1 王の盾

 男は囁く。
 ひどく優しい声音で。
 ひどく涼やかな声で。
 ひどく澄んだ響きで。

 まるでとても素晴らしい人格者のように。

 ひどく、優しい人であるかのように

 ―――残酷な言葉を囁く。

 ヒューマでもない、ガジュマでもない、そんな化け物がまともに相手されるとでも思った?
 そんなの、あるわけないじゃない。
 子供でも知っているさ。
 あんたはヒューマでもガジュマでもない、誰にも相手にされないってこと。

 両手首を押さえつけ、壁に押し付けるような格好で男は女の耳元で冷たく笑う。
 紡がれる言葉はまるで毒のように、滑らかに耳に入り込み、頭の中を蝕む。体の隅々まで浸透し、全身を縛り付ける。

 耳を塞ごうとして、それを阻止される。
 力任せに握られた両手首は動かない。
 長い長い癖の強い黒髪は乱れ、その合間から人にはない筈の長い獣の耳と…今は無残にも折れた2本の角が突き出ていた。
 その長い耳を味わうかのように舌先で舐めて、女の頑なな反応にくつくつと笑う。

 ねぇ、殺してきてあげようか?

 さざなみの様な笑い声の中、残酷な言葉を男は紡ぐ。
 目を見開いて息を呑んだ女に、アイスブルーの冷たい瞳を持つ男は笑った。

 笑って、女の唇に口付ける。衝動的に身体を引いて逃れようとした女をしっかりと捕まえて、深く深く、喉奥までも舌で探り、唾液を溶かす。
 女の抵抗が止み息も絶え絶えになってから拘束した両手を離す。
 力の抜けきった女の身体は容易く床へと崩れ落ちた。
 広がる髪に覆われた頬に幾筋も涙が伝う。

 ―――それは何に対する涙?

 しゃがみ込んで、長い長い黒髪を指先でくるくると回す。
 昔なら一々髪を取り返した女は今、ただただ無気力に横たわるだけ。

 しん、と静まり返った空間の中、男はつまらなそうに立ち上がり、弄んでいた髪の一房を離した。
 ふわりと髪が床へと落ちて、それを見ることもなく男は部屋から去った。


 女はぼんやりとした視線でその後を追い、そのまま瞳を閉じた。


 例えるのなら、女は何も入っていない空っぽの器。
 どれだけ望もうとも、渇望しようとも、何一つ入っていない器。

 だから空っぽの器を満たすのは自分でなければならず。
 与える存在は自分でなければならず。
 
 自分以外のものが勝手に与えていいものではない。

 面白くない、と男は呟いた。

 面白くない。
 面白くないから殺してしまおう。

 そう笑う。
 
「さ…サレ様っっ!? 一体何…をっっ」

 馬鹿だねぇ君も。
 中途半端に優しくするから勝手な誤解をするんだよ。
 それが嫌なら最初から突き放せば良い。
 初めて優しくされたなら幼子のように慕うのは当然じゃないか。
 愚かにさぁ。

 本当に本当に見ていて愚かな様だった。
 抱かれながら他の男を思う様は滑稽だった。
 目の前で怯えるこの男に抱かれたかった?
 触れられたかった?
 優しく口付けられたかった?

 本当に馬鹿なことだ。
 ヒューマがハーフなんて受け入れられる筈がないじゃないか。

「ひぃっっ…や、やめっっ」

 男は腕を上げる。優雅に優雅に。
 巻き起こる風の嵐。

「うわ、うぁああああああああああああああああああっっ」

 嵐の中で男の声は遮られ全身から血が流れ続ける。
 ぼろぼろと零れる女の涙のように。

 不意に嵐が止む。
 男は全身血まみれで崩れ落ち、そのまま反応はなかった。生きているだろう。すぐに死ねるような、そんな生ぬるいやり方は好みではないから。

 ただ、そう、つまらない。
 アイスブルーの瞳は冷たく転がる男を見据え、それだけだった。
 苛立ちは収まらない。
 ただ男を殺すのもつまらない。

 もう男に対する興味はなかった。
 どうでもいい。
 どうせトーマが勝手に処分するだろう。
 男の所為で重要な角を折ったハーフの女は貴重な手駒の一つであったから。




「…何」

 暗闇の中で蹲る女の言葉にサレは笑う。
 やはり、面白いというのならこちらがわ。
 光をつけて照らされた女の頭に角はない。
 そんなものどうだっていい。

 癖の強い髪を掴んで手の平に巻きつける。
 後ろに引っ張って女の顔が上がる。化粧の一つもされていないぼろぼろの顔だ。目は真っ赤に腫れあがって、どこぞの地獄でも覗いてきたかのような虚ろなアメジスト。
 慣れた動作で口付ける。
 目に、目元に、頬に、唇に。
 ピクリともしないその様は人形のよう。

「止めて…」

 それでも唇が開放された隙をぬって、力のない声が落ちる。

 だから、サレは言う。
 男は女の特徴的な形の耳元で囁く。
 優しく、優しく。お綺麗な声で、毒を吐く。

 ヒューマでもないガジュマでもない身の程を知ったかい?

 びくりと震える女の耳を舐める。
 囁く言葉は甘く、どこまでも優しい響き。

 化け物は化け物だと理解したかい?

 唇の動きが聴覚を刺激して、毒のように全身を駆け巡る。
 枯れたかと思った涙が零れた。

 君の相手なんか僕しかしないって理解したかい?

 毒が回る。
 全身をつたって、指先の先まで。
 どこまでも甘い、蜜のような毒が回り続ける。

 どこまでも、どこまでも。いつまでも、回り続ける。


 王の盾という狭い世界で、くるくるくるくると回り続ける。



 
















2 ヒト

「ヒューマもガジュマもハーフも一緒さ」

 驚くほどあっさりと男はそういった。あまりにもあっさりとした口調に、ヒルダは一瞬意味を掴み損ねる。
 男は何一つ変わらない表情で、皮肉気な笑みを口元に刻みヒルダに向き直った。

「死んだら唯の肉の塊。もっとも生きてても変わんないけどね」

 せいぜい皮の違い?
 くつくつと男は笑いながら服を身に付けていく。
 目が覚めるような青い服。どこか貴族然としたしっかりとした仕立ての服だ。
 腰に剣を吊って、男の身支度は完了する。
 あいも変わらずヒトの部屋に無理矢理入り込んで勝手に居座っていくヤツの服装ではない。

「それで? 何を呆けているのさ。今日はトーマとヒト狩りに行くんだろ」
「…そうよ。成功させて…今度こそ、ヒューマの身体を…」

 貰う。
 愚かなまでに女はそう信じる。
 そう信じなければ裏切られ続けた心は壊れてしまいそうだったから。
 絶望に塗りつぶされた心に希望が必要だったから。

「フフ。楽しみだねぇ」

 希望が絶望に塗り替えられる様が。
 彼女の標的であるヒトの集まりが傷つき苦しむのが。

「壊しておいでよ。あの目をさぁ」

 ヒューマの身体が欲しいんでしょう?
 そう耳元で囁く声。
 ヒルダは頷き、立ち上がる。肩から落ちたシーツはそのままにシャワーを浴びるために浴室へと向かう。
 その後姿を追いながらサレは笑う。

 黒髪から覗く角の折れた後。
 それを隠すために深く深く帽子を被るようになった女。

「馬鹿だねぇ」

 そう笑う。
 角があろうと尻尾があろうと、何一つ関係ない。
 外見なんて全くどうでもいいもので、生きた目をしているか、そうでないかだけの問題だ。
 どうせ肉の塊。肉が合って血があって骨があって筋肉がある。一皮剥いてしまえばどの生物も同じだ。
 外見に左右されるなんて愚かなだけ。

 一体いつになればそれに気付くのだろうか?



「馬鹿じゃないの…っっ」

 浴びる水の中言葉が溢れた。
 何度も何度もそう呟く。
 そうしなければいけないというように。

「一緒な訳…ないじゃないっっ」

 ガジュマもヒューマもハーフも。
 特にハーフはガジュマでもヒューマでもない。
 どちらにも慣れない中途半端な混じり者。

 だから、どちらにも受け入れられない。
 だから迫害される。
 それがハーフというヒト。




 結局はヒトに違いないのだと、ヒルダはまだ気付かない。



 

















3 血

 血が、流れていた。
 どこまでも、どこまでも。
 長く、長く。
 まるで大河に連なる小川のように。
 つらつらとゆらゆらと。

「何、してんのさ」

 前にも、こんな事があった。
 過去に現実との一瞬の交錯。

 目の前に広がる光景は、何一つぶれず、ピタリと合致する。

 倒れる女。
 バラバラに広がる黒い髪。
 零れ続ける赤い赤い、その色。
 硬く閉じた瞼。
 蒼ざめた白い面。
 脂汗のにじむ額。

 同じ光景。
 過去にもあった光景。

 それなのに、前とは明らかに違う感情の奔流。

「…さ…れ?」
 
 女の瞼が震える。
 うっすらと、ゆるやかに瞼を押し上げて、その瞳に男を写した。
 殆んど見えてなんていないのだろう、光のないその瞳と目が合い、一瞬、男の身体が震える。
 本当に僅かな、誰も気付かない…本人ですら気付かない一瞬の出来事。

「ヒルダ、ねぇ、君さ、何してんの?」

 怪我人にかける言葉ではなく、けれどもサレは問いかける。
 流れる血をその冷たいアイスブルーの瞳に写して。

 ねぇ、と問いかける。

 まるで子供のように。

「………サレ」

 冷たく自分を見下ろす男に、女は手を伸ばす。
 伸ばそうとして、果たせない。
 中途半端に浮いた、だけ。

「ねぇ、君さ、馬鹿だよね。ほんっとに馬鹿」

 問いかけは、悪態へと変わる。
 それを聞いてむしろ安心したかのようにヒルダは微笑む。

 不意に、男は膝を折り、浮いた女の手を捕まえる。
 まるですがりつくように握ってしまった事に、男は気付かない。

 ―――皆は?

 声にすら出さず、女はそう唇を動かす。

「家の中」

 ―――そう。良かった。

 無事で、良かった。
 この惨状を見なくて、良かった。

 2重の意味で、ヒルダはそう笑った。

 男は、血だまりの中に立っていた。
 屈強な体つきをした、サレの2倍も3倍もあるような大男達は倒れ伏し、ピクリとも動かなかった。流れ続ける赤い血はサレの靴を、女の身体を、濡らす。
 絶命したのかそうでないのか確認はしていない。
 サレがしたことは、嵐のフォルスを使っただけ。
 殆んど無意識に、それをした。
 意識を向けるほどの相手ではなかった。

 それなのに、女は倒れていた。
 子供を庇って1人で戦おうとして、それで、隙をつかれた。
 言葉にすればひどく簡単で単純な、話。

「ヒルダさんっっ!!!!!」

 足音と共に、女の、あるいは男の待ち望んでいた声が飛ぶ。
 子供のうちの1人が求めた助け。
 惨状に一瞬息を呑み、焦りを含んだ声が、様々な言葉を飛ばし、サレの横を通過する。
 サレの存在など見もしなかったかのような自然さで、声の主、アニーという医者でもある女は膝を付いた。
 あっという間に赤い血がその靴に、服に、纏わり付く。

 少女はヒルダから流れる血の出所を確認し、深く、深く、息をついた。
 安堵だ。

「…良かったぁ……っ」

 全然大丈夫。まだ間に合う。

 そう、女は泣きながら、笑った。



「なんだ、助かるの」



「―――っっ!」

 それなのに、嘲りすら含んだ冷たい声に、一瞬で、血が上った。血が沸騰するような怒りに、目の前が真っ白になる。
 患者を前にして他の事に気をとられるなど言語道断だが、それでも、アニーにはその声の主が、その言葉が、許せなかった。

 だから、見上げて、射殺すような目で睨みつけて。

 ―――その瞬間、時間すら止まった様な錯覚に陥った。

 見上げた男の目に、アニーは映っていなかった。
 ただ、倒れふして微笑む血を流す女が写るだけ。

 気付いていないのだろう。決して気付かないのだろう。

 嘲るように冷笑の形を作る唇とは真逆に、その瞳が無防備に揺れている事に。
 あまりにもまっすぐにヒルダを見下ろしている事に。

 その瞳が、確かに、温かな感情に揺れている事に。


 サレ自身だけが、絶対に気が付いていないのだ。




 呆気にとられたアニーは力なく、視線を落とす。
 一瞬で昇った血が、ゆるゆると戻って。

「………」

 医者としての目に、戻った。

「サレ…さん、ヒルダさんを中に運んで貰えますか? 揺らさないように、お願いします」

 沸き起こる様々な感情を無視して、アニーは、真っ直ぐにサレを見つめた。
 決して、良くは思っていない相手だ。
 アニーはこの男を嫌悪しており、自分とは決して相容れない存在だと理解している。
 ヒルダに対しても何故こんな男と、と何度も思った。何度もそう問い詰めた。
 納得のいかない答えに不満をぶつけ、これまでの男の所業を並べた。

 それでもヒルダは揺らがなかった。
 決してだ。

 サレの所業も、これまでの罪も、今またどこかで行われているであろう行為も、何もかも受け入れた上で、ヒルダはサレを愛した。

 アニーにとって何一つ理解できないそれ。

 サレなんかと一緒にいても幸せになれるはずがない。
 あの男にまともな愛情なんてあるはずがない。
 ヒルダが不幸になるだけ。

「…フン。嫌だねぇ、君なんかに指図されるなんてさぁ」

 こんな男なのに、ヒルダをそっと抱き上げて見せるから。
 意識を失ったヒルダをほんの僅かに柔らかくなったアイスブルーの瞳で見つめるから。

 アニーは奇妙な脱力感と共に、笑った。

 笑っていて、それで、涙がこぼれた。

 さっさとアニーの横をすり抜けた、男の細い後姿と、抱きかかえられる女の姿。

 そんなの何一つ見ていなかったのに、アニーは彼らを否定した。
 それはきっと姉とも慕う女性を傷つけて。

 押し付けがましい自分の一方的な価値観と心配なんて、ただただ余計な事でしかなかったのだと、そう、理解した。





 血が、流れていた。
 どこまでも、どこまでも。
 長く、長く。
 まるで大河に連なる小川のように。
 つらつらとゆらゆらと。




 それはサレの世界そのもので。
 それはサレにとって日常のごとき親しいもので。
 見慣れていた筈のそれに、一瞬でも我を失うなんて事、ありえないことで。

 それでも何故か、奇妙にも、その血が許せない、などと―――。








「ありえないね」

 ヒルダの姿をその瞳に写しながら、そう、サレは笑った。



 



















4 冷たい指先

「…あんたの手は、冷たいわ」

 女の声に、サレはゆるりと目を開ける。
 サレの指先に重ねられた女の手。
 普段シルクのレースで縁取られた手袋に包まれている手は、恐ろしいほど白く、血管がうっすらと見えている。そもそも素肌をさらすことを極端に嫌う女だから、日焼け、というものが全くない。それを言うならサレ自身もそう。細長く、白い指先が重なる様は、まるで女の手が重なり合うよう。

「君の手は熱いよ」

 まどろみの中の声の所為かサレの声はひどく甘い響きを伴っていて。それに気が付いたサレは苦虫を噛み潰したような顔になる。自分で言っておいて、はっきり気持ち悪い。
 自分で言った台詞に対して複雑な顔をする男に、ヒルダは全く気づかず、熱心に指先へと視線を注いでいた。

 サレの手と、ヒルダの手。

 どちらも色が透けるほどに薄くて、指先は長い。
 伸ばした爪の分まで合わせれば、その長さは特に変わらないくらいだろう。
 パッと見は同じように見えて、その実案外違う。
 サレの手の方がヒルダのものより一回り大きくて、関節が目立つ。
 触ればざらりとどこか硬質で、薄い皮の感触。
 ヒルダの手は柔らかくて、ひどくなめらか。爪は長く揃っていて、薄っすらと口紅とお揃いの色が塗られている。

 何度か指と指を交差させて、くすぐるかのように移動させて、最後は指先を絡ませる。
 指先から伝わる熱が混じって、サレの低い温度とヒルダの高い温度を中和する。

「…不思議」
「何さ」
「あんたの手も、暖かくなるのね」
「…はぁ? 何それ。意味分かんない」
「いつも、冷たかったもの」

 この優雅な指先は、どこまでも冷たくて。
 目の前で優しく差し伸ばされているように見えて、その実どこまでも冷たく突き放す。
 身体に触れる指先は氷のように冷たくて、いつも背が震えた。
 頬をすべる指先は優しかったけれど、どこまでも冷たい毒の眼差しがあった。

 温かいなんて、一度も思わなかった。
 冷たい手だと、そう思って疑わなかった。
 男と自分の間には温かな愛情など何一つなく、ただ冷たい感情だけが敷き詰められていたから。

「今も、冷たいだろ」

 不愉快そうに、サレは顔をしかめる。

 冷たい氷のような、手。
 それを溶かしてしまう、女の熱い手の平。

 ゆるやかに、穏やかに、尖りきった鋭い氷を丸く溶かして。
 それは、あまりにもゆるやか過ぎて、誰も気付かない、水一滴分ずつの変化。

「それに、君に触ってれば熱くもなるさ」

 もともとヒルダは体温が高い。
 サレの低温より、ヒルダの高温の方が、ずっと伝わりやすい。

 それだけの話。

 それだけなのに。

「………私、つくづく馬鹿な女だわ」
「いきなり何さ」
「だって…」

 どこか幼い仕草で、ヒルダは横を向いて、言いにくそうに口ごもる。
 ほんの少し身を寄せて耳をすましたサレに気が付いて、ヒルダは小さく吹き出す。
 くすくすと笑う声が少し響いて。

「…幸せだとか思っちゃったもの」

 それこそ幸福に満たされた声が、サレの耳に届いた。



 

















5 微笑

「生きてる…」

 どうして、とヒルダは視線を巡らす。周囲の状況を情報として頭に取り込んで、急激に現状を理解し始める。身体を起こそうとして、失敗した。
 腹部がじくりと痛む。
 ヒルダは傷を負い、毒に倒れた。
 使い物にならなくなった道具をトーマは捨て置き、そのまま去った。
 王の盾に置いて、何一つおかしい事でもない、当たり前のひどい話。
 腹部の傷は如何してだか止血してあり、包帯まで巻かれている。それを手のひらの感触で確認した。手当てされている、という事自体に驚きはない。生きているということは、誰かがそう処置をしたということだから。
 誰が、とは思う。トーマはありえない。王の盾の人間もまたありえない。
 あり得るならば、通りすがりの親切な人間。
 …もっともあり得なそうだ。

 視線だけを巡らせる。倒れる前と、何一つ変わる事のない光景。
 そう思い、思った直後、息を呑んだ。

「…サレ」

 悪趣味な青の服の癖して、景色と一体化した紫の髪の少年。
 まだ幼さを残す輪郭に不釣合いな冷たいアイスブルーの瞳は、何の感情も浮かばず、その癖ゆるりと口の端が微笑の形を作る。ヒューマでありながら強いフォルスを使いこなす、王の盾にあっても異質な存在である少年。年はまだ20にも満たないと聞いている。
 王の盾に入ったのはヒルダよりも後だが、そのフォルスの力と冷酷な正確で既に確固たる地位を築こうとしている。
 そもそもヒルダの方はトーマの手駒として育てられているが、王の盾の一員として表立ってはいない。王の盾である前にトーマの部下だからだ。
 そして、少年と少女はさして親しくない。
 むしろ悪いだろう。
 ヒルダにとっていつもへらへらと笑っているサレは嫌悪の極みでしかない。それを知っていながら戯れにサレはヒルダに声をかける。

「やぁヒルダ。ご機嫌いかが?」
「……最悪よ。決まっているでしょう?」

 自分の身体がなんとか動くのを確認して、睨みつける。端正な顔立ちに歪んだ微笑。サレは立ち上がりヒルダの前で両膝を折る。

「何故、助けたの」

 この場にいるという事が、ヒルダの生がサレの行動によって成り立っているのだという証明。
 ひょろりとした体躯の少年は笑う。
 どうせろくでもない理由なのだろう。下手をすれば理由などなさそうだ。この少年に限って、情が動いたなんてことはありえない。
 そのヒルダの考えを肯定するかのようにサレは微笑を消さない。

「別に? 君が苦しんでのた打ち回りながら死ぬのを観察するのも悪くない、って思ったんだけどさ、君ときたらただ倒れて目を開いているだけ。つまんないったらないね」
「だから?」
「だったら、生かしてトーマに操られる様を見ていたほうが余程面白いじゃないか」

 そう肩を竦めたサレに、ヒルダは深々と息をついた。
 やはり、というかなんというか。
 立ち上がろうと身体に力を入れる。サレに見下ろされるのはなんとなく不愉快だ。
 思っていたよりも身体の反応は鈍く、上手く力が入らない。まだ毒が身体に残っているのだろう。
 もどかしいほどの速度で、土を掻いて両腕を突っ張る。ようやっと上半身を起こせた、と思ったら、肩を押され、土の上に逆戻りした。
 力の入らない体は土の上に叩きつけられ、ヒルダは息を呑む。

「な、にをするのよ!」
「何って? この状態ですることなんて一つしかないと思うけど?」

 くすくすとわざとらしく笑いながら少年はヒルダの顎をすくい、唇を奪う。予想していなかった事態に息が詰まった。とっさに突き出した腕はいつもの半分も力がなく、あっさりと振り払われた。

「礼を貰ってもおかしくはないと思うけど?」

 顔を離しざまヒルダの髪を救い、そうサレは笑った。
 抵抗はこの少年を喜ばせるだけなのだろう。そう思いながら、嫌悪に身が震えた。
 変に力を入れた所為か腹部の傷がずきずきと痛む。
 顔を苦渋にしかめたヒルダにサレは笑って。
 どこまでも笑って。

「死んでしまえ…っっ」

 憎悪に満ちた瞳にとろけるように笑い続ける。
 どこまでもどこまでも綺麗な微笑で。

 その日、まだ幼かった少年と少女は初めて身体をあわせた。
 遠い日にそれが当たり前になることなんて、まるで知らずに。