悪になるのはしょうがないことだろう。
 テレポットの階段に腰掛けてクロノが背中を見せる。

「…マールも…僕も…ここにいるよ…?」
「―――っ!!!」

 クロノの何気ないように言われたその言葉にぎょっとして、思わずその背中を凝視した。

「……いつから見てたのよ!!」
「最初からかな?」
「………………………覗き見は重罪よ?」

 クロノの押し殺した笑い声が闇に消える。ルッカの怒りなんぞどこ吹く風だ。

「最悪…」

 小さく呟いて、ルッカはもう一度目をこするとメガネをかけ直す。
 だがそれをクロノが阻んだ。
 いつこっちを向いたのか全く気付かなかったが、メガネを持つルッカの手を押さえたクロノが苦笑をもらす。

「それは…もういらないんじゃない?」

 その言葉に―――

 サァ―――と血の気が引いた。

 蒼白になった顔で、拳を握り締め…言った。

「どういう意味かしら…?」

 震えるのは止められなかった。
 自分の声ではないように遠かった。
 からからに乾いたのどが水分を求める。
 全身が強張り、クロノの言葉を待つ。
 神経という神経が、彼の動きに向いている。

「目が悪いふりも…メガネで壁を作るのも…もう終わりにしたらいい」
「何の話かしら?」

 全身で肯定する身体を振り切って、ルッカは冷たい視線をクロノに浴びせる。
 これまで、自分を守ってくれたメガネは、今、ない。  
 いやおうなしにレンズ越しでない世界を見せ付けられる。
 素顔を、分厚いそれで隠すことによって、本心を出来る限り隠してきた。
 母さんを救えなかった未熟な自分を隠して、その母と父にこれ以上心配をかけないため―――。
 顔を覆うものがあることで、微妙な表情の変化はわかりにくくなる。
 レンズはそのままルッカの心を守る壁だった―――。

 さらりとヘルメットの下から覗く赤紫の髪が揺れる。クロノの作り出した魔法の光を浴びて、赤く光り輝く。
 めったに見ることのない素顔。
 多分仲間すらほとんど見たことのない、メガネを外したルッカの顔―――。
 淡い翠の瞳は大きく、強い意志と年齢を超越した力を感じさせる。
 整った顔立ちは光を浴びて彫像のように動かない。
 ただ、クロノを冷たく…そして激しく見据える視線がそこにある。

 クロノは心から賞賛する。
 その美しさに、その苛烈さに、その炎のごとき魂に。
 彼女がメガネをかけだしたのは、ララが足を失った後のこと。
 見向きもしなかった機械に手を出して、メガネをかけてヘルメットをかぶった。
 それが彼女の心を隠すためだと気付いたのはいつだったか―――。

「ララ小母さんは歩けるようになった―――。ルッカが助けたんだ…なのにどうしてルッカはこれをつけ続けるの?」

 もう、癖になっていたから―――
 答えようとして、やめた。
 それもある。だがそれでは納得しないだろう。
 メガネをかけて、母が歩けるようになってからも本心を隠し続けた理由…。

 それはきっと…。

「あんたには分かんないわよ」

 きっと

 あんたへの想いを誰にも知られたくなかったから―――。

 あんたを好きでいるあの子を見ているのが好きだったから―――。

 あんたとあの子が微笑むのが好きだったから―――。

 だから思いはすべてメガネの奥で消えていった。
 誰もが幸せになれるように…。

 …自分の好きなものがまた壊れてしまわないように。

「分かんないよ。…分かりたいんだ…僕は…ルッカのことをちゃんと分かりたいんだ」

 なのにどうして、あんたはそれを突き崩そうとするの?
 築いたものが…心にかけたレンズがたやすく壊されていく。

 唇を噛み締めて顔に力を入れる。

 まだ壊せない。

 崩してはいけない。

 クロノが抑えている手が熱い。

 クロノの嫌になるほど真摯な瞳が痛い。

 自分のそれより少し濃い翠が鋭いながらも、あたたかく穏やかにルッカを映している。
 クロノの言葉の端々に隠れる優しさとか、思いやりとか…そういったもの全部…自分に向けられるもののあたたかさを知らないふりをしてきた。


         幼馴染という言葉に隠れたものが貴方にもありますか―――?


 震えが収まらない。
 理解したくなくて、見たくなくて、自然に逃げ道を探してしまう。

 崩れてしまう。

 溶けてしまう。

          ―――いけない。

 だって

 自分は好きなのだ。

 震える声でささやくように声が零れ落ちる。

「どうして、そういうこと言うのよ…?」
「ルッカ…?」
「私は…私は……あんたとマールが…一緒に笑っているのが好きなのに…」

 それは本心。
 彼と彼女がやわらかな笑みを見せているのは、本当に暖かくて微笑ましくて。
 大好きで大好きで。

 だけど―――。

「あんたとマールが幸せになればそれでいいのに!!!! どうして、そういうこと言うのよぉ!!!!」


 崩れる。

 崩れてしまう。


 痛い。


 痛い。



 痛いよぉ。


 幸せになってくれればそれでよかったのに。
 早く幸せになって…そしたらきっと何もかも忘れることが出来たのに…。
 断ち切って、好きなものから目を逸らさなくていいのに。

 見ないふりなんてしなくていいのに…!!

 感情が高まるのを止められなくて、ぼろぼろと涙がこぼれ落ちた。
 その大粒のしずく―――

 に

 クロノが打たれたように身を震わせた。
 もはや隠すものは何もない。
 クロノが一番知りたかったルッカの本心が透けて見える。
 どれだけの涙をこれまでにせき止めてきたというのか…
 衝動的に体が動いて
 次の瞬間には、ルッカを抱きしめていた。

 メガネが音をたてて階段を転がり落ちる。

「や…離しなさいよぉ!!!」
「絶対に嫌!!ルッカは分かってないよ!ルッカが幸せになれなかったら、僕もマールも幸せになんてなれない!!」

 声を荒げたクロノの言葉に反応してルッカの体が硬直する。

「それに…僕はルッカがいない幸せなんて…全然興味ない…」





崩れた…。





 全部。隠していたもの全部。

 無理だ。これ以上せき止めることなんてできない。

 クロノの背中の服を掴んでぎゅうっと抱きしめる。


         もう…いい…。


 今だけでも素直になろう?


「―――っっ!!!!」


 頭をクロノの胸に押し付けて、ルッカは思いっきり泣いた。

 逃げていたのだ。
 自分が素直になることで起こる変化から。
 打ち明けることも素直になることも気付かれることも全部避けた。
 自分から何かしなければ崩れることはないから。

 だけどそれは…きっとクロノを傷つけた。
 見ないふりをして知らないふりをして、それでもクロノはこうして抱きしめていてくれる。

 愚かな自分。

 傷つけたくなかったものを傷つけた事にも気付かなかったなんて―――。
 どうしようもなく愚かでずるい―――。


          ごめんなさい

          ごめんなさいクロノ

          ごめんなさいマール



          私はクロノが好きです。

          幼馴染ではなくて1人の異性として好きです。


 そう、心の中で思った瞬間…
 すぅ―――と感情が収まっていくのを感じた。
 非常に静かで、透明になったような気持ち。

「………ごめん」

 泣きつかれてぎゅうっとしがみついたまま呟いた。声がかすれてしまっている。
 クロノに顔を見られるのが怖くてクロノの胸に顔を押し付けたまま動けない。
 多分ものすごい顔になっていることだろう。
 こんなに思いっきり泣いたのは母の足がダメになったとき以来だ。

「…うん」

 そのひどく優しいクロノの声に、覚悟は決まった。
 ずっと逃げていたもの。
 それを伝えなければいけない。
 何が変わってしまっても、今の関係が壊れてしまっても…

 それでも逃げるのをやめるために。


          伝えるのだ。


「クロノ」
「うん」
「好きよ」
「う………………ん……え…?ええっ?ルッカ今なんて…っ!!!!!」
「だから…好きよ」


 ルッカの顔は全く見えない。
 クロノの顔もルッカからは見えない。
 それがひどく助かった。
 真っ赤になって―――うれしくて、にやけてしまったから。
 ものすごい情けない顔だと自分でもよく分かる。
 正直、泣きたくなるほど嬉しくて、ルッカの細い身体をぎゅうっと抱きしめた。

「うれしい…すごく…。うん。好きだよルッカ。ずっとずっと…好きだったんだ…」

 子どものころから、ルッカがまだメガネをかける前からずっと―――。
 通じた―――やっと…。

 万感の想いをこめて、もう一度抱きしめて。


「………ありがとう…」


 そして彼女は 
 万感の想いを込めて、抱きしめた。
ルッカは美人だと思います。
2人の関係は亀よりも遅く進まないものだと思います。
っていうか、私がそういう関係が好きなのだと思います(笑)