『1年に1度』










 目の前に広がるのは海。
 ただひたすらに広がる海。
 海平線には何も見えない、ただ、海と空だけが世界を埋め尽くす。

 海から空に、視界を転じる。
 両手を広げて、砂の上に仰向けになれば、真っ赤に染まった夕暮れの空。

 雲は、どっしりと落ち着いているものもあれば、軽やかに流れる雲もいて、なんとはなしにそれを観察する。
 ザクリ、と音が鳴る。
 聞きなれた、砂の沈む音。硬い靴底で踏みしめる時の音。
 意外な心持ちで、視線を音の根源へ移す。
 想像通りの、見慣れた革靴と靴下。見慣れるのも当たり前、それは自分の物とサイズ以外の違いがないのだから。

「もう、ここには来ないと思っていたわ」

 相手の表情を見るよりも早く空へ視線を戻し、ルッカはそう口にした。
 足音が止まる。
 まだ十分に余裕がある距離。
 それ以上の言葉は口にせず、相手の出方を待った。

「…僕は、きっと来ると思ってたよ」

 ざくり、ざくり。

 聞き慣れた音が、妙に耳に突き刺さる。幾度か音が聞こえて、また、止まる。
 空に混じる、赤い赤い髪。

「…そう」
「…うん。…そう」

 短い沈黙。
 長い沈黙。

 ゆるやかに、けれど、めまぐるしく時間は過ぎていく。
 "今"という時間は、次の瞬間に消えうせる。

 クロノもまた、空を見上げた。
 赤く、赤く染まる、夕焼けの空。

「…もう、来ないわ。2度と、ね」
「……そう」
「…あんたも、ね」

 確認するように、言い聞かせるように。

 ここで共に遊び、共に笑い、一緒になって砂まみれになったこと。
 夕焼けを見て夢を語ったこと。
 遊びつかれて夜まで寝てしまったこと。
 星を見上げて好き勝手な星座を作り上げたこと。
 小さな約束も、大きな約束も、沢山したこと。

 クロノとルッカの、沢山の幻のような夢がここにあった。
 2度と帰ってこない"今"がここにあった。

 だから2人はここに来た。
 2人の、思い出の塊。
 2人だけの、大切な場所。

「明日から、あんたは王様かー」

 ぐ、っと砂の上で伸びをして、何でもないように、世間話をするような態度で、ルッカは笑った。

 のど奥に言える筈もない言葉を詰め込んで
 胸の奥にたまり続ける想いを押しつぶして
 体全体で叫びたくなる衝動を押さえ込んで。

 いつまで、こんな事を続けなければいけないのだろうかと、そう思っていた。
 答えはもう出ている。

 ―――明日。

 クロノが王族に名を連ねることになる明日。
 クロノがマールと結婚することになる明日。

 王族となってしまえばおいそれと出会うことなんてない。
 この年になるまでマールと面識のなかったことを考えれば、これから先一生会わない可能性だってあるだろう。
 もちろん会おうと思えば会えると思う。
 クロノとルッカは幼馴染なわけだし、ルッカも一応王様に英雄として認識されている。

 けれど、会わない。

「ルッカは…どうするの? これから先」
「私? そうね…今までみたいに研究よね。ちゃんとロボが未来で存在出来きるように、少しでも技術を進めなくちゃ」

 もう一つ、考えていることはあるけど、それは黙っておく。
 王となるクロノに関係のないことだから。

「そう、なんだ」

 静かな声。悪戯っ子がそのまま大きくなったような、明るい、あたたかな声が、今はひどく大人しい。
 ふと、ルッカの視界にクロノの顔が入り込む。
 真っ赤な空に溶ける夕焼けの髪。白いハチマキは雲に溶ける。

「何?」
「今日、何の日か知ってる?」
「…七夕」
「うん。引き裂かれた織姫と彦星が1年に1度だけ会うことを許される日」

 まだ星のない空を背負って、クロノは砂の上にひざをつく。2人の距離が近づいた分、必要以上に大きな声はいらなかった。
 ルッカから、クロノの顔は逆光でよく見えなかった。

 けれど、クロノからルッカの表情は良く分かる。
 警戒心むき出しに睨みつけているくせに、眉尻は力なくたれていること、本人は気づいていないのだろう。
 砂の上に無造作に広がる赤紫の細い髪、髪無理矢理引き結んだような唇、わずかに潤んだ大きな瞳、それを阻む分厚いレンズ。
 その全てが、クロノには見えていた。
 ルッカの脇の横につけたひざを更に深く折り曲げて、彼女の体をまたいで手を砂につく。
 更に近づいた距離に、ルッカは僅かに息を呑む。
 もう空は見えない。
 喉の奥がカラカラに干からびて、どんな言葉も口の中に張り付く。何度も口を開いて閉じるばかりで、音にならない。

「1年に、1回くらい…会おうよ」

 耳のすぐ横での言葉に、ようやくルッカの体が硬直からとけた。クロノと会わない、なんてルッカは言っていないのに。混乱した頭で、首を振って、クロノの体を払い除ける。

 ―――払い除けた、つもりだった。

 完全にクロノに覆い尽くされたルッカの体は、ほんの少しの身動きさえも出来なかった。許されているのは、首から上と、膝下からの動きだけ。
 肩と肩が完全に密着していて、首筋にクロノの吐息が届く。そうして、ようやくルッカは今の状況を理解した。全身の血の気が引く。

「く…ろの…っ!」
「…うん」
「は、なして…っ」

 言葉に、クロノはのろのろと顔を上げた。
 その動作にルッカはほっとして、息をつくが、すぐに息を呑んだ。

 きつく、眉間にしわを寄せて、ひどく苦しそうに、泣きそうな表情で…そんな、ルッカがこれまで見たこともないような表情だった。誰よりも前向きで、誰よりも元気にあふれていて、誰よりも優しいクロノの、そんな顔は見たくなかった。
 クロノの表情が、ルッカの体を再び縛った。必死にクロノを押しのけようとしていた四肢から力が抜ける。
 何も言う言葉が見つからなくて、口を半端に開いたまま動けなくなった。

「ルッカ…」
「…………なに」
「名前…呼んで。…お願い」

 指と指とを絡めて、クロノは、深く、深く、ルッカの細い首筋に顔を沈めた。首筋をなぞる唇の感触に少女は身を震わせ、わずかに、首を振った。

「…お願い。…ルッカ…。1年で1回だっていいから…。名前、呼んで。絶対…お願い。お願いだから…っっ」
「―――…」

 初めて、クロノの気持ちをぶつけられた。
 あまりに激しくて、強い、その感情に、ルッカの中でことりと何かが動く。
 滑らかなルッカの頬を、一筋の光が伝って、首筋まで流れ落ちる。
 一度流れてしまえば、次から次へと、とどめなく、流れ続ける。
 首筋に落ちる雫はルッカのものだけではなかった。
 2人分の涙が、ただただこぼれ続けて、砂に吸い込まれた。
 1年に1度だけ会うことを許された織姫と彦星は、こうして涙したのだろうか。
 ルッカの震える唇が開く。

「…く、ろの……。…くろの…クロノっ…………!!!」

 のど奥に詰め込んだ言葉
 胸の奥にたまり続けた想い
 体の中で暴れ続ける衝動

 その全てがあふれ出して。全部、全部、クロノにぶつける。
 押さえ込んでいた全てを、一度外に出してしまえば、それは瞬く間に広がった。心も、体も、理性という枷を外してしまえばクロノを埋め尽くそうと暴れだした。それほどまでに自分がクロノを欲しているのだと、今日の今日までルッカは知らなかった。
 身を引き裂くような激しい感情を抑える術はなくて、震える体でクロノを呼び続けた。

 ルッカの声に、たまらずクロノは少女の体を抱き寄せる。細くて小さくて、けれど、子供の頃とは違う柔らかな体は、力を入れすぎると折れてしまいそうだった。
 言葉を奪うように唇を合わせると、何もかもが忘れられる気がした。
 言える筈もなくなった言葉を、胸の中で反復する。
 涙に濡れて、何度も、何度も、口付けを繰り返して、互いを求めあう。

 ―――ただルッカと言う存在を欲していた。
 ―――ただクロノと言う存在を欲していた。

 ぽつり、ポツリ、と、クロノの背を水が打ち付け、小さな水の飛沫は確かな速度と一定のリズムで降り注ぎ始める。
 こぼれ続ける涙を、クロノもルッカも止めることは出来なかった。

 クロノも、ルッカも、マールも、こんなことを望んでいたわけではない。
 未来の世界を救うなんて大それた事に必死になって、それを成し遂げて…その後は、ただ、当たり前の、これまで送ってきたような生活を送るものだと思っていた。そのために走り続けた。普通どおりの生活に戻っても後悔しない様に、出来ることの全てをやったはずだった。

 そしてクロノもルッカも、王に面識を持った。その存在を認められた。

 それがいけなかったのだろうか?
 王城から王の名の下、クロノの家に使者が来て、それからはあっという間だった。いつの間にかそういうことになっていて、それにクロノは抵抗したけれど、それすらなかったことになった。

 ルッカも、それを止めようとはしなかった。
 ―――マールが泣いたから。
 深夜、たった一人でルッカを訪ねたマールは、声も出せずに泣き続けた。
 あの明るい笑顔がどこにもなくて、一緒に居た頃よりも更にやせてしまっていて、顔色も悪くて、目の下にべっとりとクマを作って、そんな散々な顔をした友人を見たら、複雑な事情があるのなんてすぐに分かった。
 マールをとても大切にしているガルディア王が、彼女をこんなにまで追い詰めても、そう決断せねばならなかったのだ。

 ―――ごめんなさい

 聞き取れた言葉はそれだけ。彼女は泣くだけ泣いて、泣きつかれてそのまま寝てしまい、しばらくすれば、ガルディア城の兵士がマールを迎えに来た。

 かの兵士は、ほんの少しだけ、王城の内情を漏らしてくれた。
 近く争いが起きるかもしれないこと。
 その争いのためにも、戦える王が必要であること。
 王女はそれにずっと反対していたこと。

 それでも、決定をひっくり返すことは出来なかったこと。

 クロノも、ルッカも、マールも、普段どおりの生活、なんてどこにもないと気づいてしまった。
 押し寄せる荒波のような"今"に3人は流された。



 せめて1年に1度会いたい、とクロノは言った。

 けれど、ルッカはもうここには来ない。
 そう決めた。
 これ以上マールを傷つけたくなんてない。国を裏切りたくなんてない。
 もう既にあのかわいらしい少女に顔向けできない。これ以上この国にとどまることなんて出来ない。
 何より、クロノに会ってしまったら、この気持ちを抑えられる自信なんて、どこにもない。
 会って、想いを確かめあえば、彼を奪った全てをうらみたくなるだろう。
 それだけは、したくないから。
 


 だからせめて。

 だからせめて、1年に1度、彼の名を呼ぼう。
 織姫と彦星が流す涙の下、彼の事を想おう。



 ―――クロノと、マールの幸福を祈ろう。
 2007年7月8日
久しぶりのクロノ。
クロスをやっている影響もあって完全悲恋になりました。
クロスは本当にクロノトリガーとクロスしているんだなと思えて楽しいです。
3人の結末については非難も多いんだろうけど、沢山ある未来の一つにはそういう未来もあるだろうということで納得してます。

七夕に降る雨を「洒涙雨(さいるいう)」って言うんだって。
それをどこかに入れたかったけど出来なかった。