2009年5月
「フィリア」
と呼ばれる。
低い声が耳朶を打って、全身を駆け巡る。
それは、何とでもない事だ。何とでもない日常の光景で、何とでもない当たり前の事。何も特別じゃないし、何も大事じゃない。
だから、変な感情なんてにじみ出さないように「はい」と答える。
「はい、何でしょうか? スタンさん」
「うん。フィリア」
何でもない事。だから、動揺なんてしていない。
「スタンさん?」
「うん」
「…あの、スタンさん?」
「フィリア・フィリス」
突然呼ばれたフルネーム。それが何故かとてもやさしく、とても大事に響いたような気がして、過剰に反応してしまう。
きっと顔はもう真っ赤だ。恥ずかしい。
「あっ、あの、スタンさん?」
声が上ずってしまう。こんなんじゃいけないと思うのに、スタンの顔はとても穏やかで優しかったから、一体何を言われるのだろうか、と緊張する。平静なんて、保てない。
「すごく、綺麗な名前だよね」
だから、何度でも呼びたくなるんだ、なんて、とんでもないことを言ってくるから、フィリアは真っ赤になって立ち尽くした。
そんなに優しい顔と声で、嬉しくて仕方がなくなることを言わないで欲しい。
フィリアにしかそんな事思わないんだけどね。
なんて、本人も不思議そうなその呟きは、勿論フィリアには届かなかった。
...モドル?
「ハロルド…お前、何してる」
「あら、ディムロスじゃない。なぁに?」
「…気のせいか…俺にはお前が人体実験をしようとしているように見えるのだが」
「人体実験?どこが?」
「……それ以外の何に見えると言うのだ…」
「えーっと。お料理?」
「………せめてそのメスは下ろしてくれ…シャルティエが怯えているだろう」
「た、た、た、助かりましたぁ〜…!ディルロス中将〜」
「あー。シャルティエーっ!?」
「ひぃっ!し、失礼します!!!」
「ちょっとこらディムロス!人の邪魔しないでよね〜折角の研究素材だったのに」
「………仲間で実験するのだけはよしてくれ」
後、俺以外の男と密室で2人きりになるのも止めてくれ。
...モドル?
2010年8月
「フィーリーアー」
ぽすん、と振動が来て、フィリアは心臓が出そうなほどに驚いた。
背中に人一人分の重みが加わっている。
「すっ、スタンさん!?!?」
「うん。フィリアは何してるの?」
ひょっこりと、フィリアの肩上に顎を乗せて、スタンは机の上を眺める。
暗闇の中、ほのかなランプで照らされた空間に敷き詰められた本の数々。
スタンにはまるで分からない文字の羅列。
む、と眉を顰めて、親の敵でも見るような目でそれらをにらみつける。
「すっ、スタンさんっ?」
スタンの吐息すらも感じるような顔の近さに、フィリアはピクリとも動けなかった。
「ねぇフィリア」
「はっ、はい!」
「寝よ」
にっこりとスタンは笑って、丁寧に、かつ強引にフィリアを抱き上げる。
とても軽いフィリアの体はふんわりとスタンの腕の中におさまった。
「すっ、スタンさん!?」
「うん」
「わっ、私まだ研究が…っ」
「んーでも、恋人が来てるときくらい休んでくれたっていいよね?」
「こっ…っ」
「恋人」
「………っっ」
顔を真っ赤にして動きを止めたフィリアにスタンは笑って、その額に唇を落とす。
別に付き合いはじめという訳でもないのに彼女は始終この調子だから、可愛くて仕方がないのだ。
そうして強引にフィリアをベッドに連れ込んだ途端、スタンは襲いくる眠気に身を委ねたのだった。
...モドル?
2010年10月
「あ、フィリア、頼みたいことがあるんだけどいいかな?」
唐突な、微妙に間延びした声が後ろか聞こえてきて、フィリアは首をかしげる。
頼みごととは何だろうか?
「はい、何でしょうか?」
反射的にというか、元々人の頼みを断れる性格でないフィリアは実に素直に返事をして、スタンにと向き直る。
そうしてみるとリーネ村の青年は半分寝ぼけ眼で、あまり頭が働いているようには見えなかった。その事を踏まえると、先ほどのスタンの声がいつもに比べて張りがなかったことも頷ける。
「あのさ、髪の毛結んで欲しいんだけど」
「………え? わ、わたくしがスタンさんの髪を、ですかっ??」
「うん。いい?」
「わ、わたくしは構いませんが…あの、本当にわたくしでよろしかったのですか?」
自然と疑いの含む声になってしまって、スタンはやはり寝ぼけ眼のままこっくりとうなずいた。
「だってフィリアが一番優しくしてくれそうだから」
無邪気で鮮やかな満開の笑顔は、フィリアが抱いた嫌な気持ちも全部吹き飛ばしてしまった。
だからフィリアは笑って、自分の荷物から櫛と紐とを取り出して、長い長い金の髪を手にとったのだった。
...モドル?
2010年11月
石像だと思った。
なんて出来の良い美術品なんだろうと。
だってあまりにも綺麗だったから。
ディムロスに言われてパナシーアボトルを使い。
固まった時間が動き始めて。
灰色は綺麗な色彩に色づき始めて。
その光景からひと時も目が離せなくて。
きっとその瞬間を自分は一生忘れることが出来ない。
「フィリア」
「はい。なんでしょうスタンさん」
身体ごと振り返って、見つめてくる眼鏡越しの柔らかい眼差し。
その大きな瞳がとても好きで。
若草色の優しい三つ編みの髪が好きで。
日の光を嫌う真っ白な肌が好きで。
柔らかくて心地良いその声が好きで。
「あー…うん。なんでもない」
ただ声が聞きたくて、ただ自分を見て欲しくて。
何度も何度も君の名前を呼ぶ。
初めて出会ったそのとき。
ふわりと動き出して崩れ落ちた彼女に手を伸ばしたそのときから、知らない感情が既に芽生えていたのだと、そんなことに今更気がついたんだ。
だから、ねぇ
――― 一緒に暮らそう。
そう言ったら君はなんて答えるのかな?
...モドル?
2011年2月
「フィリアは、くれないの?」
「…えっ」
突然の問いかけに、にこにこと笑ってしたフィリアの顔が、一転して真っ赤に染まり、あたふたと落ち着かなくなった。
その様を、にやにやと眺める仲間たちの顔も、もはや2人の目には入っていない。
スタンは期待と不安の入り混じった顔で、フィリアを見ている。
フィリアは真っ赤な顔で、あの、ええと、と繰り返している。
全くもっていつまで続くのか分からない状況に、仲間達が焦れに焦れた頃、ようやくフィリアが意を決して、もにょもにょとなにやら呟きながら一つの包みを取り出す。
ラッピングがされた手の平よりも少しだけ大きいくらいの包み。
「あ、あの、お口合うか分からないのですが…、その…」
「俺の分…で、いいんだよね?」
眩しいくらいの笑顔で、フィリアの戸惑いやしり込みする気持ちなんて全く頓着せずにスタンは包みを受け取る。
いつもながら裏表のない、期待のつまった宝石箱のような瞳に見つめられて、フィリアは消え入るような声で、はいと頷いた。
その俯いた顔を覗き込むようにスタンは屈みこんで、その耳元に囁く。
「凄く嬉しい。ありがとうフィリア…」
甘くてとろけそうな囁きに、既に限界ギリギリだったフィリアはとうとう意識を手放してしまって、だから、スタンの最後の言葉だけは聞き逃した。
―――大好きだよ。
甘い甘い、バレンタインのお返し。
...モドル?