『雲』






「何してるの?」

 優しい声がすぅ―――と、身体中にしみわたり胸中にさざなみを起こす。

「…ロディ…」

 ロディの持つ灯りが、闇の中ではあまりにも眩しくて、目にささる。
 光に目を細め、それを避けるように、さっきまでしていたように深い夜の空に目を移す。

「ロディはどうしたわけ?お子様が出歩く時間じゃないわよ?」

 そう言って、くすくす笑った。
 時間はすでに日が移り変わろうとしている。
 深い闇の中でどこぞの家の壁を背に、灯りも持たずに空を見上げていたジェーンは昼間より穏やかな目をしているように見える。

「ジェーンの方が年下だろ…?」
「そうだったかしら?」

 不満そうに文句を言ってくるロディに、ジェーンはまたもくすくす笑う。
 どこかいつもと違うように思えるのはロディの気のせいか…。

「それで、灯りも持たずにこんな時間に何してたの?女の子一人で危ないよ?」
「あら?ちゃんとARMも持ってきてるわよ☆」
「そういう問題じゃなくて…!!」

 珍しく声を荒立てたロディに、あれ?―――と思って、ジェーンは空からロディに目を移す。
 ここで初めてロディの顔をまともに見たジェーンは、思わず目をしばたかせる。
 ジェーンのあまり見たことのない顔。想像していた心配顔ではなかった。
 どこか焦りを含んだような表情で、かすかに柳眉があがっている。

「…ロディ…あんたもしかして怒ってる?」
「…怒ってないよ」
「怒ってるじゃない」

 どうやら図星のようで、軽く横に視線を逸らす。よくジェーンがやる行為だがロディがやるのは珍しい。
 眉をひそめて、ロディを伺うが理由を言う気はないらしい。
 かすかに首をかしげ、唇を尖らせる。

 よく分かんない。

 なんとなく気まずい沈黙が続いて、それでもやっぱり折れたのはロディで、小さなため息をついてジェーンに向き直った。
 夜の闇にふさわしくない少年少女が向きあう。

「ジェーンは結局何をしてたの?」
「あたし?そうねぇ…あたしはね、空を見てたの」
「空?」
「そっ。空☆」

 ジェーンが軽く笑って、またも空を振り仰いだので、ロディもつられるように空を見上げる。
 星はなく月もない。
 ただ雲だけが空の闇のなか、じわじわと動いている。
 おおよそ少女が見るようなものではないし、なんとなく不安を駆られるような…そんな光景でもあった。

「どうして?」

 心の底からそう思って、ロディは空を見ながら首を傾げる。

「雲ってどっかの誰かさんに似てるなぁ。って思って☆」

 空を見たまま、ふわりとジェーンが微笑んだのをロディは見た。
 あたたかい、春の陽だまりのようなそれ―――。
 頬が赤くなるのを闇で気付かれないのを望みながら、なんとなく顔を逸らした。
 これだけ近くにいて、ジェーンがひどく遠い。

 空を見上げる視線の奥にいる誰か。
 その誰かがジェ−ンをあんなに幸せそうに微笑ませる。
 ざわつく心を押し殺して、もう一度空を見上げた。
 ジェーンが続ける。

「のんびりで、曖昧で、つかみどころがなくて、押しに弱くって、手を伸ばせば届きそうなのに全然届かなくて…」

 そう言いながら、空へ手を伸ばす。
 何かを掴むように、爪先立ちになって虚空をかく。
 少しでも届くように、手を伸ばす。
 その動作に、切ないほどに気持ちがこめられていて――― 

「ほら、ね。届かない」 

 手を伸ばしたまま、どこか泣きそうな顔で、空を見上げるジェーンの顔にゆがんだ笑みがのる。

「…届くよきっと」
「ロディ?」

 ロディもどこかゆがんだ笑みを浮かべた。
 眉をひそめてそれを見る。
 そんなジェーンの手をロディがとって、ジェーンの後ろに回り、もう片方の手もとる。
 後ろから抱きしめられるような格好になって、ジェーンはピクリと身を震わせた。 
 あまりに近くて、だけどその心はあまりに遠い。

「ほら…2人で伸ばせば、届くかもしれない」

 2人の身長はそんなにも変わらない。だからジェーンの後ろにたつロディは、その体制で自然に空へ手を伸ばす。
 しばらくそうして、ロディがゆっくりと手を下ろす。 
 高さはそんなにも変わらない。


 ―――だけど。


「うん……届いたかも知れない」

 一人ごちるように、言葉をもらしたジェーンは声が震えるのを必死でこらえる。

「え?」

「のんびりで、曖昧で、つかみどころがなくて、押しに弱くって、バカみたいにお人よしで正直で、騙されやすくて…だけど誰よりも強くて優しくて、鈍感な人―――」

 それまで、握られていただけの手を、強く強く握り締める。
 自分より大きなその手を。
 思いがそこからつながるように―――。


「―――!!」


 ぎゅう―――と、強く握り返されて、ロディは目を見張った。
 もしかして―――これは…
 そう思っても構わないのだろうか…?
 自惚れてもいいのだろうか…?

「うん…」

 様々な思いが駆け巡って―――やっとそう言った。それだけしか言えなかった。 
 でも―――と、ロディは続ける。
 こつんとジェーンの後頭部に額をぶつける。
 鼻をくすぐる柔らかい匂い。

「ジェーンも鈍感だよね」
「…ロディにだけは言われたくないわ…」

 震える声で、でも不機嫌そうにうめいたジェーンに、心からロディは笑った。
 素直になれたのは闇のせいか…。
 鈍感な2人の上空を闇の中静かに雲が通り抜けた。