『目的なき邂逅』
ガサリ、と、音に反応して息を呑んだ。
反射的に杖を構え、体勢を整える。
島の召喚獣か、それとも獣か。
その予想に反して、音を立てたのは人間だった。
思わず鋭く息を吸い込んで、瞠目する。
「貴女は…っ」
「………」
見慣れない顔、けれど確かに記憶にはある顔に、ヤードは杖を身構えたままに硬直した。
『紅き手袋』の暗殺者。
つい先日まみえたばかりの存在。
スカーレルから聞いている。
その得意分野がどういったものか。その戦い方がどうであるか。
遠距離戦を得意とする召喚師に対して、接近戦を得意とする短剣使い。
勝敗は火を見るよりも明らかだ。
今更ながら1人で島を移動していた事が悔やまれる。
警戒もあらわに、男は杖を手にじわりと後ずさる。
目の前の女は何一つ動かずに、それを見ていた。
このぐらいの距離、一瞬で詰める事など彼女には容易いだろう。
男が術を使うよりも先に殺す事もまた、容易いだろう。
ほんの少しだけ見開かれていた瞳は冷たく、感情なく男を見据える。
長い栗色の髪がふわりと揺れた。
手には何も持っていない、けれど、その手は人を殺すためだけにあるものだ。
「…以前」
「………っ!?」
「以前…貴女を見たことがあるわ。オルドレイクの…横で」
息を、呑んだ。
マフラーの下、くぐもった声は感情の機微というものを感じさせず、ただ真実だけを淡々と告げていた。
「…私も…貴女を見たことがあります。師匠…いえ、オルドレイクに、抱かれていましたね」
「………ええ」
不道徳的なそれは好きで見たわけでもなく、ただ、組織に疑いを持っていたあの頃、少しでも組織を探ろうとして、その過程で知った事の一つだ。
「それで、何を、しているのですか?」
「……別に、何も。…貴方こそ」
こんなところで1人、何をしているのか、と女は問う。
海賊船のある場所から少し離れた森の中、ヤードは1人で歩いていた。
思いがけない無色の派閥との邂逅。そして師匠と慕った男との邂逅。思うことは多く、整理の付かない感情に、ただ1人外に出た。
だから、別になんの目的があったというわけではない。
「別に…何も」
言ってしまってから相手と同じ回答であったことに気付く。
別に何でもない邂逅。
目的もなく、理由もなく、ただ、偶然の出会い。
目的がないから、争いすら起こらない。
女に手柄を立てようというような気概はなく、ヤード1人殺したところで大した得もない。
続く言葉もなく、ただ、2人は見詰め合う。
殺しあうわけでもなく、戦うわけでもなく、ただ、静かに。
一種独特の緊張感を持ったまま見つめあい、やがて、女のほうが先に視線を逸らした。
「…貴方は、どうして裏切ったの…」
囁き声にも独り言にも近い言葉に、ヤードは少し、眉を潜める。
「…理由が、必要ですか?」
暗殺者という道具にも、無色の派閥の構成員にも、それは必要のないものに他ならない。
女は肯定も否定もしなかった。
マフラーに隠された口元はどんな形をしているのか。顔の大半を覆い隠す髪とマフラーで、その表情はまるで伺えない。
ヤードはふと息をつく。
「………私は組織に入ってから、長い事共に暮らした人を殺しました。彼は組織に疑問を持ち、組織から抜け出したからです」
淡々とした感情の押し殺された言葉を、女は聞いているのかどうか、ほんの少し視線が揺らぎ、そらされる。
ヤードが思い出すのは幼馴染とも呼べる存在。無色の派閥に連れてこられて以来共に学び、共に競い合った存在。焦げ茶色の瞳は、ただ、凪いでいた。
―――止めを刺されるその瞬間までも。
ただ一つの後悔もしていない瞳だった。
「私は知りたかったのです。何故彼は組織を抜けたのか。どうして彼はその道を選んだのか…知りたかったのです」
そして、知った。
彼がその召喚師としての力を見込まれたために、彼の家族が滅んだ事。その事実を彼は知り、そして組織を抜けた。
何故こんなことを話しているのだろう、と、一瞬そんなことが頭をよぎる。
誰にも話すつもりなどなかった。
スカーレルにすら伝えていない。
何故組織のことを調べ始めたのか、何故自分達の身に降りかかった真実を知ったのか。
何故、と思いながらも、その言葉を止める事が出来ない。
何かに操られるように、言葉は口から零れ落ちる。
「…彼の真実を探るうちに知りました。私の村もまた、無色の派閥によって失われたのだと。母も父も殺した者たちに自分が育てられていたのだと!」
怒りを吐き出すように声に変えて、後悔する。
こんなことを敵に話してどうなるというのか。
ただ、一度こぼした言葉は滑らかに口をついて、やはり止めることなど出来なかった。
本当は、誰かに話したかったのかもしれない。
誰かに聞いて欲しかったのかもしれない。やりきれない想いを。我を失うほどの激情を。怒りを。
あの優しい海賊たちには、そしてあの善良な先生には、絶対に見せたくない姿。
「………だから、組織を裏切ったの…?」
女の言葉に、ヤードはようやく彼女のことを思い出したかのように顔を上げた。
怒りに歪んだ顔を無理に笑おうとして、微妙な表情になる。
「そう、ですね。だから、抜けました」
「………」
なんともいえない表情で静かにヤードは言葉を締めくくった。
女は何も言わず。
静かに、静かに時間だけが過ぎていく。
それは奇妙な感覚だった。
敵としての緊張感も持続しながら、何故か同時に一種の安堵感もあった。
思いがけず心情を吐露してしまった結果だろう。
―――恐らく、恐らく女はヤードに会ったことも、ヤードの話も、誰にも言う事はないだろう。
暗殺者は道具だ。
道具である彼女に無用な言葉は求められていない。
ほんの偶然の邂逅で、得るものなど何もなかった。
だから、女は決して言葉にしないのだろう。
この出会いも、ヤードの話も。
不意に、女は背を向けた。
あまりにもあっけない背中に、ヤードは一瞬息を呑むが、力を入れた指から杖を離した。
見逃すのではない。
見逃してもらったのだ。
どの道、呪文の詠唱を彼女に気付かれずに終了させるのは不可能なことだ。
「………私には、そんなこと出来ない」
聞こえた声は、本当に密やかなもので、どこか弱弱しくも聞こえて驚く。だから一瞬言葉の意味を捉えそこね、問いかけようとした時には、もう彼女の姿は消えていった。
元々誰もいなかったかのように、静かに、静かに。
だからヤードもまた背を向け、自分のいるべき場所へと歩き始めた。
またすぐに対峙することになるのだろう。
敵として戦い、命を落とすこともあるだろう。
次にオルドレイクと対峙する時は、スカーレルと共に両親の敵を討つことを決めている。
それに対して整理の付けられない感情があるように。
自分が無色の派閥にいたとき様々な想いを抱えていたように。
彼女もまた想うところがあるのだろう。
だから必要のないことを口にした。
道具でしかない彼女が、不必要なことを求めた。
ヤードは息をついて、振り返る。
既に彼女の姿はどこにも見えない。
もうずっと離れた場所にいるのだろう。自分と敵対する組織の元にいるのだろう。
「………ありがとうございます」
そう、手遅れの言葉が口をついた。
次に会う時は敵でしかないけれど、話をして、ほんの少し気が晴れたから。
ヤードの言葉が届いたはずはないけれど、遠く離れた場所で女は足を止めて振り返り…小さく、首を振った。
気の迷いを振り払うかのように。
そうして、何も考える事のない、ただの道具へと戻った。
2008年8月9日
何気に一押しカプです。スカヘイも好きです。