『濫觴の日』
部屋の中に一つしかない扉が開く。
入ってきたのは小さな少女。
小さいといってもルークと同じくらいだろう。
目鼻立ちは整っていて、青のドレスが良く似合っている。淡いレースを重ねた深い帽子を置いて、座り込んだままのルークと視線を合わせるために膝をおる。
ひどく強い目をした少女だ。まっすぐに、ルークを貫く瞳の色は緑。
「初めまして、ルーク」
にっこりと笑った少女を、ルークはぼけっと見つめて、首を傾げた。
金色の髪は、ルークの世話役のような兄のような存在に少し似ていて、それよりも濃厚で艶のあるものだった。くるくるふわふわしているのがルークにとっては不思議だった。
だから、何も考えずに手を伸ばす。
柔らかくて、気持ちのいい触り心地だった。
片方の手で自分の髪を触って、比べてみる。
ぜんぜん違う感触だった。
「髪が、気になりますの?」
不思議そうに問われた。
ルークはうなずく。
少女はルークが髪を引っ張るので次第に前のめりになる。
「楽しい?」
「た、のしい」
たどたどしく告げて、和やかに笑ったルークに、少女の、強い視線が緩む。ほんのりと口元が開いて、笑みの形を作る。
なおも少女の細い髪の毛はルークの手の中にあった。
「これは、ちょっと予想外だなぁ」
少女は小さく小さく呟いて、ルークの長い髪を撫ぜる。
王族の証だという、赤い赤い、綺麗な色。
絶対に少女の持ち得ない赤い色。
―――持ちたくも無い色。
でも、綺麗だな、と思う。
この、ルークという少年の形をした、なんの記憶も持たない無垢な存在の髪の色は、まるで、かつて愛した砂漠の夕日。
不意に熱くなった胸を押さえて、ルークを見守る。
なんて、心地の良い色。
「ルーク、言葉は分かりますの?」
「ちょっと」
「それでは、今日は一杯お話しましょう」
にっこりと少女は笑って。
ルークに手を差し伸べる。
差し伸ばされた小さな小さな手のひらを、ルークは実に不思議そうに見つめる。ぼんやりと開かれた手のひらから、さらさらと金色の髪がこぼれて落ちた。
「どうされましたの?」
「……どうして?」
「どうして、とは?」
「ぼく、きおく、ないよ」
淡々と、この1ヶ月の間ずっと聞かれてきて、結論として出された事実をルークは告げた。
記憶どころか言葉すら忘れ、食べることも着替えることも何一つ出来なくなってしまった、大きな赤ん坊。
誰もがルークを見て落胆する。
誰もがルークを見て失望する。
誰もがルークを見て驚愕する。
それなのに、少女の反応はそのどれとも違った。
きっと知らないのだ。ルークの置かれた状況を。
だからルークは真実を告げた。
きっとこの少女も絶望してしまうのだろう。
もう慣れた筈なのに、微笑む少女の瞳が失望に染まることを思い浮かべたら、胸の奥がずきずきと痛くなった。
その反応が怖くて、ルークは静かにうつむく。
けれど少女は不思議そうな、まま。
「知っていますわ?」
それがどうかしましたの? と、少女は言う。
本当に、本当に、そう思っているような、そんなきょとんとした表情で。
「…へんな、やつ」
「まぁ。失礼ですわね」
「だって、ぼく、おぼえてないよ? あなたのこと」
驚きに染められたルークの顔を、どこか痛ましそうに少女は見つめ。
「関係ありませんわ。何も憶えていないのだと、ちゃんとわたくし聞いておりますもの。だから、記憶のない貴方と話をしにきたのですわ」
それがいけませんの? と、ぷくり、と頬を膨らませた少女の瞳に嘘はなくて。
胸が熱くなる。
彼女は、ルークをちゃんと見ている。
ルークの失った記憶じゃなくて、記憶を失ったルーク・フォン・ファブレを見てくれているのだ。
それが、たったそれだけのことが、まるで世界がひっくり返ったかのような衝撃で。
ただただ嬉しくて。
あふれ出す歓喜に、ルークは少女の手を思いっきり掴んだ。
「えっ!?」
突然の負荷に、少女はなすすべも無く倒れこむ。
倒れこんだ先に、なんて幸せそうな少年の笑顔。
がたたたたたっっ
「る、ルーク様!?」
「ナタリア様!?」
あまりにも激しい物音に、扉がぶち破られるような勢いで開いた。
ひと悶着あるだろうと思ってはらはらしながら、外で待っていたガイや使用人、それにナタリアの護衛。
彼らが見たのは、散らかったおもちゃの中で重なり合う少年と少女。
いったい何がどうなったのか、手をつないで転がっている姿。
ナタリアはつないでいない方の手で、ルークの赤い髪を撫ぜて笑う。
なんて、素直な眼をする子供なのだろう。なんて、幸せそうな、満ち足りた表情をするのだろう。
自分の失ってしまった何かをルークに見た気がして、ナタリアは少しだけ目元を歪めた。
しかしそれも長くはもたない。ゆっくりと立ち上がって、一緒にルークも立ち上がる。
なんだか気持ちがよかった。
身体の中の沢山の重石が、ぼろぼろと剥がれ落ちる気がした。
「よろしくね、ルーク」
「よろしくな! なたりあ!」
「あら、ご存知でしたの?」
「がいが、なたりあってひとが、いまからくるって、いってたから!」
「まぁ、そうでしたの」
「なたりあ、そとであそぼうっ」
言うが早し、あっというまに駆け出す。手を繋がれたままのナタリアも、反射的にルークに従ってしまって、その反応のよさと素早さに大人たちは驚愕する。
だが、それ以上に。
「ルーク様のあんな顔、初めて見た…」
ぽつん、とガイがこぼした言葉が、彼ら全員の感想だった。
記憶をなくし、言葉を忘れ、感情すらも曖昧になってしまった、前のルークとは全く違う子供。発見されて保護された少年は、まるで赤子そのものだった。
何も知らない、何も分からない。
そんな状況で、ルークの帰還を喜ぶ面々に囲まれた少年は、何もかもにおびえ、気弱に泣いていた。
少しは落ち着いたとはいえ、あんな天真爛漫な笑顔、見たことある筈もない。
ミィアというナタリア付きのメイドもまた驚きは隠せない。
彼女はルーク・フォン・ファブレを知らない。
以前の”ナタリア・ルツ・キムラスカ・ランバルディア”という少女は、ミィアをここに連れては来なかったから。
だから、彼女が知るルークの印象は幼い少女がたどたどしくも語ったもののみ。
賢くて、前向きで、国を、民を背負う覚悟を持った凛々しい印象。多分に少女の憧れや贔屓もあっただろう。それでも。
彼女に伝え聞いた少年とは、まるで別人。
それに。
(メリルのあんな顔も、初めて見たわ……)
遠ざかった背中を追いかけながら考える。
いついかなる状況であっても、王女以上に王女であろうとする少女。
年の割にひどく冷めていて、ひどく強い眼を持つ少女。
環境がそうさせたのであろうが、彼女の年相応なところなど、ミィアは見たことがない。彼女にとって一番近しいものは恐らく自分であろうことは分かっている。それでも、彼女にとって自分は、線を引かなくてはならない相手なのだろう。
気がつけば外に出ていた。
さんさんと降り注ぐ陽光に眼を細める。
幼い主の笑い声が遠く聞こえた。
なんて無邪気で、なんて幼い、その主の声。
「何か、嬉しいことでもありましたかな?」
「っ。…はい。とても」
唐突に問いかけられて、驚きを隠せないままに素直に答えていた。
白髪の老人はそんなミィアを見て、静かに微笑んでいる。
不思議な老人だ。
いつ来たのだろうか? まるで気付かなかった。
武に通じたものならば、老人の動作一つ一つが隙のない鍛錬されたものだと気がついたかもしれない。
「ナタリア様とルーク様がどこにいらっしゃるか分かりますか?」
「ええ、勿論ですとも。お二人とも楽しそうに走っていかれましたよ」
「そうですか…」
老人が指し示して二人の居場所を教えてくれる。
頭を下げてもう一度足を踏み出す。
光を浴びた緑が活き活きと輝いていた。
願わくは、この出会いが主にとって価値あるものであらんことを。
ひどく安らかな気持ちで、ミィアは笑った。
2012年1月22日
捏造ナタリアさんとレプリカルークの出会い。
"濫觴(らんしょう)"は "物事の始まり"って意味らしいです。
この設定だと、ゲームのバチカル3人組とはまたぜんぜん違った関係になるかと思いますw