『必要不可欠』







「…………てめぇ…何やってやがる…？」

　背後から聞こえた、うなるような、ものすっごい不機嫌そうな声―――。
　反射的にビクッとして声の主を振り返る。
　そこにいたのは、赤いとんがった髪とひしゃげた翼を持つ、小さな子供の姿をした悪魔―――。
　ひどく不機嫌な顔でルウを睨んでいる。不機嫌そうなのはいつものことだが、今のルウには、これが本気で怒っている顔なのだと分かる。
　だがなぜ彼が怒っているのか分からない。

「バ、バルレルっ？　な、何って、ケーキ作りだよ？」

　まだバクバク言っている心臓を押さえながら言っても、バルレルの眉間のしわはまだ取れない。

「何で」
「だ、だって…ルウはケーキ好きだから…いっぱい食べたくて、そう言ったら、マグナがケーキ作るの簡単だよ、って」
「ニンゲンが？」
「う、うん」

　ルウが必死で説明しても、バルレルのいかにも不機嫌そうな顔は崩れない。というか、ますますひどくなっていく。

（ど、どうして…？）

　ワケが分からなくて、怒らせてしまっているのが悲しくて、腕の力が抜けた。
　片腕いっぱいに抱えていた銀のボウルを滑らしてしまう。　
　ボウルの中身は甘い生クリーム。
　利き腕で持っていた泡だて器が、ボウルの中から飛び出し、生クリームが宙に飛来しながらボウルは落下の道をたどる。

「……ぼさっとしてんじゃねーよ」
「うあ……ありがとう。バルレル…」

　寸でのところでボウルを受け止めたバルレルが、広い台所の机にボウルを置く。

「んで？…さっきまでてめえは、ここでニンゲンと２人で、ケーキ作ってたのかよ」
「う、うん。最初は、ギブソンさんが色々注意してくれたの。でもマグナが大丈夫だよ。って言ったから、２人で作ったの」
「…ケッ。あんやろー」

　やっぱり、不機嫌そうなバルレルに、ルウは小さく首をかしげる。

「バルレルはどうしたの？」
「ああ？　てめえにゃかんけーねだろ？」

　まさか台所で、マグナとルウが何かしてると聞いて、すっ飛んできたとは言えない。

「んで…そのニンゲンはどこ行ったんだよ」
「マグナ？　マグナはケーキが焼けているかどうか、食堂に見に行ったよ？」

　大きめなオーブンは、ここではなく食堂にある。
　バルレルは初めてそのことを認識して、感謝した。

「…怒ってる？」
「んで、オレが怒んないといけねーんだよ」
「ごめんね？」
「ああ？」
「ルウには、どうしてキミが怒ってるのか分からないの。でもルウは、ルウが作ったケーキをキミにも食べて欲しかったの…」

　肩を落としたルウに、バルレルは少しだけ、ちょうどルウの目の前に自分の顔が来るくらいに浮き上がる。ルウのひどく滑らかな、黒い肌のいたるところに、さっきの飛び散った生クリームが付いている。ちょうど頬のあたりに付いていた生クリームを、バルレルは自らの舌でそれをなめ取った。

「ふえ…？」

　何が起こったのか分かっていない様子のルウに、バルレルは口元を緩ませる。

「食ってやるから、今度は１人で作れよ。……ぜってーに、間違ってもニンゲンなんかと作るんじゃねーぞ!!」
「う、うん。分かった。今度はバルレルのために１人で作るね」

　殺人級のセリフとまぶしいばかりの笑顔に、バルレルは思わず手を宙に浮かせて…残った理性で繋ぎとめる。
　自覚なしで、こんなことを言われたら相手はたまったもんじゃない。
　ルウが、果たして恋愛感情というものを理解しているのか…バルレルには分からない。伝わってくる感情は曖昧なものばかりだから。

　なぜ、悪魔である自分が人間ごときにここまで溺れてしまったのか…。

　―――それすらも分からない。


　気がついたら、ルウという存在がいて…

　気がついたら、かけがえのない存在になっていた。


　たったそれだけ―――



「どうしたの？」

　動かなくなったバルレルに、不思議そうにルウが首をかしげる。
　長い、つややかな黒髪が、音をたてて肩から滑り落ちる。
　今度は素直に手が出た。
　細いあごを、軽くつまみあげてルウの右目の下に、引っ付いていた生クリームをゆっくりと、ひどく緩慢な動作で…舐め取った。

「……………っ！？」

　さすがに今度は、何をされたか気付いたようで…真っ赤になって、後ろによろめきながら、今バルレルが舐めた場所を押さえる。

「ば、バルレルっ！？」
「んだよ」
「ななななな、何してるの！？」
「取ってんだよ」

　テーブルにルウの身体が当たる。上半身がテーブルの上に投げ出される。長い髪がこぼれた水のように広がる。
　ひどくゆっくりと、バルレルはルウの上にかぶさり、しれっとして首筋の生クリームを絡め取る。

「ひゃ…」

　首筋に這う舌の感触に、身体が跳ねる。　
　今度は鎖骨の上。

「ま、待って!!　バルレル！？」
「待ってられっかよ」

　次は、脇腹の生クリームに目星をつけて更に身をかがめる。

「待てっつーの、この色ボケ悪魔」
「いって―――!!!!!」

　横から手加減なしで殴られて、バルレルの小さな身体が吹っ飛ぶ。

「ば、バルレル！？」

　ぎゅ―――と、目を瞑っていたルウは、突然の第三者の介入と、バルレルの叫び声に慌てて目を開いた。
　身体は、膠着したままで動かない。

「ルウ、大丈夫？」
「ま、マグナ。ルウは大丈夫だよ…。でもバルレルが…」
「あいつなら大丈夫だから、もう行こう。ケーキは焼けたよ」

　いつもに比べて、妙にとげとげしいマグナに手を掴まれて、ルウには従うことしか出来ない。
　今のマグナは、すごく怒っているみたいで怖い―――。


（―――なんで？）


　何も分からないまま、けれどただ、今は、マグナの来たことに対してほっとしていた。







　ミモザとギブソンの屋敷の裏。
　小さな森のようになっているそこをルウは歩く。
　ここの雰囲気はルウの住んでいた森を思い出させてくれる。喧騒がひどく遠くに感じる場所。

（―――居た……）

　木の上でこちらに背を向けてもたれかかっている小さな悪魔。
　本来の姿はもっと大きい悪魔。
　燃え立つような赤い髪が、世界を染める夕日の色みたいで好きだ。
　こちらに背を向けるその姿は、ことさら彼が一人で居ることを強調していて、ルウに近づけるのをためらわさせる。

　ふと、彼は一人なのだ―――と思った。
　霊界サプレスから呼び出されて、ずっと戦って戦って戦って…すべてが終わって、彼が得たものはなんだろう。

　マグナとの友情―――？
　たくさんの仲間―――？

　だけど彼は悪魔で、自分達が死んでも生き続ける。

「バルレル…」

　呟くように無意識の声がでた。
　蚊の鳴くような本当に小さな声だったが、バルレルの優れた聴覚が捉えたようでこちらを振り向く。
　いつもの不機嫌そうな顔。考えを読ませない顔。
　彼はいつまで生きるのだろう。
　サプレスの住民と共に永劫の時を生きるのだろうか？

　それとも一人で―――？

「んだよ。どーした？」

　ひょい―――と軽い動作で木の枝から飛び降りると長い髪で隠れたルウの顔を覗き込む。
　と…同時にバルレルの頭の中が真っ白になった。
　あまり焦点の定まらない瞳から透明のしずくが、なめらかな頬を伝い落ちる。

「ど……どうしたっ！？　さっきのか？　まだ怒ってんのか！？」
「え…？」

　ぼうとした瞳をルウはバルレルに向ける。

「な…泣いてんじゃねぇ!!」
「泣く…？　あ………なんで？」

　ようやく自分の目からこぼれるものに気付いたようで、ルウは膨らんだ袖で目をこする。
　なんで泣いてるんだろう？
　悲しいから？
　寂しいから？

　でもそれは私がじゃない。
　一人で生きなくてはならないのはバルレルだ―――。

「どうして、バルレルはここにいるの？」
「ぁあ？　んだよいきなり…」
「だって、マグナとの誓約はもう解けているでしょう？　キミがここにいる必要はあるの？」

　やけに真っ直ぐに見つめてくる少女に、バルレルは言葉を詰まらせる。
　確かにバルレルがここにいる必要などないのだ。

　だが―――。

「オレは―――」

　一緒にいたかったから―――…なんて。

　言えるわけがないだろう？
　戸惑うように視線を周囲に這わせる少年に

「…何？」

　恐ろしいほどに真摯に少女はバルレルを見つめる。
　彼女の感情はぐちゃぐちゃ。
　恐らく自分自身でも整理がついていないのだろう。

「…別に。何でもねーよ！」

　思わずそう口走る。


　―――しまった、と思った。


　少女は一瞬びくりと身を震わせる。
　気まずい沈黙が落ちる。
　視線は互いの身体でさ迷う。

　交わらない。
　交わることのない視線。

「……………くない」
　
　ルウが、小さく…本当に小さく声を落とした。
　それは本当に小さくて、バルレルはその言葉を拾い損ねる。
　思わずルウの顔を見て、バルレルはぽかんと口を開けた。
　ぽたぽたと、大粒の雫がルウの足元に幾つも幾つも落ちる。
　けれどその表情は、まるで烈火のように―――。

「何でもなくない!!!!!　バルレルは寂しくないの！？　嫌じゃないの！？　サプレスに何もないの！？　本当にここにいていいの！？」

　激しく激しく。
　初めて見るほどに激しく少女は叫ぶ。
　その言葉はちゃんと繋がってもいないけど。
　唖然として、バルレルはルウの言葉を聞く。

「ルウは…ルウは寂しいよ！？　バルレルが１人なのは悲しい！！　バルレルが寂しいのは悲しい！！」

　彼が幸せならそれでいい。
　けれど、彼のものはここには何もない。
　彼は本当はすごい力をもった大悪魔で。
　サプレスではきっと有名で、知っている悪魔もたくさんいて、家とかもきっとあって。

「どうしてここにいるの？　本当にいいの？　幸せなの！？　ねぇ―――…どうなのよぉ…」

　ふぇ、と顔を歪めるルウに、その今は小さな手を伸ばした。
　ためらうように触れたバルレルの小さな手の感触に、ルウはびくりと身を震わせる。
　ふわりと浮き上がった身体は頼りないほどに小さくて、けれどもその瞳は、明らかに老獪した深い闇を覗かせる瞳で。

　ふ、と、バルレルの頬が緩んだ。
　いつも顰められた眉間が、驚くほどに柔らかくて、まるで泣いてしまいそうな悲しい、けれど嬉しい、そんなよく分からない笑みを浮かべる。

「　　　　　」

　初めて聞く彼からの零れ落ちたその言葉は、信じられないくらいに柔らかくて、暖かくて、心地よくて、溶けてしまいそうなほどに甘かった。
　たったの一つの、誰からも聞いたことがあるようなありふれた言葉が、こんなにも嬉しいものだったのを初めて知った。

　小さな身体にぎゅうっと抱きしめられて、何故だかそれは全然不快ではなくて、ただただ気持ちが良かった。

「バルレル」
「あ？」
「ルウは、バルレルがいなくなるは嫌…ずっと、一緒にいたいの」

　例えそれがただのわがままでも。自分のことしか考えていないことであっても。自分にはこの小さな悪魔が必要不可欠。
　バルレルの小さな身体に顔をうずめて、ルウは小さく笑った。