『国を背負う者』










 息を、吸った。深く。深く。
 ゆっくりと深呼吸して、目を開く。
 心配そうな、父のまなざしに、笑う。

「最後のチャンス、というわけですわね」
「ナタリア…」
「いいのです。お父様」

 安心させようとして、殊更笑う。
 少しだけ失敗した笑顔で、ナタリアは頷いた。

「いいのです。彼が帰ってきただけで、もう十分です。…きっと、彼は選ばないでしょう。だから、彼のことはお願いします」
「…いいのか? 本当に」
「…ええ、お父様」

 俯いた王女の横顔は金色の髪で覆い隠され、インゴベルゴ六世にその表情は分からない。
 顔を上げた王女の瞳はまっすぐに王へと注がれる。

「私を、育ててくれてありがとうございます。私はこの国が好きですわ。とても、とても。この国を愛しています。この国を守りたいと思っています。この国の繁栄を願っています」

 だから。

「託します」

 王とも王妃とも違う色の瞳は強く光り、まっすぐに父を貫いた。







 家で、ぼんやりとしていた。
 帰ってきて、久しぶりに一人になった気がする。
 昔は一人で退屈するのが嫌で嫌で仕方なく、落ち着きなく外に飛び出していたものだが、散々祝われてどつかれて泣かれて話して、そんな事が何日も続いたものだからすっかり疲れてしまった。

 だから、余計に気付かなかった。
 寝ているベッドの横、窓枠にひょっこりと金色の髪が覗いたこと。

「ルーク、少しお時間よろしいでしょうか?」
「ナタリア? どうしたんだよいきなり…って…!? どこからっっ!!!」

 窓のサッシに腕を乗せて、その上にちょこんと顔を乗せている王女様に仰天して、ひっくり返った。
 その反応に、ナタリアはころころと笑う。

「ふふ。気にしないで下さいな」
「はぁ? …ったくガイじゃあるまいし…」
「お時間、頂いてもよろしいですか?」
「あー、なんなんだよ。ったく」

 ほら、と手を伸ばす。大きな目が少しだけ開いて、窓から引っ込んだ。不思議に思って覗いてみると、履いている靴を脱ぎたいのだが、脱いだ後の足をどこに置くのかで非常に迷っている模様。

 思わず苦笑して、ナタリアの手を引っ張る。
 自分とは違う、あまりに細く、小さな手のひら。
 よいしょと引き上げて、腰を持ち上げる。まるで子供のような軽さしかない少女は、あっさりと浮いて、ベッドの上に腰を置く。
 きょとんとしてベッドの上で固まる様は、淡い青のドレスの豪奢さもあって人形のようだ。2年前より少しだけ伸びた金の髪が肩先で踊る。

「くっ、靴、汚れていますのよ」

 一体どこを通ってきたのか、宣言どおり彼女の華奢なピンヒールは、泥がしっかりこびりついていて、ナタリアが少し動かすとシーツに付きそうになる。
 その事に気付いた少女は、中途半端に足を浮かしたままで固まった。

「脱いだら外にまた置くって」
「ぬ、脱いだら泥がシーツに付いてしまいそうですわ」

 お姫様の言に、ルークは笑う。

「良いって別に。今までだって散々汚してきたんだから」
「まぁ…。ルークったら」

 あきれたような言葉に、あ、説教が始まると思い、少しだけ身を引く。
 2年ぶりでの説教は懐かしいような気もするが、やっぱりあまり聞きたいものではない。
 ルークのその様子を見て、意外にもナタリアは小さく息を吐くにとどめた。
 逆に驚いて、ルークは何度も瞬きする。確実に説教がくると思ったから。
 ナタリアは尚も逡巡するように何度か視線と手を動かして、ようやく靴を脱ぐ。泥を落とさぬよう慎重に、そろりと外に出して、ようやくルークに向き直った。
 息をついて、おもむろに口を開いた。ひどく真剣な瞳でルークを見上げ。

「…ルーク。単刀直入にお聞きします。貴方は、私の伴侶になる気がありますか?」
「……………はぁ!?」

 突然何を言い出すのだ、とルークはたまげ、胡乱気にナタリアを伺う。何かの聞き間違い、もしくは冗談ではないかと望んで。
 だが、ナタリアの翡翠の輝きはどこまでも真剣だった。まっすぐにルークを見上げ、答えを待っている。
 ルークもそれに気付き、混乱する頭でなんとか言葉を紡ぐ。

「おっ、俺は…っ、その…ルークじゃねぇし…。この身体だって…ほんとは」
「ルーク。間違えないで下さいな。私は貴方に聞いているのです。今、私の目の前にいる貴方に聞いているのです」
「……………………」
「その気があるのならイエス。その気がないのならノー。それだけ、お聞かせください」
「…………………」
「…………………」
「………お、俺には無理だよナタリア。俺は、レプリカルークで…頭もわりぃし、周りのことなんか全然見えねえ。人の上に立つ資格なんてないんだ。………それに、俺は…あいつの変わりには、なれない…」
「それは、ノーということですか?」

 ナタリアの表情は変わらなかった。長年の婚約を解消することは、彼女に沢山の変化をもたらすに違いないのに。そう思いながらも、ルークははっきりと頷く。

「…ああ」
「それでは質問を変えます」
「?」
「貴方はこの国が好きですか?」
「あ、当たり前だろっ! そんなの!!」

 この国でルーク・フォン・ファブレは生まれ、生きた。それだけは間違いのないこと。レプリカもオリジナルも関係ない。ルークは幼馴染が愛するキムラスカ・ランバルディアという大国を愛している。
 それを聞いて、その言葉が嘘偽りではないのだと確信して、ナタリアはほぅと息をついた。
 傍目からも彼女が力を抜いたのだと分かり、ルークまでもがほっとする。

「……そう。良かった………」

 静かに呟いて、嬉しそうに笑う。俯いた表情はルークには分からないけど。

「ナタリア?」
「ルーク、ティアと幸せになって下さいね。私、お2人の結婚をとても楽しみにしているのです」
「はぁっっ!? な、なんで俺があいつと!!」
「まぁ…お好きなのでしょう?」
「なっ、何でっっ!」
「見ていれば幾ら私でも分かりますわ。…ルークもティアも、本当にお互いを大事に想っているのですね」
「…っっ!!!!!!」
「ふふ、お話が出来て良かったですわ。それでは失礼しますわね」
「おっ、おうっっ!!!」

 言うが早いが少女はベッドから窓枠へと足をかける。ドレスの裾が際どい感じにめくれ上がったので、ルークは慌てて他を向いた。ほんの少し少女は振り返り、ルークの横顔をじっと見つめた。

「…………ルーク」
「あ?」
「…ありがとう。私も、この国が本当に大好きですわ」

 笑ったのだろうと思った。靴を履いた少女はしゃっきりと背を伸ばし、ルークに顔を見せようとはしなかったから。
 そのまま少女は駆け出し、あっというまに姿を消した。

「…なんだったんだ? あいつ」

 呆然としたルークの呟きに、答えるものはいなかった。






 それから1週間もした頃だっただろうか。






 ルークは叔父のインゴベルト六世に呼び出され、謁見の間まで来ていた。
 最初から人払いが成されていたのか、国王とルーク、唯の2人だけ。呼び出され、しばらくは沈黙だけがその場を支配していた。
 ルークが訝しげに王の様子を伺い、その表情に驚いた。
 ひどく、辛そうな、苦しそうなまなざしをしていたから。
 それからもたらされた言葉を、ルークは一生忘れないだろう。
 耳で聞いた言葉が信じられなくて、震える唇で聞き返す。

「…今、なんっつった?」
「お前が次の王となるのだ、ルーク・フォン・ファブレよ」

 それは、ルークにとって思ってもみなかった言葉。
 あってはいけない言葉。

「何、言ってるんだよ。俺は…俺はルークの変わりは出来ないって、ナタリアにっ!」
「キムラスカの血を受け継ぐ赤い髪の男児。そして、ユリア・ジュエの唯一の子孫たる女児。…2人こそこの国の新しい未来を築くに相応しい」
「…!? …何、言って。…だって、ナタリア、は」


 ―――ティアと幸せになってくださいね。


「っっ!!!」
「…ナタリアは、マルクト王の下へ嫁いだ。この国を受け継ぐのはお前しかいない」
「………は? え? だ、って、ナタリアのヤツ、何も…」

 動揺して立ち尽くすルークに、ほんの少しの苛立ちとともに、インゴベルト6世は嘆息した。

「…もしも、ルーク・フォン・ファブレとの婚約が生きていたのなら、ナタリアはこの国の王女として、王妃として、今もまたここにいただろう」
「―――っっ」


 ―――貴方は、私の伴侶になる気がありますか?


 あれは、そういう問いだった。
 彼女が愛したこの国で生きるのか、それともただ一人違う土地で生きるのか。

 アッシュが生きていたなら。
 かつてルークと呼ばれたオリジナルの意識があったのなら。
 ルークはイエスと答え、国の王へとなったのだろう。

 けれど、ルークはオリジナルではなくて。

 生まれてすぐに全てを失った少女は、ここにきてまた全てを失ったのだ。
 愛した婚約者も、交わした約束も、守りたいと願った祖国も、その全てを、ルークが奪った。

「あ、あいつは、何も言わなかった。そんなこと…何も…」
「ナタリアは、分かっていた。お前がナタリアを選ばない事を…。ただ決着をつけたかったのだ。ルーク・フォン・ファブレという男と、この国に…」

 そしてナタリアはルークに国を託し、去った。

「お、俺は…そんなつもりじゃ…」

 ナタリアの背負ってるものなんて何も知らなくて、彼女がどんな気持ちで答えを求めたのかなんてまるで知らなくて。
 ただ、ナタリアの気持ちには答えられない、それだけの、ことで。
 それがこんな結果をもたらすなんてことを知っていたら、どうしていただろうか。


 ―――お2人の結婚をとても楽しみにしているのです


 そうふんわりと笑った少女は、何を考えていたのだろう。


 ―――この国が好きですか?


 当たり前だ、と答えたとき、ひどく嬉しそうな表情をした。とても、淋しそうな表情を、した。

 彼女は。

「…っっ!!!!!!!」

 足が、動いていた。
 謁見の間を飛び出し、ナタリアの部屋へ向かう。絨毯の敷き詰められた廊下を走り、殴りつけるようにしてナタリアの部屋の戸をあけた。

「ナタリア!!!!!!」
「………」

 王女としてはこじんまりとした部屋の真ん中に立っていたのは、幼馴染の少女ではなくて。

「てぃ……あ…?」

 金色の髪とは似ても似つかない、栗色の長い髪を震わせた少女は、迷うように口を開き、言葉を選ぶように視線を彷徨わせる。

「…ぁ」
「…ティアが、なんで…?」

 そこで、ようやく部屋が妙に片付いていることに気付いた。
 小物がない。ぬいぐるみとか写真とか、ナタリアが大切にしていたものたち。
 その視線に気付いたのか、ティアが少し俯いて説明する。

「…ここが、私の部屋になるんですって。ナタリアのものは、もう、全部マルクトに送ってあるって」
「…っっ」

 そうして、キムラスカのナタリアの場所はなくなっていくのだ。
 全て、消えてしまう。

「お前…知って…?」
「…ナタリアの婚約の話は、大々的に発表されたの。…貴方の元には連絡がいかないようになっていたみたいだけど」
「…っっ!!!!」

 そういえば、以前ジェイドとアニスが来たとき、2人は妙に何かを言いたげだった。遠回しに何かを言おうとしていた。

 知らないんですか?
 知らないの?

 2人の声が、頭の中で重なる。

「なんで…なんで俺だけっっ!!!」
「言えば、貴方はナタリアを選ぶでしょう? …それが嫌だって、言っていたわ…」
「っっ」

 全部、手遅れなのだと、唐突に気がついた。
 ルークが何を言ったとしても、何をしたとしても、もう、手遅れ。
 一瞬間も前に、ナタリアの心は決まっていた。
 他の誰でもない、ルークがそれを決断させたのだ。

「………なんだよそれ…っっ」

 拳を握り締めて床に突っ伏したルークに、ティアは言葉をかけるかどうか迷い、結局彼に向かって背を向けた。静かに、静かに、扉を開く。

 ―――パタン

 閉じた扉の向こうから聞こえてくるかすかな嗚咽に、ティアは扉を背に足を止めた。


 ―――この国を、お願いします。


 笑顔だった。
 最後まで。

 本当に、最後の瞬間まで。


「ナタリア…っっ」


 ずるりと足の力が抜け、扉を背に座り込む。

 どうして笑うのだろう。
 どうして笑いかけてくれるのだろう。

 ルークの隣を奪ったのは紛れもない自分なのに。
 キムラスカ・ランバルディアから居場所を奪うのは私なのに。

 恨んでくれた方が、余程気が楽だというのに―――!







 ナタリア・ルツ・キムラスカ・ランバルディアは、ゆっくりと息を吐いた。
 会場はまだ大きく揺れている。
 何故なら、今まさに、ナタリアがルークとの婚約を解消し、マルクト帝国へ嫁ぐことを発表したから
 会場の端に、ジェイドとアニスの姿が見えた。その表情までは、見えない。
 見えなくていい、と思った。

 深く、息を吸い込む。
 民の顔を、自分を王女と認めてくれた民の一人一人の顔を見つめる。

 話し出すその気配を察したように、会場が潮をひくように静まり返り、同時に声が響いた。

「私は、この国が好きです。
 この国の民が好きです。
 この国の景観が好きです。
 この、キムラスカ・ランバルディアという大国を、心から愛しています」

 出来る事ならば、いつまでも、いつまでもこの国に居たかった。
 この国で最期を迎えたかった。
 あの人との約束を守りたかった。

 貴族以外の人間も貧しい思いをしないように。
 戦争など起こらないように。
 この国を、変えたかった。

 けれど。

「…たとえどこに居ようとも、私がこの国を愛していることは変わりません!」

 マルクト帝国にいても、この想いだけは変わらない。
 ナタリア・ルツ・キムラスカ・ランバルディアは、この国を愛している。

 瞳を閉じる。
 少し、呼吸を整えて。

「そして同時に、私はルーク・フォン・ファブレを愛し、ティア・グランツを愛し、そして信じています。彼らならこの国を心から愛し、素晴らしい未来を築いてくださると…この国を導いてくださると信じています!」

 ティアを振り返る。
 自分の後ろで、戸惑いを隠そうとして、失敗している少女。
 いつも毅然として、冷静で、そんなところに憧れを持っていた。
 けれど、本当は自分よりも2歳年下の少女でしかなくて、沢山の悲しみと、苦しみをその胸の奥に抱いているのだと知っている。

 そんな彼女だから、信じられる。
 そう、自分は信じている。
 彼と彼女なら、きっとこの国を変えることが出来る。

「だから、どうか。どうか彼らを信じてください」

 笑顔を作る。
 自信に満ち溢れた、王女として笑顔を。

 大丈夫だ。
 この国に必要なのは預言でも預言に詠まれた血を引かぬ王女でもない。
 預言に描かれていない王と、かつて預言を詠んだ者の子孫。
 ユリア・ジュエの子孫自らが預言を捨てる。これ以上の預言との決別があるだろうか。
 彼らこそが、預言にない未来を作ることが出来るのだ。

「…彼らを沢山の試練がこれから襲うでしょう。その時彼らを救えるのは貴方方の声なのです。そう、かつての私がそうであったように…」

 何度も、何度も支えられた。
 何度も、何度も助けられた。
 自分が王女でないと知り、王の娘ではないと知り、崩れ落ちたナタリアを救い上げたのは、紛れもない民の声。
 今この瞬間まで、王女として立っていられるのは民の声のおかげ。

「これは、この国の王女としての最後のお願いです。ルークを、ティアを、この国を支えてください。この国を愛してください。この国の未来を築いてください!」

 それが、ナタリア・ルツ・キムラスカ・ランバルディアとしての最後の願いだ。

 深く、息を吐いて、頭を下げた。
 さようなら。
 さようなら。
 キムラスカ・ランバルディア。

 

 顔を上げた王女の眼差しはひどく優しく、けれどもとても強く、まっすぐで。
 

 それは、ナタリア・ルツ・キムラスカ・ランバルディアがキムラスカ・ランバルディアで民の前に顔を見せた最後の日になった。








 ―――ND2021 レムデーカン・ルナ・1の日
 ローレライの力を継ぐもの、以後の数百にわたる治世の基盤を築いたキムラスカ・ランバルディアの王となる―――
2008年1月6日

ED後でアッシュの記憶持ちルークで、ルクティアピオナタ?
国を託すナタリアが書きたくて書きました。
思ったより長くなってしまいましたが、ED後にありえそうな結末のひとつというわけで。
最後の日付、ルークが帰ってきた次の年の1月1日(月)…の筈。


 空空汐