『その日世界は絶望に染まり』






「―――シャーリィっっ」

 すんでのところで、伸ばされた手は届かなかった。
 髪の毛一本ほどの僅かな距離はただただ遠かった。
 それでも叫んだ。
 俺は。
 彼女は。

 何度も何度も何度も何度も何度も―――!!!!!

 けれども全ては狂気の渦に飲み込まれる。
 舞い踊る炎の中に幼い少女の顔が飲み込まれていく。
 肩まで届く金の髪も。
 あどけない大きな瞳も。
 恐怖に凍りついた、助けを求める声も。
 どんどん消えていく。
 身動きが取れない状態で、必死に泣き叫ぶ声はもう聞こえない。
 視力の低下した視界の中で少女の唇が動く。

 ―――たすけて。

 聞こえない声が届く。
 そう少女の口が動く。

 助けたい。
 助けたい―――っっ。

 なのに、どうして、この手は動かない!!!!

「しゃー、りぃ…っっ!!!」

 届かない。
 身体がもう動かない。
 何で。
 どうして。
 どうしてこんな事になってしまったのだろう。

 炎が全てを焼き尽くす。
 家を、木を、花を、畑を。

 もう、少女の声は聞こえない。
 もう、少女はどこにもいない。

「ぁぁぁああああああああああああああっっ!!!!!!!!!」






 小さな小屋だった。
 恐らくは狩人が夏のひと時に利用しているのだろう。
 鍵は閉まっているが、問答無用でテルクェスを使って壊した。
 溜まった埃が部屋の中を吹き荒れる。
 良心は痛んだが、そんなものよりずっとずっと大事なものがあった。
 血に汚れた少女はずるずると扉を背に崩れ落ちる。
 少女が必死に空けた扉を、温かみのある橙の光が通過する。
 明滅する光の中に、一人の少年がいた。
 生気を感じさせない土気色の顔をした、まだ幼い少年。
 その少年を小屋のベッドに寝かせて、ほう、と少女は息をつく。
 瞬間、橙の光―――少女のテルクェスは消えた。
 それが、少女の限界で。
 少女の意識もそれきり途絶えた。

「ステラ…起きなさいステラ―――」
「っっ!!!!!」

 きっと眠っていたのは一瞬だろう、そうステラは思った。
 目の前の光景は驚くべき状況で、覚醒した脳は急激な処理に追いつかず、呆然と呼び掛けた人物を見上げる。
 よく知った人物だった。
 同じ故郷の、水の民。何軒か隣の家の、噂好きな中年の女性。

「―――っ」

 涙が溢れた。相手もまた大粒の涙をたたえていた。
 あの状況で、生き延びた水の民が他にもいたのだ―――。

 そして、生き延びていたのは彼女だけではなかった。
 彼女が言うには十人余り、生き残りがいるらしい。
 何でも村を襲った襲撃者たちは、目的を連れ去った後はさっさと撤退したらしい。村を燃やすだけ燃やして、殺すだけ殺して、後はもうおざなりに放置していったという。
 だから、残されたのは焦土。村があったという名残だけ残した焼け野原。
 何人かは生き残りを探して今もさ迷っているのだと、そう、教えてくれた。

 彼女は、口にしなかった。
 ステラの妹。
 水の民の希望のことを。

 ステラとベッドで眠る少年の傷の手当を、小屋にあった薬箱で施して、彼女は出て行った。
 まるで、死人のように生気はなく、その目はただただ暗かった。
 きっと自分もそんな目をしているのだろう。

 部屋に戻って、唯一つしかない椅子に座る。
 ベッドの上で眠る少年の顔は苦痛に歪んでいる。
 早く、目を覚まして欲しい。
 そうでなければもう、心が折れそうだった。
 何もかも捨てて、絶望に身を任せてしまいそうだった。
 少年の目覚めだけが、ステラの希望だった。
 そして。





「っっ!!!!!!!!!!!」

 飛び起きた少年は、全身を襲った激痛にすぐさま身を抱えた。
 声にならない叫びがうめき声と化して、少年の口から零れ落ちる。
 くすんだ銀髪、ともすれば白く見えそうな短い髪。少年らしさを残したあどけない顔立ちは、いまや蒼白。緑の瞳は限界ぎりぎりまで押し広げられ、その瞳孔が収縮している。

 明らかに異常な状態に陥っている少年を、泣きそうな顔の少女…ステラが手を出すことも叶わず見守っていた。
 少年の身体は全身包帯だらけで、どこを触れるわけにもいかなかった。第一、ステラ自身傷だらけで、沢山の包帯とガーゼが身を覆っている。肩から吊り下げられた腕は折れている証拠だろう。

「セネル…ねぇ、セネル落ち着いて!」

 おずおずと、ステラは少年…セネルの頬に手を伸ばした。
 身体に走る痛みを堪えて、片側だけでも少年の頬を包み込む。その温かな感触に、セネルはようやっと目の前の少女の存在に気がついた。

 さ迷う視線が少女にたどり着く。
 背に届く長さの、真っ直ぐな金色の髪は、セネルが好んで止まないものだった。その髪がとても柔らかくて、とても良い香りのすることを知っている。泣きそうに揺れる瞳が、真っ直ぐにセネルを見ていた。

「す…てら…?」

 掠れた声で、セネルが呼びかける。
 それは少女、ステラの限界だった。
 気丈にも耐えていた涙がぼろぼろと溢れだす。

「す、ステラ!?―――いてっ!!!」

 慌てふためいて、ステラに手を伸ばした瞬間激痛に襲われて、セネルはまたも悶絶する。そんな少年を見て、ステラは小さく笑った。
 ぼろぼろぼろぼろと泣きながら、ほんの少しだけ、ようやく笑えた。
 セネルはもう何も言わず、おそるおそる手を伸ばして、今度こそステラの頭をゆっくりと撫ぜた。
 どれだけの間そうしていたことだろう。
 ひどく和やかで穏やかで全てを忘れて、いつまでもこうしていられたらどんなにも幸福だろうか。


 やがて、泣き止んだステラはゆっくりと顔を上げて、真っ赤になった目でセネルを見つめた。
 その目が、何か物言いたげであることには、いくらセネルでもすぐに気がついた。
 分かっている。
 彼女が何が言いたいのか。
 そんなことは、今の状況をかんがみればすぐさま分かることだった。

 彼女がいて自分がいる。
 そして、あともう1人、ここに居なければならない人物がいない。
 その意味が、セネルに分からない筈がなかった。

 ステラがいてよかった、とセネルは心のなかで呟く。
 彼女がいなければ、きっとセネルは何一つ考えることも出来ずに、ただただ取り乱していたに違いない。状況も分からずに混乱して、気持ちのままに叫んで、喚いて、暴れていたかもしれない。

「シャーリィは…あいつらに、捕まった…」
「―――っっ」

 ステラとて、分かってはいたことだった。
 彼女が目を覚ましたとき、自分の慣れ親しんだ大切な故郷は焼け野原と化していて、最早顔の判別もつかぬ死体が転がっているだけだった。
 そして、自分を守るように覆いかぶさる少年がいた。

 最後に見たときよりもずっとぼろぼろになって血を流す、息も絶え絶えなセネルの姿に、ステラの頭は答えを出してしまった。

 それでも、やはり改めて述べられると、その衝撃は大きかった。

 必死に戦った。
 シャーリィ、自分にとってもセネルにとっても…そして全ての水の民にとっても大切な、特別な存在の少女を守るために。
 嗚咽を必死に飲み込んで顔を伏せる。痛いくらいに握り締めたこぶしにぽたぽたと雫が落ちた。涙が嗄れるほどに泣いたと思ったのに、まだ身体には水分が残っていたようだ。

「シャーリィ…っっ!」

 守れなかった。
 深い悔恨が胸におちる。
 大事な大事な、ただ1人の肉親。

「ステラ…ごめん、ごめんな…っっ。守れなかった―――!! 俺の…俺のせいなのにっっ!!!」
「セネル!」

 普段滅多に聞くことのないステラの鋭い叱責。
 そこに篭った感情は、間違えなく怒り。一瞬の激しさは掻き消えて、ステラは儚く笑う。不器用に泣きそうな顔で笑う。

「―――違うわ。貴方が悪いわけじゃない。いつかこんな日が来るんじゃないか、って、ずっと思ってたわ。…だって、あの子は―――メルネスだから」

 重く、その言葉が二人に圧し掛かった。
 メルネス。
 それは、水の民を導く希望だった。
 数百年に一度降臨し、滄我の意志をもって水の民を統べる存在。

 たとえ託宣の儀式に失敗したからといって、そんなことは陸の民の知らぬ話だし、関係もない。
 もともと、セネルが水の民の里に潜り込むことになったのも、メルネスを攫うのが目的だったのだから。ただ、メルネスを利用して何をしようとしているのか、セネルは何も知らなかった。
 セネルという一兵士に与えられたのは、"メルネス誘拐"という非情な任務のみ。

「―――ステラ」

 呼ばれて、ステラははっとして顔を上げる。自分が俯いていたことにすら、気付いていなかった。
 セネルの顔は、どこか悲壮な覚悟に満ちていた。
 深い青の瞳が真っ直ぐにステラを見据えている。怖いくらいに真剣で、息を呑むほどに必死な形相に見えた。
 こくり、と唾を飲み込んで、少年と少女は向き合う。

 それは、セネルの告白だった。
 これまでずっと、セネルが隠してきた事実。

 感情すら消えうせたような静かな声で、セネルは告げた。
 戦争孤児としての自分の生い立ちを。
 ヴァーツラフ軍の特務隊に拾われ、兵士として鍛えられたこと。
 初めて下された任務のこと。

 全て。
 セネルが生きてきた全てだった。
 ただ流されるままに生きてきた。
 生きることがすべてで、そこに感情を挟む余地はなかったように思える。
 父も母もなく、家族のぬくもりを知らずに育った。友愛のなんたるかを知らずに育った。
 不幸の基準も普通の感覚も倫理観も善悪の区別もつかないような、そんな、人間だった。

 変えてくれたのは、ステラとシャーリィ。
 誘拐すべき相手と、その姉。
 初めて会ったばかりの相手に向けられた優しい笑顔。
 姉の後ろに隠れて、おずおずと差し伸べられた小さな手のひら。

 自分に向けられた、そんな顔を、初めて見た。

 一生忘れられない、大切な記憶。

 2人に会って、セネルの人生が変わった。
 大袈裟に言っているわけじゃない。
 本当に、セネルの人生は変わったのだ。

 希望などなかった。
 楽しいことなど知らなかった。
 生きる糧などなかった。
 命令されるがままに動いて、求められるがままに破壊した。
 そこに意志など必要ない。
 言わば、生きているも死と同然。
 それが当然だったのだ。

 ステラはセネルの告白を何も言わずに聞いていた。
 何度も、言葉に詰まるセネルをずっと見ていた。
 その視線が怖くて、やがてセネルは視線を落として、自分の拳を見ていた。
 鍛えて、鍛えて、結局は何の役にも立たなかった自分の身体。

「だから、俺のせい、なんだ…」

 軽蔑されることも裏切り者、と罵られることも覚悟して、セネルはそう締めくくった。ひどく身体も心も重かった。
 どちらも、口を開かなかった。
 言う言葉が見つからなかった。
 言葉など必要なかったのかもしれない。

 セネルはステラに包まれていた。
 身体が痛かった。
 ステラもそうだろう。
 身体中が痛くて、辛くて、苦しくて。
 だからかもしれない。
 支えなければ、支えてもらわなければ、立てないと思った。
 共に、深く傷ついていた。

 小さな小さな部屋の中で、二人分の泣き声が響いていた。
 きっと、それは必要なことだった。二人が前を向くために。
 二人が先に進むために。

「―――シャーリィは、きっと生きてるわ」

 ステラは言う。
 言われてみればそれもそのはず。
 セネルが言い渡された任務は暗殺ではなくて誘拐。
 メルネスの力を利用するのなら、殺すこともないだろう。
 ―――だが、どれだけ恐ろしい思いをしているだろうか。
 考えただけで、すぅ、と、血の気が引く。
 怖かった。
 いつも後ろをついてきた小さな少女がどんな目にあっているのか、考えたくもなかった。

 セネルとステラの視線が絡む。
 絶望だけの、暗いだけの瞳ではなかった。
 ほんの少しだとしても、その互いの瞳には一筋の希望が、光が宿っていて。
 お互いのそれに縋り付くように。

「だから―――」
「―――絶対に」


「「  シャーリィを助ける  」」

 
 そうして、広大な大陸の小さな小さな小屋から、二人の果てしない旅は始まる―――。
2012年3月4日
ふと、攫われたのがシャーリィだったら、と思いついて妄想してましたww
マウリッツと協力して遺跡船に乗り込んだり、元兵士セネルがスパイしたり、セネステで一緒にシャーリィ暴走したり、ステラがモーゼスに攫われてみたり、色々楽しそうだなぁとかw