2010年2月



「あんた、すごいタイミングで帰ってくるわね」

 呆れ顔の女にサレはしかめつらで返す。わけが分からない。
 女が何気なく使った『帰ってくる』という言葉も気に食わなかった。
 気に入らない気に入らない気に入らない。
 この、甘ったるい匂いが脳内に侵入して精神を蝕むようだ。

「何、コレ」

 目の前は壮観。
 色とりどりのチョコにチョコレートケーキ、チョコタルトに、チョコクッキー。
 まさにチョコ菓子のオンパレードだ。
 アニーとかいう小生意気な女医者が奥から出てきて、サレに気がつくなりびくりと引っ込んだ。

「バレンタインよ」

 くすくすと女は笑いながら、チョコのついた手をタオルで拭う。それからサレが開けっ放しだった扉をようやく閉めた。
 まだ朝も早い時間。外気はどこまでも冷たく、サレの体もまた冷え切っていた。
 なじみのない単語に、サレは苛立たしげに頭を振る。
 外で降り積もった雪がひらひらと飛び散った。

「知らないなら教えるからとりあえず座りなさいよ」

 むせ返るような甘い匂いの中で女はひどく楽しそうに笑って、まるで嫌がらせのように甘ったるい飲み物を出してきた。
 いたることが苛立たしくて腹立たしくて仕方なかったが、それをこの場で素直に言うのはどうにも子供すぎる気がしたのでサレは黙って崩れるように椅子に座り込み―――。

 そのまま、意識が途絶えた。



「アニー、いいわよ」
「…大丈夫ですか? というか、この人どうしちゃったんですか?」

 すっかり大人しく机に頭を押し付けて眠る男がそこにはいた。あまりにも珍しい姿、というか初めて見るそれに、アニーはびくびくしながら、それでも興味深そうに観察する。アニーにしてみればこの男は近づけば頭から食べられるような印象しかない超危険人物である。
 その珍獣扱いにヒルダは笑って、サレの背に毛布をかけた。

「ようは、ぶっ倒れるまで気づかないタイプなのよ」

 ヒルダの言葉にアニーは小さく声を上げる。
 思い当たる節があるのだろう。
 例えば、クールなように見えて物凄く熱血な三つ編み男とか。
 例えば、年がら年中熱血の姉さん大好き男とか。

「子供達が起きてきたら凄い騒ぎになるわね、これは」

 部屋中漂うチョコの匂いに、たまの来訪者。
 想像するだけでそれは凄まじく、アニーは苦笑するが、ヒルダが心底幸せそうなのに気がついて、心から笑った。

 バレンタインなんてタイミングにサレが来たのも笑顔の理由の一つだと思うのは、少し悔しいものもあったのだけど、少しだけ彼を認めるようになったアニーは顔には出さずに笑うのだった。





...モドル?
2011年6月



 不意に、ヒルダは目を覚ました。
 目を覚ました、というには中途半端な覚醒状態。
 ぼんやりとしたまま、もぞり、と居心地の良い場所を求めて身体を動かす。

「ん…?」

 動けなかった。
 腰の周りに回る屈強な腕がそれをさせない。
 無駄な肉などない鍛えられた両腕が、母親に甘える子供のようにヒルダの腰に絡み付いていた。

「…重」

 ぼんやりとした脳みそは働かなくて、小さく呟いて腕の中で身体を回転させる。
 それがヒルダに許された行動の範囲。
 目の前に女のようにとがった顎と、端正な顔立ちが見えた。

「………」

 小さく笑ってしまう。
 動けば嫌味と嘘と悪態ばかりをつく唇は間抜けに半開き。恐らく本人なりにこだわっている髪もぐちゃぐちゃに乱れていて。

「こんな顔で寝るのね」

 そんな今更なことを呟いて、ヒルダはおやすみなさいとその唇にキスを落とした。





...モドル?


 何でもない事。だから、動揺なんてしていない。

「スタンさん?」
「うん」
「…あの、スタンさん?」
「フィリア・フィリス」

 突然呼ばれたフルネーム。それが何故かとてもやさしく、とても大事に響いたような気がして、過剰に反応してしまう。
 きっと顔はもう真っ赤だ。恥ずかしい。

「あっ、あの、スタンさん?」

 声が上ずってしまう。こんなんじゃいけないと思うのに、スタンの顔はとても穏やかで優しかったから、一体何を言われるのだろうか、と緊張する。平静なんて、保てない。

「すごく、綺麗な名前だよね」

 だから、何度でも呼びたくなるんだ、なんて、とんでもないことを言ってくるから、フィリアは真っ赤になって立ち尽くした。
 そんなに優しい顔と声で、嬉しくて仕方がなくなることを言わないで欲しい。

 フィリアにしかそんな事思わないんだけどね。
 なんて、本人も不思議そうなその呟きは、勿論フィリアには届かなかった。





...モドル?