冬の夜に降る時雨と邂逅
黒い髪、黒い瞳。
身長150.5センチメートル。体重41.2キログラム。
極々一般的特徴を持つ、どこからどう見ても平均的な子供。
その姿を鏡で確認し、奈良シカマルは小さく頷いた。
いつもながら不機嫌そうな、気だるそうな、面倒そうなしかめ面。最早意識しているわけではなく、完全な癖。
父親がそうであるから、奈良シカマルもそうした。
それが、彼に与えられた任務の一環だから。
当たり前の家族を作る。当たり前を演じる。
毎日はそれの繰り返しだ。
だからシカマルは変わらぬ毎日を過ごし、こうして変わらぬ日常を過ごす。
例え今いる場所が木の葉の里ではなく、砂の里で、潜入中だとしても、任務は任務だし、それはすなわち日常と同じ事。
視線は鏡に送ったまま、体内を巡るチャクラを纏め上げ、印を組む。影だけを自分から切り離し、宿の中の暗闇をつたい、進む。外に出た影は、影という影を渡り歩き、シカマルに全ての音を届ける。どこどこの店員の態度が悪いとか、恋人との痴話喧嘩とか、子供の泣き声とか、卑猥な噂話とか、なんとも平和で、馬鹿らしくて、どうでもいいことだ。
シカマルは頭の中に砂の里の地図を描き、意識を集中させる。影はじわりじわりと進み、砂の里の中心部まで近づく。
風影がいるであろう、里の中心部。
そこは、どこよりも情報が集まり、どこよりも重要な情報の行きかう場所。
ただし、それと同じだけ優秀な忍が多い。
気付かれれば終わり。深入りはせず、地理を覚える。影とシカマルは繋がっている。意識を集中させれば目も見えるし、耳も聞こえるし、口もきける。ただし、影に集中すればするほどシカマルの身体本体は無防備になり、注意も散漫になる。
下手に動く事はせず、音を拾う。下忍よりも中忍の、中忍よりも上忍の、上忍よりも暗部の…。
任務内容、上司への愚痴、待遇の不満、中忍試験のこと、化け物のこと、風影のこと………どれもこれも、必要な情報とは違う。
シカマルは落胆の息をついて、意識を影から切り離した。
元々、確実な話じゃなかった。本当に、小さな、小さな噂程度。確証は誰にもなく、噂の出所も不明。そんな怪しい情報をわざわざ探りに来たのは、奈良シカマルが"抜け忍"を狩ることを専門にした追い忍部隊の暗部だから。
獲物は一人。
木の葉の抜け忍の中でも最高級の獲物。
―――かつて三忍とまで謳われた、木の葉の忍、大蛇丸…。
既に死んだとも囁かれていたが、今になって噂を伝え聞いた。その真偽を確かめるために、シカマルは今ここにいる。
じっとしていた分の身体中の凝りをほぐすように、軽い柔軟をし、時間を確認する。
既に夕食がふさわしい時間帯だ。
あまりの収穫のなさに、やはり噂はガセだったのか、という気がしてきた。
与えられた期間は一週間。木の葉と砂との往復で6日はかかるので合わせて2週間。既に4日目だ。明日には遊郭に潜入しているヒナタと落ち合って情報を交換する。そこで、互いの情報にまるで進展が見当たらなければ、砂の忍のレベルやら情報やら集めて終了。なんらかの形で大蛇丸の関わりが出てくれば、その情報の真偽と更なる収集。
なんにしろ大蛇丸が関わっているとしても、本人は出てきていないだろう。居場所を掴めればベストだが、そう、上手くいくはずもない。
夕食を取ってから、シカマルは外に出る。
既に夕闇へと包まれた砂の里は、木の葉の光景とまるで違う。
「…さみぃな」
はぅ、と吐いた息が白く染まった。ポケットに両手を突っ込み、空を見上げた。
「……一雨、来るか?」
呟いてから歩き出す。目的地は決まっている。
砂の情報がどこよりも集まる場所。どこよりも重要な情報の集う場所。
夜は影の領域。
シカマルにとって最高の舞台だ。本体を近くに置く事でより精度が高められ、チャクラの消費も少ない。
ふと、思い出す。昔の事。
まだ、奈良家にいなくて、まだ、奈良シカマルと呼ばれていない頃。
まだ名前すら持たず、忍でもなく、人ですら、なかった。
恐らくあの頃の自分は、そして自分と一緒にいた子供たちは、ただの道具でしかなかったのだ。
けれど、多分、あの時初めて命を得た。
名前がなくとも、居場所がなくとも、道具ではなく、人になった。
いつのことだったのか、正確には覚えていない。ただ、どこかの森の中で死にかけた。
そこいら中に仕掛けられた罠にまんまと引っかかって、傷を負った。傷自体は大した物ではなかったが、毒が塗ってあった。傷を手当てするよりも先に、敵対していた獣に隙を見せないことを選んだ。
敵対する獣は大きく、強かった。追い込んだのは自分であり、罠によって追い詰められたのは自分。相対し、チャクラを練り込む。多少足がぐらついたが、決して視線をそらさない。それは、毒よりも遥かに明確な死の訪れだから。
チャクラはシカマルの意思に従い、放出される。獣の足元を沼地に変え、引きずり込む。シカマルの身長をはるかに越えていた獣の頭が、ようやく見えた。その頭を、術で作った刃をもって切り落とした。
獣の頭が落ちる轟音を耳に捉えながら、シカマルもまた崩れ落ちる。手も足も力がはいらない。ほんの僅か動かすだけで精一杯の状況で、小さく舌打ちをする。毒には相当慣らされている方だが、今回の毒はかなり強い。ここで死ぬならそれまでということか。
宵闇の中では傷口を見るのも容易ではなく、術で明かりをともす力も、手当てする力も残ってはいなかった。腰のポーチに入れた解毒薬、それで大抵の毒は中和出来る筈だが、どうにも身体が動かない。僅かに指先が動く程度か。
シカマルの努力をあざ笑うかのように、ぽつぽつと雨が降り始める。
雨はうつぶせに倒れたシカマルの背を叩き、その音はまるで笑い声のようだった。
「…くそ…」
土を握り締める。腕を腰のポーチに伸ばす。………たったそれだけの動作が、恐ろしく遅く、鈍く…。
届かない。
土を引っかいた後だけが残り、水が僅かにたまるのが見えた。
ぼんやりとした視界で、これで終わりなのだと悟る。
もう動けない。
何処とも知れぬ森の中で、一人虚しく死ぬのか、と、笑って、意識を手放した。
そして……。
目を、覚ます―――。
ぼんやりとした視界。
ぼんやりとした思考。
死後の世界っつーもんが存在したのか、と考える。
ゆっくりと、指を動かしてみる。砂のような、ザラリとした感触がした。地面に直接寝そべっているのか、と、理解する。それなら恐らくは天国でなく地獄なのだろう。
そんな事を考えながら、意識を集中させる。思考が少しずつ明確になり、ある程度感覚も戻ってきた。
それからようやくはっきりしてきた視界の中で、緑が見えた。
ひどく、鮮やかで、瑞々しい緑に見えた。緑という緑が重なり合い、沢山の影と色を生み出す。
様々な色があった。
知ってはいるが知らない色だった。
やかましい程の色と、音と、光。
木々と太陽の織り成す木漏れ日を、生まれて初めて美しいと思った。
「………泣いているのか?」
それは、甲高いわりに妙に落ち着いた静かな声。そう、例えるなら、緩やかに降り注ぐ太陽のような、暖かな光。空から居丈高に見下ろしてくるくせに、ひどく暖かい存在。
その声に何の警戒心も抱かず答えてしまったのは、恐らくまだ頭がしっかり回ってなかったからであろう。
「…ああ…。たぶん…昨日の雨、だろ…」
眦が濡れているのはその所為だ。
口の中が乾いて喋りづらかった。いつも聞いている自分の声よりも遥かに弱弱しく、小さい声。聞き取りづらい響きを正確に聞き分けたのか、声の主は小さく笑ったようだった。
首を僅かに傾けて、声の主の方を伺う。
小さな足が見えた。それを厭うようにして、足は遠のく。
身体を起こそうとして、力が入らなかった。
「成る程、確かに小夜時雨は涙を落として泣くさまに例えられる。詩人だな」
小夜時雨とはなんぞや。
疑問はあったが、シカマルにはそれ以上に知りたいことがあった。
「……オレ、は、生きて…いるのか」
それとも既に死んでいるのか。ひどく現実感がなくて、身体が浮いている気さえする。その癖、身体全体を包む倦怠感といい、身を切り裂くような痛さといい、妙にリアルだ。
「死んだ人間が喋るというのは、まだ聞いたことがないな」
成る程その通り。
「オレも…聞いたことねーわ…」
苦笑する。なんて間抜けな質問だったのか。
声の主もまた苦笑したのか、小さく声がした。
生きているのだと、感じる。
高い空は穏やかに雲を流して、緑は風にいちいちそよぐ。まぶしいまでに降り注ぐ光は暖かく、今が冬だという事を忘れさせた。耳に届く鳥の声も、風の音も、土の鳴る音も、どうしようもなくリアルだ。
「折角命拾ったんだ、せいぜい生き長らえろよ」
声はそれで終わりだった。
音も、空気の揺れる気配も、何も感じず、いつの間にか、声の主は消えていた。
あまりに自然に、あまりにあっけなく。
「……礼ぐらい、言わせろよな…」
命の恩人なんだからよ。
返事があるわけもなかったが、シカマルは笑って、身体が回復するのを待った。
そのとき、初めて生きている自分を感じた。
濃厚な死の臭いを知り、生きていることを実感した。
ポツリ、ポツリ、と音が鳴る。
空を見上げたときにはもう、分厚い雲が空を覆いつくしていた。
雨宿りに茶屋の屋根を借りる。既に目的の建物は目の前にある。ふと、甘い香りがして、振り向いた。時間はとうに20時を回っているというのに、未だに営業しているようだった。木の葉ではこんなに遅くまで開いているのは、アルコール類を扱っている店ぐらいであろう。
物珍しさもあって、まじまじと茶屋を見つめる。
「食べるか?」
唐突に声がして、ポケットに突っ込みっぱなしの腕がピクリと震えた。
全く、気付かなかった。雨の音に雑音をかき消された所為か、それとも自分があまりに油断していたのか。どちらにしろ失態だ。
舌打ちでもしたい気分で、声の方を伺う。
まだ若い、けれどシカマルよりは年上であろう女だった。女というよりは少女なのであろう。年のころは15、6か。暖かな小麦色の髪と深い新緑の瞳。どちらかといえば美人の部類に入るのだろうが、シカマル並みに無愛想なしかめ面では台無しだ。茶屋の椅子に座って、手に持った抹茶パフェらしきものを口にスプーンをくわえ込んだまま差し出している。
食べる気は欠片もないが…スプーンなしで食えということだろうか?
「………いらねー」
「そうか。妙に長い間中の方を見ているものだから、食べたいのに金がないヤツかと思った」
「……はぁ?」
抹茶パフェらしきものを手元に戻して、少女はスプーンでクリームを口に運ぶ。突っかかろうにも交わされそうな空気を感じて、脱力した。
「…別に。ただ、こんな時間まで空いてるのは珍しいと思ったんだよ」
「ああ。なるほど。この茶屋は特別でな、任務帰りの忍がよく使う。任務はどうしても日が暮れる事が多いからな。下忍は子供が多いし、疲れて甘いものを欲しがるくの一も多い」
「って、こたー…あんたも忍なのか?」
意外な面持ちでシカマルは少女を観察した。少女の髪はしっかり手入れがされているようで美しい艶を放っているし、着ているのは質の良い着物だ。袖丈も長く、到底忍には見えない。どこぞのお嬢様と言っても十分に通用しそうだ。
「ああ。そうだよ。お前もそうだろう?」
「……っっ」
シカマルは、極々一般的な格好をしている。元々顔が一般的で特徴らしいものはないし、特別目立ったところがないから、そういう格好をすれば、忍と思う人間はまずいない。立ち振る舞いにもそれなりに気をつけていた筈だ。こんなにもあっさり見抜ける筈は、ない。
「そう、身構えるな。昨日変な影を見たからそれを辿っただけだ。争うつもりはない」
「………そう、簡単に辿れるようなものじゃねーんだよ」
冷や汗がつたうのを感じながら、シカマルは息をつく。少女はただそこにいるだけ。ひどく動きにくそうな格好で、何事もなかったかのようにパフェを食べている。それなのに、シカマルの全身を包む緊張感。
分かってしまった。
理解してしまった。
目の前で無造作にパフェを食べる少女は、自分よりも強いのだという事。
砂にこれほどまでの力の持ち主がいたのかと、愕然とする。
昨日こんな強い忍の存在など全く気付かなかった。相手は自分の術に気が付いていたというのに。
「単刀直入に聞きたい。木の葉か?」
「…言うわけないだろ」
「そうだな。それもそうだ。じゃあもう一つ。………目的は、木の葉の抜け忍か?」
「………っ」
僅かに、息が乱れた。
この少女がそれに気付かない筈もない。
けれど少女の言葉は、木の葉の抜け忍が今現在砂に絡んでいる事と同義。
「………アレは、はっきり言って迷惑だ。こちらとしては引き取ってもらいたい。…ただ、中々用心深い」
「…何が目的だ」
シカマルとヒナタが、そして木の葉が何よりも求めている情報。それを少女は当たり前のように口にする。
「そっちに引き取ってもらうこと。どうにも、私一人じゃ上手くない。下手をすれば木の葉と砂の戦争になる。…そっちが何を勘違いしているか知らないが、私は木の葉と砂が同盟国であり協力関係にあると考えているのは違ったか?」
「……下手をすれば戦争なんだろ?」
「下手をすれば、な。お前はいいタイミングだったよ。私から木の葉に接触を持とうかどうか考えていたところだ」
「………」
沈黙の中、少女はパフェを食べ終える。
本当に争うつもりはないのだろう。殺気どころか闘気の一つも感じられず、その気配はただただ静か。多分それは昨日からずっとそうで……だからこそシカマルの意識に全く引っかからなかったのだろう。
ふと、雑音が減った。
その理由を考えるよりも先に、少女が答えを口にする。
「通り雨、だったようだな」
「……小夜時雨か」
昔、命の恩人たる人物が口にした言葉。忍に関する知識しか与えられなかったあの頃の自分には、全く意味の分からなかった言葉。
奈良シカマルになって、自由に書物を漁れるようになってから、夜に降る時雨の事だと知った。
時雨とは主に秋から冬にかけて起こる、一時的に降ったり止んだりする雨や雪のことだ。そう、丁度今のような。
不意に少女がシカマルに向かって手を差し出す。
その手にはどこに隠していたのか一本の巻物。
「………木の葉の長に、これを渡して欲しい。中を見たいならそれでも構わない。私が調べられたことは大体書いておいた」
「………」
「罠もない。砂の上層部もそうだが、私も結構切羽詰っててな…。早いところ手を打たないとまずいんだ。…だから、出来る事なら信じて欲しい」
「………」
多分、本当だろう。
一応シカマルとて見る目はあるつもりだし、嘘を見破る方法を幾通りも仕込まれている。少女は最初から最後まで、本当に自然体であり、おそらくはひどく動きにくそうな格好できたのも争う意思がないという現われなのだろう。見たところでは武器の一つも持っていないし、その新緑の瞳は必死で、あまりにも真摯だった。
第一、シカマルを始末するチャンスなら幾らでもあったはずだから。
「…分かった。渡してやるよ」
「そうか…」
ほっとしたように少女は笑って、シカマルはその手から巻物を受け取った。
無愛想な少女の見せた一瞬の微笑は直ぐに消えて、けれど一番最初に会ったときよりは和らいだしかめ面に、彼女も一応は緊張していたのだと知る。
少女は立ち上がり、パフェの代金を食べ終えたガラス容器の隣に置いた。
「砂と木の葉が同盟国であり続けることを私は願うよ」
「ああ」
手を差し伸べられ、僅かに逡巡するが、迷いはそんなに長くはなかった。その手を握り返し、頷く。
「ありがとう。連絡を取りたいときはこの茶屋でパフェでも食べて待ってろ。"黒糖パフェはありますか"で私に連絡がいく」
「………なんつーーー恥ずかしい合言葉だよ」
「ちなみに黒糖パフェはないから断られる。好きなものを食え」
「ってか断られんのかよ!」
「はは。来るのを楽しみにしてるよ」
「ぜってーーー来ねぇ…」
来るならせめてヒナタかいのと一緒がいい、と心の中で思いながら、息を吐く。
この少女は妙につかみ所がなくて、シカマルにとってやりにくい。
真っ暗になった外に少女は一歩足を踏み出し、空を見上げる。
先ほどまで空を覆いつくしていた雲は見事にどこかへ消えていた。
そのまま帰るかと思われた少女は、ふと、シカマルを振り返る。
「………なんだよ」
「…いや」
じぃ…とシカマルを見て、少女は小さく笑った。
何もなかったかのように身を翻し、足を踏み出す。
「今日は泣いていないんだな」
声がした。
それは、妙に落ち着いた静かな声。その髪のように緩やかで鮮やかな、降り注ぐ太陽のような、暖かな声。
音も、空気の揺れる気配も、何も感じず、目の前から一瞬にして声の主は消えていた。
あまりに自然に、あまりにあっけなく。
「………おいおいおいおい。マジかよ…」
重なった二つの声に、シカマルは呆然と立ち尽くして、苦々しく笑う。
小麦色の髪はもうどこにもなく、その気配は全く感じられない。
「…だから、礼ぐらい言わせろって…」
命の恩人なんだからよ。
矢張りその返事があるわけもなかったが、シカマルは笑って宿への道を辿り始めた。
手の中に一本の巻物を握り締めて。
第14回祝詞お題 『小夜時雨』
参加させて頂きます空空汐です。
前回と前々回と同じ設定です。単独でも読めます。
今回はシカマルメインです。最初はナルトメインで考えていたのですが、どうにもこうにも話が広がらず進まず纏まらずだったので、シカマルにしました。したら結構あっさり書けて………最初からシカマルで考えればよかった、と後悔しまくりました。
あと結局テマリさんの名前が一回も出てこなくて…uu
祝詞でも砂スレをもっと書きたいなーと思うので、気が付いたら当たり前のようにスレになってました。
…それはそうと小夜時雨ってホントいい響きですよねvv
あんまり活かせなくて残念です。
ここまで読んでいただきありがとうございましたv
空空汐/
空空亭