『狐さんと少女』






「ルナールさぁ、なんであんなことしたわけ?」

 ぐるぐると、男、ルナールの足に包帯を巻きつけながら少女は言う。肩先まで伸びた赤茶けた髪の少女。スカーフが巻かれたうなじを男の目の前にさらした、ごくごく普通の少女だ。もっとも、ズボンをぎりぎりまでまくり上げた男の大腿部と、その傷口に、何一つ動じていない事は普通とは言い難いかもしれないが。
 包帯を巻き終わり、最後の処理をしてから「よし!」と、ルナールを見上げる。互いに座り込む状況で、ぐい、と覗き込む形になった少女とルナールの距離は近く、たれ目がちの青い瞳は、男の全てを見透かすように鋭い。男はその眼が苦手だ。舌打ちと共に視線を逸らすと、少女は不満げに眉をひそめた。

 ルナールの手は後ろ手に縛られている。勝手な行動の代償として、暫くはそれ相応のペナルティを受ける。拘束はその一つだ。少女は残った包帯や鋏を片付けながら、話を続ける。

「アリーシャ姫の依頼はあったけど、受けるかどうかはあたしが決めるし、まだ調査中だったし。暗殺対象には入れてなかった」

 暗殺、と少女は簡単に言う。少女があぐらをかいた足を両手で引っ張りながら身体をゆらすと、赤茶けた髪がさらさら揺れた。この、ごくごく普通に見える少女が、暗殺ギルド『風の骨』の頭領だ、などと誰が信じようか。
 暗殺ギルドの衣装を身にまとい、仮面をつけた少女は、今目の前にいる少女とはまるで別物。押し付けられるような圧倒的なプレッシャーを放ちながら、冷静に、冷酷に獲物を狩る。
 ふと、思い切り笑いだしたい衝動にルナールはかられた。

「結局、利用されてただけだったし…」

 唇を尖らせる少女は実に隙だらけだ。今の彼女なら一瞬で殺せるだろう。それだけの力を手に入れた。人間を上回る圧倒的な力。こんな拘束、すぐに抜けられる。
 そう考えれば気分も良くなって、ルナールは密やかに笑う。獰猛に笑うその姿は、たとえ人間の姿であろうと凶悪な獣そのものだ。
 ふと、風が吹く。不自然にルナールを覆った風は、どこか不穏。昔はただ恐れるだけだったその風の正体を、今のルナールは知っている。

「ねぇ、聞いてる? っていうか、聞け」
「………カハッ。聞いてるさ。頭領。次は誰を殺すんだい?」
「…あんたさぁ、最近ちょっとおかしいよ?」

 心底不思議そうに、少女は言う。
 伸ばしてきた手がルナールの頬を掴み、音がしそうな勢いで少女の方を向かされる。強引に合わされた少女の顔は、ルナールを心配してのものだ。真っ直ぐな瞳はルナールの心を無神経なまでに荒らしてくる。
 ルナールにとって、この少女は心底訳が分からない。

 この少女の過去を知っている。戦場で、重なりあう死体を踏み越え、時には見捨て、燃えゆく地獄の中にいた子供。信じた人間に裏切られ、命を落としかけたことがあった。些細なことで傷つけ合い、くだらないことで本気で殺し合う人間たちを見た。理不尽に傷つけられ、騙され、しいたげられた。

 そうして振り回された挙句の暗殺者だ。
 さぞ人間を憎み、世界を恨んでいるだろうと思えば、平然と自分は幸せだと語る。
 全くもって気持ちが悪い。

「ルナール、あんたももうあたし達の家族なんだ。何かあるなら話してよ」
「―――」

 じ、っと見つめてくる眼差しに嘘はない。
 ルナールにはやはり何一つ理解できない。
 盗みに入ったルナールを、更にはそれをぶちのめしておきながら近くにおく神経も。そんな人間を家族と呼ぶ意味も。そもそも家族という概念も。暗殺ギルドの頭領でありながら、それでもなお素直さを失わないことも。
 少女はルナールにとって得体の知れない生物そのものだ。

 物心ついたときからずっと一人で生きてきたルナールにとって、他者とのつながりは希薄だ。必要だと思ったこともない。
 人間は裏切る。ほんの少し欺瞞を囁けば、簡単に疑心暗鬼にとらわれて自滅するか、更に他者を巻き添えにしようとする。そこに暗い喜びを感じるようになったのは随分昔だ。散々今まで己を馬鹿にしてきたような人間を力や罠で屈服させ、虐げ嬲り蔑むことはルナールにとって最大級の楽しみのうちの一つ。

 そんな人間に、家族"らしさ"など分かるはずもない。そもそも家族がいたことすらない。
 ルナールと少女の、決して交わることのない平行線。
 どんなに同じ環境で同じものを見ようとも、決して同じ感情を抱かない背中合わせの異物。
 
 ルナールは笑う。引き連れたように、狂ったかのように。びくりと離れていった手は温かかった。更に笑いを深める。もはや爆発的な衝動。けっして、人が見て好ましいと思うたぐいのものではないだろう。事実、風の骨の中でもルナールを受け入れていないものは多い。

 唐突に笑い転げたルナールに、首を傾げた少女は「さぱらん」と言いつつ腕を組む。考え事をする時の癖なのだろう。その顔に恐怖の色はない。それがまたルナールにとっては腹立たしい。笑いの衝動が収まったところで、ルナールは己の足を揺らして見せた。

「しっかしよぉ、頭領。自分でやっといて自分で手当てしてりゃ世話ないな」
「あんたが言うか!」
「あと包帯の巻き方雑過ぎんだろぉよ」
「あーもう! 贅沢言うな! 包帯なんてほどけなきゃ問題ないでしょ」

 頭を乱暴にかいた少女は、まったくもって付き合いきれんと立ち上がる。

「とりあえず、三日謹慎ね! その後また働いてもらうから」

 心底甘い処分だ。暗殺対象が手違いで殺されることなく終わったからだろう。社会から爪弾きにされて、泥に汚水にまみれ、ゴミ同然に扱われて生きてきたルナールにとって、この、ぬるま湯のような温かさが気持ち悪い。
 戦闘時の少女の恐ろしさ、容赦のなさを知っているからなおさら。
 小さな小部屋の入り口にいる仲間に声をかけ、少女はルナールに背を向ける。本当に、小さい背中だ。これが国際手配までされた暗殺ギルドの頭領だと言うのだから、まったく世の中は分からないものだ。

「頭領。アンタ、隙だらけだぜ」

 その小さな背につぶやく。
 ルナールが、自分の犬歯が異常に鋭くなっていることに気が付いたのは、一体いつのことだっただろうか。人には見えてないものが見えている。人には使えない力が使える。
 そうして知った。少女には何かが憑いている。あれが少女の纏う不自然な風の正体。
 あれを取り込めば、ルナールは更に強くなるだろう。既に実例もある。

 今、無防備に立ち去ろうとしている少女を襲ったらどうだろうか。
 その首筋を噛みきれば、どんな極上の味がするだろうか。動物の肉なんかよりもよほど美味しそうな匂いを発している。きっと凶悪な戦闘能力からは考えもつかないほど柔らかく、甘く、犬歯は食い込むだろう。その血は鮮やかに鮮やかにルナールを染めるに違いない。即死させるのは勿体ない。ゆっくりと、じわじわと、精神的にも肉体的にも追い詰めて、ルナールと同じだけの憎しみを、怒りを、恐怖を植え付けるのだ。"家族"に裏切られた時、彼女はどんな顔をするだろうか。そうして絶望に染まった少女を美味しくいただいて、ルナールはさらなる力を得る。
 
 想像は実に甘美だ。
 もう準備は出来ている。風の骨でないバックボーンも手に入れた。

 風の骨の頭領、として動いている時の少女には油断も隙も無い。例え味方からの攻撃だとしても冷静に処理するだろう。先走ったルナールを止めたように。あの状態の少女は実に強い。恐ろしいほどに。
 だが、今は違う。ここは彼女のテリトリーだ。安心しきっているし、その背からも無防備さが伝わる。先の一手で足を奪えば勝つのは容易だろう。

 ルナールの足に、手に力がこもる。
 殺気を出さない様自然に。怪しまれぬように。
 不自然な風が威圧感を増す。

 そして、アジトに使っている遺跡の、がらんどうの小部屋の出口の前で、ふと少女は振り返る。奇妙な硬直状態。
 ルナールの背を汗を伝った。少女は変なところで、妙に鋭い。
 少女の顔に危機感はない。ただ、少々さびしそうにも見える表情で、口元だけそっと笑う。

「ルナール、あたしの名前、言ってみて」

 その問いかけは実に単純だったが、実に意味が分からなかった。
 完全にタイミングを外されて、ルナールの体から力が抜ける。わざとだとすれば実に勘が良い。
 奇妙に静まり返った空間で、ルナールはのろのろと口を開いた。

 少女の名前くらい、知っている。

「―――………ロゼ」
「うん」
「なんだよ」
「もう、覚えてないんじゃないかなー、って思って。全然呼ばないじゃん、ルナール」
「……覚えてるさ」
「ならいいや。とりあえずお休み」

 満足そうに笑って、少女、ロゼは今度こそ小部屋を後にした。扉が閉まり、見張りのメンバーと話している声が僅かに漏れて聞こえてくる。それも束の間で、すぐに静まり返る。

「―――きめぇんだよ…クソが…」

 うなだれてルナールは呟いた。声には力がなく、自分でもそのことに気が付いたのか小さく舌打ちをする。ふと、足に巻かれた包帯が目に入る。乱雑に巻かれた白い包帯。凸凹でいびつで、最後の結び目だけはこれでもかというほどに強固。

 ルナールは家族を知らない。
 これから先もずっと知るつもりもないし知ることものないだろう。
 人を憎んで街を憎んで国を憎んで世界を憎んで憎んで憎んで憎んで。
 飢えを凌ぐためなら汚水を舐めて、残飯を漁った。その横で、綺麗な服を着て見苦しい身体になるまで暴飲暴食に溺れる者達が憎くて仕方なかった。奇跡的に子供時代を生き抜いて、それなりに小賢しく知恵をつけてからは、酔っぱらった貴族の隙を見ては財布を盗み、食べ物や服へと変えてきた。見つかって散々殴られ蹴られ死にかけてからは、死体を漁るか、殺すかして奪ってきた。生きるためにしてきた事は、いつしか憎悪をはらす手段へと変わり、更には快楽を得る方法へとなった。
 死にたくなかった。
 最初はそれだけの話。
 今ではすべてを憎み、人を殺すことに至上の喜びを得ていたとしても。
 物心ついたころには家族なんておらず、ひとり路上に放り出されていたとしても。

 暖かい家の中で、たくさんの料理を囲む幸せそうな家族の様子に。
 共に手を取り合って街を歩く家族の姿に。
 自分が殺されそうだというのに身を挺して子を庇う親の姿に。
 子供のためにと自分を犠牲にしてでも働く姿に。





 ―――一度でも憧れたことがないかと言えば、それは嘘だ。





 ルナールは笑う。
 狂気じみた獣の笑い声。
 本人にすらもう何が欲しかったのか、なぜ笑うのか分かってはいないだろう。

 その三日後、拘束から解き放たれたルナールは監視役の目を盗み、二度と風の骨に戻ることはなかった。
2015年3月28日
ルナールの掘り下げと風の骨にいる時代の話が欲しかったなぁ。