『安穏の日』
「ガイ…。ガイ。ガイ・セシル…起きて下さい」
昼下がりの気持ちのいい空の下、うとうとと船を漕いでいたガイは、自分を呼ぶ小さな声に意識を覚醒させる。
と、同時に、小さな声の主の存在…正確には、その存在の地位と価値を思い出し、ぎくりと身を竦ませる。一気に覚醒を果たす。
「なっ、ナタリア殿下っ!?」
「お静かに」
鋭く制され、空気と共に言葉を呑み込む。女性恐怖症のガイの事を考慮してか、ナタリア王女…ナタリア・ルツ・キムラスカ・ランバルディアの居る場所は程々に遠かった。ガイにとって逃げなくても大丈夫な程度の距離だ。
ひとまず安心して、王女の意図を探る。
記憶喪失となったルークを見舞うため、幾度もファブレ公爵家に顔に出す王女のご尊顔を拝めたのは、つい最近の事だ。
そう、ルークが誘拐され、一ヶ月経った頃だろう。見舞いに訪れた王女は、普段から淡いレースを重ねた深い帽子で顔を隠していたから、そのときもそれは変わらなかった。ルークを見た瞬間に彼女が駆け出し、その帽子がふわりと風に飛んだ。
舞いあがる、緩くカーブする黄金のしじま。
予想外の色に、目が、眩んだ。
赤毛ではない王族。
それが帽子で隠し続けた理由かと、すんなり納得できた。
ガイ・セシルが彼女の顔を見たのは、出会って3年にもなってようやくの事であった。
それから彼女は隠す必要もないと言わんばかりに、帽子を被るのを止め、堂々とその顔をさらして公爵家に来るようになる。
「何かルークにありましたか?」
「いいえ。ルークは寝てしまいましたわ。部屋まで送って頂けませんか?」
「ああ…」
そういうことか、と頷いて、立ち上がる。子供だからか、それともガイが小さいだけなのか、彼女との身長の差はあまりない。
王女の少し吊り上ったまん丸の瞳が、心なし疲れているようで、眉を潜める。
正直、ガイはこの王女の事を憎んでいる。正確には、この国を。だから、彼女やルークに必要以上に関わる事はしたくない。けれど、それでも、彼女のその表情を気にかけてしまうのは生来の性格なのだろう。
「ナタリア殿下、顔色が優れません。ちゃんと休息はとっていますか?」
「まぁ…。心配を、して下さるのですか?」
「…当たり前です」
本当に驚いた、と言わんばかりに、まん丸の瞳をもっと大きくして、まじまじと見てくるものだから、さすがに居心地が悪くなって、身じろぎする。一体彼女の中でガイはどういう人物像なのか気にならないでもない。
「………ガイは、優しいのですね」
「ナタリア殿下?」
ひどく淡い微笑みを王女は浮かべ、なんでもありませんと首を振った。
ルークやガイを振り回しては大輪の笑顔を咲かせる少女とは、まるで別物。
初めて見た王女の違う一面に、ガイは内心息を呑む。
その微笑みはどこか空虚だった。
深淵の闇でも覗いてしまったかのような、深すぎるまなざしはどこかで見たことがある。
それが一体どこなのか思い出せず、ガイは眉を寄せた。
あの、自分の世界がすべてぶち壊されたあの日を除けば、記憶力は年のわりに確かな方だと思うのだが。
「早く行きましょう、ルークが風邪をひいてしまいますわ」
お腹を出して眠ってしまったんですわよ、と、可愛らしく怒る王女にどこか安堵して
、いつもどおりの"ナタリア"に、いつもどおりガイは笑って、ルークを運ぶために歩き出す。
違和感は些細な違和感のままに忘れ去られ、そのことをガイが思い出すのは、もうずっと先の話だった。
2011年7月31日
ガイに対して含みがあるナタリアと。
ナタリアに対して含みがあるガイ。
短すぎるけど、このくらい短編でやっていけたらいいなと思ってる(笑)
しかし需要がなさそうだ(汗)