1 敵か味方か気持ちが悪い。 ただ単純にそう思う。 身体がきしむ。 目の前が霞む。 こんなところで、とか、よりによって、とか、とりとめもなく考えながら、身体の望むままにズルズルと足元から座り込む。 だるい。 苦しい。 気持ち悪い。 辛い。 思い浮かぶ言葉をつらつらと並べて瞳を閉じた。 視覚を切り離しても、目の奥の芯の違和感が脳をかき乱す。 ざわめき、ノイズ、騒音。 聴覚は望まなくとも音を広い上げ、不快感を募らせた。 通り過ぎゆく人間の持つ匂いが、鼻を刺激し、それに輪をかけた。 ―――ただ、ただ、気持ち悪い。 「………おい」 声がした。 雑音の中の一つ。 不意に拾い上げられた、確かなノイズ。確かな強さを持つ落ち着いた声音に、無意識に目を開く。 薄ぼんやりとした視界に、覗き込む深い緑の光が広がった。 人の瞳、と気が付いた時にはもう遠ざかっていたから、反射的にそれを追い掛ける。顔を上げた際に映ったのは、砂漠に広がる砂の海のような髪色。 肩先で風に揺れ動くそれに目を奪われた。目を焼く程の眩しさではなかったけれど、今はあまりにも明るく、まばゆく…柔らかく、温かだった。 呼びかけられたのか。 呼ばれたのか。 何故だろう。 ああ、気持ち悪い。 「おい。大丈夫か?」 沈む。 沈む。 何処までも。 何処までも。 深い森の中に。 深い海の中に。 深い空の中に。 深い砂の中に。 深い血の中に。 「おい、返事しろ」 雑音が聞こえる。 何か言っている。 分からない。 遠い。 目の前が暗い。 ああ、俺の目が開いていないのか。 消えていく。意識が闇の中に。血の中に。 「…! ………!」 もう何も聞こえない。 「ああ、起きたか?」 聞きなれない声に、イタチは薄っすらと瞼を開いた。 ぼんやりとした視界に真っ白な天井が映し出される。 のろのろとした動作で眼球を動かし、周囲を警戒する。 見える範囲に人の姿はなく、それでも気配だけは確かに存在した。 「覚えているか? あんた、商店街でぶっ倒れたんだ」 声に、イタチは軽く頷く。 そう。そうだった。 うちはイタチは、砂の里へ潜入している真っ最中だったのだ。 それで、途中でぶっ倒れた。 惨めだ、と自分を罵倒する。 情けない、と自嘲する。 声の主の足音。 空気の振動する気配。 確実に、こちら側へと近寄る動作。 ―――どうする? 自問する。 答えを出すのは一瞬だ。 様子を見ればいい。 どうやら相手は自分を助けたらしいから、今敵対するべきではない。 「顔色もよくなったみたいだな」 ようやく見えたのはまだ15にも満たないような少女。 だというのにその幼さの残る顔立ちの中には、甘さの破片も存在しなかった。鋭利な刃物を連想させる鋭いまなざしには人を屈服させるような強さがあった。 一人で生きることを厭わない、むしろそうでありたいと願う、強い孤高の瞳。 強くて、孤独で、脆い瞳だ。 「…君が…助けてくれたのか?」 「助けた、というほどのことはしていない。知り合いの宿まで、そこらへん歩いてるヤツ捕まえてあんたを運んでもらっただけだ。見たところ怪我や病気でもなさそうだったが、持病でもあるのか?」 肩を竦めた少女は淡々と言うが、イタチにとっては結構ありがたいことなので、素直に助かったと思う。病院なんかに連れて行かれるわけにはいかない。持病と言えば持病。その瞳に巣食う力の代価。 「ありがとう。本当に助かった。ずっと歩いてきたから疲れたのだろう」 「そうか。大事ないなら何よりだ。砂は初めてか?」 「ああ。今日は来たばかりだ」 「それなら驚いただろう。砂は他の忍び里とは全然違うからな」 くく、と笑った、その表情が、まるでいたずらっ子のそれで、すこし、驚いた。 淡々と、淡々と、事実を述べてきた少女は実に子供らしくなかったものだが、今ようやく年相応に見えた。 固まりきった頬の表情がすこしだけ、緩む。 「この里が好きなんだな」 「当たり前だ」 きっぱりとした返事は、既に年相応ではない鋭さを持っていて残念に思う。 己の里を誇れる強さと喜びに、羨望を覚えた。とっくの昔に風化したその感情。 乾いたこの砂の大地で、飢えたことすら忘れた心にうるおいを与えられて、己の過去が一瞬で脳裏をよぎった。父親を愛し母親を愛し、弟を愛し、健全に、楽しく、何不自由なく生きた、全てに満ちていた時代。 「あんた、まだ、この里に来たばかりだと言ったな。これも何かの縁だ。里を案内してやるよ」 「いや、そこまでさせるわけには」 「…まぁ、私の里でまたぶっ倒れられても困るから、見張りたいだけなんだけどな」 何気なく付け加えられた言葉には、年相応のいたずらっ子の笑顔が付いてきて。 「―――そうだな。また倒れるのも嫌だし、お願いすることにしよう」 ―――もう少しだけ、その笑顔を見たいと思ってしまったのが、そもそもの始まりだった。 ← 2 不可思議な関係← 3 長男長女「そういえば、お前、長男なんだってな」 「…? それが?」 どこから聞いてきたのか、唐突にそんなことを言い始めたテマリの意図が分からず、イタチは首をかしげる。 テマリのいれたお茶を飲みながら、饅頭をつまんだ。 基本的に、テマリが甘いものをそんなに好まないのでイタチがこうして処理するのが最近の暗黙の了解。 イタチが饅頭を食べる間にテマリはぱりぱりと煎餅をかじる。 「私は長女なんだ」 「…知っている」 弟は2人。砂がくれの中でも名の知れた傀儡使いと、現在の風影。 前風影の娘にあたり、将来を有望視される忍。 そんなの、とっくの昔に知っている。 それはテマリとて百も承知の筈だ。 だからこそテマリの意図が分からない。 「別に、何ってわけでもないんだが」 テマリ自身もまた、言葉を探して首をかしげる。 しばらくぱりぱりと煎餅の割れる音だけが響いて、イタチはのんびりとそれを観察する。元々口数が多いわけでもないのも手伝って、こういった沈黙は苦にならない。 「ああ」 思い出した、と言わんばかりにテマリの顔が輝いて。 「おそろいだな」 なんとなくそれが嬉しかっただけだ、と、絶句するイタチをよそにテマリは楽しそうに笑った。 ← 4 馬が合う← 5 さよならうちはイタチ。 お前は最高の馬鹿者だ。 お前の意思はきっとあいつには届かない。 もうダメなんだ。 お前が守りたかったあいつは滅びの道を歩こうとしている。 木の葉に身を反して。 木の葉を潰すために動いているんだ。 お前が守った木の葉を。 お前が守ったあいつが壊そうとしている。 なぁ、お前、本当にそれでよかったのか? うらまれて、憎まれて、殺されて。 お前の人生はなんだったんだ。 お前の人生はお前だけの物じゃないか。 うちはサスケのための人生じゃないだろう? 木の葉のための人生じゃないだろう? 「馬鹿野郎…っっ!!!」 どうして気付いてしまったのだろう。 お前の死に気付かなければ、良かった。 風が届けてくれた。 お前の死を運んでくれた。 お前の死を嘆いてくれた。 なぁ。 お前は満足して逝ったんだろう? ずるいよな。 本当に、ずるい。 血が出るまで、拳を握り締める。 もう、お前はいないんだな。 お前に置いていかれた私はどうすればいい? 「私は…っっ!」 慟哭が止まらない。 心臓が痛い。 苦しい。 胸が張り裂けそうだ。 前が見えない。 「お前が好きだったんだぞ…っっ!!」 うちはサスケなんかよりもずっとうちはイタチが好きで。 好きで。 本当は、無理をしないで、サスケの事なんて放って、木の葉の事なんて放って。 ―――傍に、居て欲しかった。 眼が見えなくなっても良い。 写輪眼なんてなくても、忍として生きれなくても、それでも。 ただ、お前の傍に居たかった。 『お前にも弟が居るから分かるだろう』 守りたい存在が在るから。 大事な弟が居るから。 …それでもっ。 悔しいじゃないか。 悔しいじゃないか。 死に目にも会えない、なんて。 ずるいじゃないか。 「……馬鹿、野郎……っっ」 お前にそんなにも愛されたうちはサスケが憎いよ。 けれど、お前は本当に馬鹿だから。 そんな馬鹿なお前を好きになったのだから。 「……いいよ」 守ろう。 お前の意思を継いでやろう。 お前が望んだように。 お前の生きた意味を守るために。 お前が死んだ後くらい穏やかに眠れるように。 絶対に、うちはサスケを殺させはしない。 絶対に、木の葉を壊させはしない。 木の葉同盟国砂の忍として、お前を愛した一人の女として。 私の残りの人生をお前のために使ってやろう。 泣き崩れた顔で。 ぼろぼろの顔で。 テマリは笑って。 「―――さよなら。うちはイタチ」 愛していたよ、と別れを告げた。 満足だった。 ただ、満足だった。 心配事も、心残りも、勿論あるけど。 それでも。 後悔はしていないと言える。 ただ、サスケ。 お前は強く生きろ。 俺の手も、うちはマダラの手も届かないような。 そんな強い男に。 木の葉を愛し、守り、慈しむ、本来あるべきだった誇り高きうちは一族のように。 そして―――テマリ。 そんなうちはサスケを見届けて欲しい。 俺の代わりに。 俺が見れなかったあいつの立派な姿を。 ずっと、見守っていて欲しい。 そんなの、ただの我侭だけど。 俺はお前に何もしてやれなかったけど。 お前に出会って、何度救われたのか分からない。 『―――お前は、弟を守りたかったんだろう? なら仕方ない。そう思うべきだ』 初めて人に忌々しい過去を話した。 初めて人に知ってもらいたいと思えた。 初めて人に自分の想いを打ち明けた。 初めて人を好きになった。 本来出会うべきでなかった木の葉の抜け忍と砂の上忍。 それがどうして出会ってしまったのだろう。 どうして惹かれてしまったのだろう。 せめて争いと共に出会ったのなら、こんなにも親しくなる事もなかっただろうに。 それでも、出会いから間違えてしまったから。 ただ、いとおしい。 テマリ。 忘れないでくれ。 俺のことを。 俺の生きた意味を。 俺の起こした罪を。 俺の守りたかった想いを。 見届けて欲しい。 俺を止めないでいてくれたように。 俺の意思を尊重してくれたように。 今度はサスケのことを見守って、見届けて。 俺は、お前が居るから、安心して逝ける。 傍に居る事は出来なかったけど。 それでも本当に愛していた。 テマリ。 俺は満足だよ。 だから、そう。 ―――さよなら。テマリ。 唯一人、心から愛した人。 ← 5 さよなら(別)「テマリ、これを貰ってくれないか」 差し出された男の手の平に乗るほどの、小さな小さな白い箱。 その意図がつかめなくて、一度男を見上げる。いつもどおりのポーカーフェイス。全くの無表情無愛想。 もう一度箱を見下ろした。 「…何が一体はいっているんだ?」 「さぁな」 「なんだそりゃ」 「ああ、なんだろうな…。でも、また必ず開けに来るから、テマリに持っていて欲しい」 そう渡された小さな小さな箱。 空っぽなんじゃないかって思うくらいに軽くて、振っても何の音もしなかった。 訝しく思いながらも、初めて男が為した約束の言葉に気を取られた。 そう約束。 ―――また、必ず開けに来るから。 馬鹿な小娘みたいに、その言葉に浮かれてしまう。 だって、そんなの初めてだ。 男はいつも勝手に現れて、勝手に去っていく。 表情には出したつもりないけど、きっとこの男には見抜かれていることだろう。 だから、それが無性に照れくさくて、視線を逸らして誤魔化すように憎まれ口を叩く。 「全く、お前は落ち着きがないな」 「それは初めて言われたな。…逆ならよく言われる」 「そうか、なら、私がお前のその性格に気づいた第一人者だ。感謝しろよ」 きょとんとした―――多分、彼をよく知らなければ全くの無表情の、その整った顔がひどく可愛らしく見えて、テマリは笑った。 本当に、嬉しそうに、楽しそうに…幸せそうに。 ああ、それはなんて、幸せだったのだろうか―――。 ―――そんな事を、男は思って。 「……っっ!!!!」 テマリは息を呑んだ。 部屋の中でチャクラが巻き起こり、風が吹き上がる。 急な風にテマリの読んでいた書類が巻き込まれ、部屋のものも吹き飛ぶ。 ―――それを、テマリは気にしなかった。 そんなことよりも、ずっと気になることがあった。 窓は開いていない。 それなのに、風は急速に巻き上がり、全てを吹き飛ばした。 やがて、風は収縮し、チャクラとなって一つに纏まる。纏まって、薄っすらと人の形を纏った。 その姿かたちを、テマリは確かに知っている。 「―――イタチ」 黒い髪、黒い瞳、黒い衣装。 全て、知っている。 うちはイタチ。 本来ならば、出会う筈もなかった木の葉の抜け忍。 『テマリ』 そう、黒ずくめの男は笑う。 普段なら決して見せないような、柔らかな笑顔。 嫌な予感がする。 この先は聞かない方が良いとどこかが判断する。 それと同時に聞かなければならないとどこかが判断する。 『お前がこれを見ているなら、俺はもう死んでいるだろう』 「―――っっ!!!!!」 『前に、話したな。俺はサスケの為に死ぬ。多分それは叶ったと思いたい。もし機会があったら調べて欲しい。そして出来るなら、お前がサスケの力になって欲しい。…無茶を言っているな俺は』 分かっているなら、口にするな。 思わず頭にそんな言葉が浮かぶ。 本当に、無茶苦茶だ。 怒鳴りつけてやりたい。 ふざけるな、と殴ってやりたい。 ―――それこそ無理なのだと、分かってる。 『テマリ』 そんな、優しい声で呼ぶな、とテマリは願う。 いつだってそんな声で呼ばなかったくせに。 『俺は、お前に会えて本当に良かった。…生き残ったら、お前に会って、この箱を開けるつもりだった。信じられるか? この俺が、本当にそれを望んでいたんだ』 弟の未来を、幸福を、願い。 里の未来を、幸福を、望み。 そうして自分の全てを捨てた男が、本気で望んだたった一つの未来。 既に潰えた、男の望んだ小さな未来。 『テマリ、愛してる。…こんなこと、目の前では口が裂けても言えないな』 そう男は照れくさそうに視線をそらし、小さく笑う。 『でも、もう最後だから言っておく。―――愛しているよ、テマリ。お前に会えたことが、俺にとって最高の奇跡だった』 「―――っっ」 『だから、ありがとう。ありがとうテマリ。愛している。だから―――元気でな』 綴じは決別の言葉だった。 そうしてチャクラは霧散する。 一瞬で全ては消え失せ、愛しい男の姿は何処にもない。 「――ーか、やろう」 もういない男に毒づく。 「言いたい、放題…言いやがって…」 拳を握る。 消えた彼の最後の笑顔は、それはそれは綺麗なものだったから、テマリはもう何もいえなくなる。 「馬鹿だよお前」 本当に、馬鹿だ。 私もイタチも。 結局彼は、最後の最後までうちはサスケの兄だった。 テマリが、きっと最後の最後までそうであるように。 ぽろっとこぼれたものに、テマリは目を見張った。 その動きが呼び水となったのか、つぎつぎと涙は零れ、頬を濡らしていく。 そう。 そうだ。 「私だって、愛してるっっ」 ぼろぼろと零れるそれを両手で覆った。 届かない言葉を嗚咽と共にこぼした。 もう、2度と届かない言葉をこぼして。 「…嘘つきが…!!」 もう、2度と叶えられない約束に泣いた。 死者の心をこめられた小さな箱がテマリの足元に転がっていた。 ―――さよなら と、笑って目を閉じた。 |