『露呈の日』
赤い髪の少年と金の髪の少年。
小さな子供たちが、木を指さして何やら話している姿を帽子のレース越しに見て、チャンスだ、と思った。
その思考は一瞬にも満たないほどの、反射的な決断。
ナタリアは瞬時に次の行動を移した。
目の前を歩いていた白光騎士団の横をすり抜けて、走る。
そのあまりにも素早く、予測できない事態に、誰もが彼女を止められず。
ふ、と金の髪の少年がナタリアを見た。顔色が変わって、厳しい表情で、一歩引く。
赤い髪の少年はまだ気づかない。
ナタリアに付いてきたメイドが慌てて名前を呼んでいる。
白光騎士団が王族とは思えぬ俊敏かつしなやかなナタリアの動きに戸惑い、次の判断を下せない。
そして、風が吹いた。
その風を、さらなるチャンスだと少女はとらえた。
絶対的な好機。
小さく笑う。レースの下の表情は誰にも悟られず。
―――目の前の好機は絶対に逃すな。後からなんて考えるな? 直感に従うんだ。
(分かってるわ、お父さん)
頭の中に浮かんだ声に、決然と答えて、ナタリアは走る。
まるで一陣の風のように、軽やかに、涼やかに、速やかに。
顔を上げて真正面から受けることで、あえて風との抵抗を大きくして。
元々いつもより緩やかに結んでいたレースの首紐を、ごくごく自然に走る動作の中で引き抜いた。
「なっ―――!!!」
「え?」
「ナタリア様―――っ」
「金…色…?」
帽子が飛ぶ。
淡いレースを何枚も何枚も重ね合わせた帽子。
彼女の髪どころかその瞳も顔も覆い隠していた深いデザインの帽子。
少女は笑う。
頭が軽い。
見ればいい。
王家と何のかかわりもないこの髪を、目を、顔を、体を。
全て。
メリル・オークランドだった少女の全てを。
その瞬間、確かに誰もが彼女に目を奪われ、その存在に圧倒され、その姿を脳裏に焼き付けた。
彼女の願うままに。
金縛りにあったように動けない者たちの中、もうすぐ赤毛の少年の下にたどり着くその時。
彼女の来訪を知らされ、屋敷を出てきていた男が、静かに立っていた。
小さな少女の動きはそこで終わり、息を切らしたメイドが後ろから駆けてくる。手に持っているのは飛んでいった帽子だ。それを今更少女にかぶせるわけにもいかず、慌てて男に頭を下げる。
「ようこそいらっしゃいました、ナタリア様」
ファブレ公爵。クリムゾン・ヘアツォーク・フォン・ファブレ。代々王家と婚姻関係を結ぶ由緒正しき貴族の一人。
キムラスカ・ランバルディア王国軍の元帥であり、ルークの父親であり、赤い髪と緑の瞳を持つ準王家。
目の前に立ちふさがった男の鋭い視線を物ともせず、ナタリアはふてぶてしいほどの緩やかさと冷静さをもって、笑顔を浮かべて見せた。
今頃外で遊び転げていた赤い髪の少年は、その汚れを落とされて部屋に連れて行かれているだろう。
その、小さな猶予期間。
本来の順序通り、屋敷の主への挨拶を型式通り行って、ファブレ家のメイドと兵がすべて部屋からいなくなった瞬間、空気が、冷たく凍りついた。
少女とその婚約者の父親の、和やかなやり取りはここにはない。
屋敷の応接間で、互いに冷たい目でもって男女は向き合う。
体格がよく威風堂々とした雰囲気を纏う男と、一目で高級とわかる青いドレスを身にまとうかわいらしい金色の髪の少女。
互いに、座る事すらせずに、ただ、向き合う。
「ナタリア様、どうして来たのです」
厳しい誰何の声に、ナタリア・ルツ・キムラスカ・ランバルディアと呼ばれる少女は、まっすぐな目でファブレ公爵を見上げた。
その強い緑の眼差しは、かつて見ていたものとは比べ物にならない。恐ろしくまっすぐな不屈の瞳。不遜で、冷静。ともすれば冷血で傲岸な光。こんな幼い少女にはまるで似合わぬ瞳だ。どれだけの覚悟を、どれだけの決意を秘めれば、そんな眼をするようになるのか。
ファブレが知っている、ナタリア・ルツ・キムラスカ・ランバルディアは、彼女とは違った。その姿かたち、性格、髪の色、表情、輪郭、体格。かろうじて似ているのはその瞳の色と、身長くらいなものか。
ナタリア・ルツ・キムラスカ・ランバルディア、本来そう呼ばれていた少女は、王家に伝わる赤い髪を長く伸ばした、王妃によく似た娘だった。優しげな面差しはシュザンヌにも似ているような気がした。
緑の瞳に力はなく、いつも人目を避けるように自信なくうつむいていた。自由などどこにもなく、ありとあらゆる勉学を詰め込まれ、その過密すぎるスケジュールは一般的な大人のものを遥かに凌駕するだろう。それは王族として生まれたのなら当然の教育。されど、幼い子供にはあまりにも過酷。
遊びたかっただろう。ただの子供の様に、何も気にせず無邪気に、自由に振舞いたかったのだろう。
けれど、幼い少女にはそのやり方すらもわからず、立場はそれを許さず。いつしか抵抗すら忘れてしまったのだ。
だからこそ、彼女の瞳は力が無かった。流されるように生きていた。
それでも、頑張ろうとしていた。
この家に来て、幼いルークと触れ合うことで、少しずつ、少しずつ前を向くに至ってきていたのだ。
そんな少女が、ファブレにとっては好ましかったし、将来仕える相手だと思えば、更なる成長を望んでもいた。
覆されたのは、自分の息子が誘拐されたあとのことだ。
王からの突然の呼び出し。
王の玉座の前に佇む小さな見知らぬ少女。
威風堂々と、本物の王女よりもはるかに王女らしく、金色の髪の子供はそこにいた。
「幼馴染が帰ってきたと聞きました。心配して尋ねるのはいけませんか?」
至極不思議そうに返されて、ぐっ、と詰まる。
実に表向きで、実に分かりやすい虚偽。
挑むようなその緑の瞳は、ファブレの態度をただただ冷静に観察している。
「そんな事はありませんが…ナタリア王女もお忙しいと聞いております。お体の調子も崩されたばかりだと」
「まぁ。そんなものとっくに回復いたしましたわ。それに、大事な婚約者、いずれこの国の王となられるお方の一大事なのですわ。それなのに心配も許されないと言いますの?」
「ですが、わが息子は未だ回復には遠い状態でして…」
「聞いておりますわ。お記憶を失われてしまったとか…とても痛ましいことです」
そっと、目を伏せた王女をファブレもまた冷静に観察する。
入れ替えられた王女。
キムラスカを繁栄に導くと預言に詠まれた少女。
これから先仕えなければならぬ相手だ。
幾ら真実を知っているからとしても、これ以上の干渉はするべきではないだろう。
―――とっくに手遅れかもしれないが。
「…それで、どうされるおつもりですか?」
「どう、とは?」
「ご存知のとおり、うちのルークは記憶がない。今会ったところで何もならないと思いますよ」
「…………記憶があった方が、面倒だったとは思いませんか?」
目を伏せたまま、何事かに思い沈んでいたようだった王女の、ささやくような幼い声に、ファブレはギクリと身体をかたくした。
ゆっくりと顔を上げた王女の眼差しはどこまでも深く、ファブレの奥の奥を覗き込むかのように鋭い。
「わたくしが入れ替えられたことを知る人間は極僅かですわ。王と貴方、メイドが1人と騎士が数人。この国の王女ともあろうものが、たったそれだけにしか顔を知られていない。その意味が、理由が、貴方には理解出来ていますか?」
心の奥深くまで土足で上がりこむ鋭い問いかけ。新緑の瞳がファブレの体を縛り付ける。これが、本当に自分の息子と同じ年の子供か?
そうだ。
彼女の問いかけはつまり、最初から、仕組まれていたことなのだ。
この、人を人とも思わないような、くだらない入れ替わり。それに連動するように起きた、彼女の許嫁の誘拐。記憶の喪失。
つまりは全て、預言という台本に乗っ取った演劇。
ありふれた予定調和。
「何を―――知っている」
「わたくしは、何も。―――ただ、考えるだけ。何が預言によっておこり、何が人の手によっておこるのか」
「人の手に、よって…」
「貴方こそ、何を知っているのですか?」
「―――っ」
彼が、クリムゾン・ヘアツォーク・フォン・ファブレという男が、自分の息子を遠ざけ愛さぬ理由。
当然この目の前の少女は知らないことだろう。
それでも、新たなキムラスカの王女は、隠し事は許さないと言わんばかりのまっすぐな瞳で、男を射抜く。
なんて、違う、キムラスカの王女。
王は、何を思って、この王女と接しているのだろうか。
―――不意にそんなどうでもいい疑問が頭をよぎった。
預言のためとはいえ、自分の娘を殺した要因であり、娘の居場所を完全に奪った少女。
情など、湧くはずもない。
芽生えるものなど憎悪以外にあるはずもない。
「旦那様? ルーク様の準備は出来ておりますが」
ノックとともに、扉の向こうから聞こえた声に、はっと我に返る。
それは少女も同様。
「…今日は、婚約者の顔を見に来ました。それと、わたくしの顔を覚えてもらおうと思いまして」
くすり、と笑った少女に、クリムゾンは表情一つ動かさず、彼女に背を向けた。
「好きにしなさい」
全てが預言に従って起きたことだというのなら、そこに人間の思惑など入る余地はないのだろう。
死んだキムラスカの王女を嘆くことも。
新たなキムラスカの王女を疎むことも。
全て無駄な事。
―――本当に?
扉が開く。
偽物の王女と、記憶を失った婚約者。
そんなことまで預言に書かれているというのだろうか。
全てに挑むような少女の眼差し。
―――何が預言によっておこり、何が人の手によっておこるのか。
少女の声が頭にこびりついて離れなかった。
2012年9月17日
ルーク父とメリルさん。