『遡る夢の果て』
―――追いかける。
どこまでも。どこまでも。
何かを追いかけて、追いついて、また追いかけて。
それが、彼女の人生。
何かを置き去りにしても。
何かを見失っても。
何かを見落としていても。
ただ、無垢に、無邪気に、清廉に走り続ける。
そうして、大切なものを、永遠にこぼし続けるのだ。
「―――っ!」
どくどくどくと全身に血が駆け巡っている。とんでもない勢いで。通常の倍以上の速さで。額から汗が伝う。眦からは涙がこぼれる寸前。喉はからからに乾いていて、何か声にならない言葉を叫ぼうとして、言うべき言葉を失った。
何を、言おうとしたのかしら?
ナタリア・ルツ・ランバルディア・キムラスカは己に問いかける。
遠ざかるのは背中。
ずっと昔、欲しいと憧れた夕日のように赤く輝く長い髪。
手を伸ばしても決して届かない。届くはずがない。彼らは、自分の手の届かないところにいる。いつも自分を置いて行ってしまう。ついさっきまで隣にいたのに。
―――彼ら?
記憶は混乱している。夢を見た。長くて、すごく長くて、切なくて、優しくて、悲しくて、とてもとても愛おしい夢だった。
―――それは本当に夢だった?
頭が痛い。
何か警告を鳴らしている。警鐘が鳴っている。痛い。痛い。痛い。痛い。
胸を抑える。きつく。柔らかく滑らかな衣服を握りこんだ。心臓の音は未だ煩い。早鐘のように鳴り響く理由が分からない。ただ、苦しい。
置いて行かれる―――焦燥。
何もできない―――後悔。
まるであの時のようだ。
ルークがいなくなってしまったあの時。
あの悲しみ。身を引き裂かれるような苦しみ。
でも、ルークは帰ってきたでしょう?
何も心配する必要なんてない。ルークはここにいる。
ナタリアの大切なルークは、変わらずちゃんと五体満足で帰ってきてくれた。
ただし―――記憶をすべてなくして。
違う。
その言葉が、頭に浮かぶ。浮かんで支配する。
違う。
違う。
違う。
何が違う? どこが違う? どれが違う?
全身を流れる汗が増す。既に顔面蒼白で、全身氷のように冷たい。
明らかな、異常状態。けれどもここに彼女の異常に気づいてくれる人間はどこにもいない。
ふらふらと、揺れる視界の中で、不意に、部屋に置いてある大きな全身鏡が目に入る。
そこにいたのは、蒼白な顔の、十代半ばの、あどけなさが残る、少女。
「え―――っ?」
目の前にいる少女が、誰なのか本気で分からなくて、ナタリアは戸惑いがちに声を上げた。
手を伸ばすと、鏡の中の少女も伸ばす。
夢でも見ているような心地で、広いベッドの上を両手足で這い進んで、危なっかしい足取りで少女は鏡の前まで歩いた。
そっと、鏡に手を触れる。
ひんやりとした感触。
金色に輝く髪は肩の上でそろえていて。
本来白磁のきめ細かな肌はとても青ざめていて。
翡翠に輝く瞳は戸惑い深く揺れていて。
伸ばした手足はまだ大人になりきれない未成熟なもので。
これは私?
本当の私?
何が本当?
本当は誰?
私じゃない。
これは私じゃない。
確かに私だったけど、私じゃないのだ。
だって、わたくしは、もっと、大人じゃなかったかしら―――?
混乱して、何が何だかわからなくて、ぐるぐるぐると回る視界が平衡感覚を失ったと教えてくれた。
青ざめた少女は、あまりにも覚束ない足取りで立ち上がろうとして、そして、もう一度倒れた。無意識に体を支えようとした手が鏡の隣の飾り棚に触れて、その上に載っていたものが派手な音をさせて落ちる。
絨毯をもってして、派手な音を響かせた部屋に、朝の支度を身構えていたメイドが血相を変えて部屋に入ってきた。幼い主君のひどい有様に唖然として、慌てて駆け寄る。それを感じながら、声を聴きながら、ナタリアは目の前に落ちて砕け散った写真立ての中身を食い入るように見ていた。
赤い髪の、幼い、少年。
―――あなたは、だれ?
それきり、意識が途絶えた。
目が覚めて、ナタリアが最初にしたことと言えば、目の前にいた医者に今日の年号と日付を確認することだった。よって、もたらされた情報に、ナタリアの思考は驚きと同時に納得した。というか、納得しざるを得なかった。
混乱から一時休んだのが良かったのか、今回の覚醒では実に滑らかにナタリアの頭は回り始めていた。
事態を正確に、そして冷静に把握する。
それは子供らしからぬ状況判断能力だったが、もともと王族として育てられたナタリアにとっては得たるものでもなかった。
思い出す記憶の断片。
夢、と呼ぶにはあまりにも確かで、あまりにも理不尽で、あまりにも強い感情を伴いすぎている。だからそれはきっと、本当にあった、ことなのだ。
たとえばそれが、どんなに現実離れしたことであっても。
たとえばそれが、今現在の常識ではあり得なくても。
たとえばそれが、世の倫理から外れ、耐えようもなく許しがたいことであっても。
―――ルークがもう一度屋敷から姿を消してしまうことも
―――彼が父のように慕う男のすることも
―――ホド大崩落という悲劇も
―――レプリカ、と呼ばれる禁断の技術も
―――自分が、偽物の王女であることも
―――彼らが、消えてしまうことも
全て。
―――すべて。
全てが、本当の、出来事。
「―――そんなの、許せませんわ」
ぎり、と小さく歯をかみしめる。
声は、誰にも聞き取れなかっただろう。
医師の声と、駆け付けたお見舞いの客でここは騒がしい。
そう。
許せない。
ナタリアはずっと許せなかったのだ。
自分の前から消えて行ってしまった彼らの事が。
彼らにすべてを背負わしてしまった自分の事が。
記憶は曖昧だった。けれども鮮烈だった。
おぼろげな記憶を必死に頭の中で捕まえる。
失ってはいけないものだと直感していた。
ナタリアは、彼女の記憶が確かなら、既に死んでいる。
かといってここにいるのは決して死人ではない。確かな血肉を持った、その上幾つも若返った、まだまだ幼い少女のころの自分だ。
何が原因なのか。
何故、今このような状況なのか。
彼女の感覚では、死んだ自分の記憶と経験すべてをこの小さな体に押し込めたような気分だった。
記憶は連続している、が断絶している。
確かにナタリアはナタリアであったが、昨日までの自分の記憶を、彼女は思い出すことができなかった。
ナタリアにとっての今日は死んだ自分の明日。
(過去に戻ってきた、ということでいいのかしら…?)
ひっそりと考える。
朝から倒れた少女は、今日の予定の全てがキャンセルになり、部屋に押し込められた。
メイドは部屋の隅に控えているものの、ナタリアは一人だ。普通の人間なら他人が部屋にいる状況が気になるところだが、幼いころから常に人目にさらされてきた少女にとっては大したことではない。むしろ、本当に一人になれる時間の方が彼女には少なかった。
鏡の中の少女。
ナタリアの記憶にある自分の姿とはまるで違う。
ナタリアが死んだのは30半ば。老けていた、とは言わないが成熟していた。既に完成されていた。幼い自分というのはこんなものだっただろうか?顔はまん丸していて、どこもかしこも柔らかい。王族としては少し行き過ぎるほどに武芸を嗜んでいたはずだが、手の平は豆の一つもなく、傷もない。王族の、何も知らない手の平。
たくさんのものを持ちすぎて、こぼしてしまう小さな手の平。
その小さな手の平を握りしめる。
医者に聞いた年号から考えると、今のナタリアはまだたったの14歳。14歳の自分が何をしていたか、なんてさすがに覚えていなかった。
ただ。
(ルークが、もう一度行方不明になるまであと4年)
それだけ分かれば十分だった。
走り続けてきた少女の、零してしまった大切なものを、拾いに行くための時間だ。
そっと笑う。
嬉しかった。
本当は、走り出して飛び回りたいほどに。
もう二度と届かないと思っていた大事なものに、手が届く。まだ、失っていない。
(絶対に、助けてみせますわ)
密やかな決意はやがて、この世界を大きく変動させていくことになるのだが…。
そんなことはまだ誰も知らず。
―――時は、静かに流れ続ける。
2013年7月12日
ふと逆行ネタを書きたいななんて思ってしまったので。
続きも書けるといいんですけど(汗)
空空汐