誰もいない筈の部屋



「いい?チェシャ猫。私がいない間、ぜったい部屋から出ちゃダメだからね!」
「もちろんだよ、アリス」

 いつものように返事するチェシャ猫に、満足げに頷いた亜莉子は着替えを詰めた大きなボストンバッグを持ち上げた。彼女は今から、高校の泊りがけの冬期講習に出かけるのだ。

「じゃぁ、行って来ます」
「いってらっしゃい、アリス」

 コロコロ転がるチェシャ猫に見送られながら、アリスは部屋を後にした。




 亜莉子の叔父である和田康平は無言でドアを見つめた。
 ドアには、『ありこ』というプレートがかかっている。彼女がやってきてから、かけたものだ。
 彼には、姪の留守中に部屋をのぞくような趣味はないし、したらいけないと思っている。…だが。

 カタ…カタ…

 部屋の中から、聞こえる物音がすごく気になるのだ。

(勝手に部屋に入ったら怒るだろうな…。だが、もしも泥棒だったりしたら…)

 カタ…カタ…

 謎の音は、規則正しく続いている。
 実は、暇なチェシャ猫が転がって部屋の中のものにぶつかっている音だったりするのだが、彼に知る由はない。
 康平は、そっとドアノブに手をかけた。

(ちょっと、開けるだけだ…)

 もしも泥棒なら、と思うと確認せずにはいられない。
 彼はそっとドアを開けた。

 カタ…

 音が途絶えた。

 はじめに見えたのは、灰色っぽい布のかたまり。
 部屋の真ん中に無造作に転がっている。

 部屋には特に、動くようなものもなくしんと静まりかえっている。

「な、何もいないな…はは」

 風か何かの音だったのだろうか。
 そう思って彼がドアを閉めようとしたとき、灰色のかたまりが動いた。

 見えたのは、鋭くとがった歯、にんまりと横にひらいた赤い口、そしてそれよりも赤い…断面?

「!!!」

 驚きすぎると人は何も言えなくなるのだということを、彼は初めて知った。

 そして思わずドアを閉めた。
(み、見間違いだよな・・・!?)

 まさか、姪の部屋に生首が転がっている訳はない。
 というか普通、生首なんてものは家にあるわけはないし、動いたりしないし、あんな鋭い歯を持ってたりはしない。

(き、きっとレプリカか何かだよな)

 部屋が暗かったから見間違えたのだ。
 確かめてみようともう一度、ドアを開けるとそこには、灰色のかたまりはもうなかった。

「にゃあ」

 代わりにそこにいたのは、灰色の猫。
 猫は、挨拶をするように康平の足に身体をすりつけると、カーテンの陰へ消えた。





「ただいまー」
「お、おかえり」

 2泊3日の冬期講習から戻ってきた亜莉子は、叔父の様子がおかしいのに首をかしげた。
 いつもならわざわざ玄関まで出てきたりしないのに。

「どうしたの叔父さん?」
「い、いや…亜莉子、猫を飼ってたりしないよな?」
「ね、猫!?飼ってないけど…」

 脳裏にチェシャ猫の姿が浮かぶが、あれは厳密には猫ではない、と思う。

「そ、そうか…いや、たぶん見間違いだ。なら、いいんだ」

 あれから康平はカーテンの陰を確認したが、そこに何もいなかった。
 窓から出て行ったのかとも思ったが、窓はしっかり閉まっていた…。

「変な叔父さん」
 笑って部屋に戻っていく姪を見送りながら、彼は金輪際、亜莉子の部屋のドアは開けまいと心にかたく誓うのであった。