『父と妹』
父と妹のことを、嫌いだと思ったことは一度もない。
―――正確には、嫌いとも、好きだとも思ってはいなかった。
日向ヒナタにとって、特に接触が多いわけでもない父と妹は、まさしく空気のような存在だったのだ。
だから、ごくごく自然に向こうもそう思っているのだろうと考えていた。
日向宗家当主として一族をまとめる立場の父。
4歳になったばかりの妹。
そもそも彼らにとって日向ヒナタは目障りな存在でしかない。
ヒナタは外でこそ完璧な演技で大人しくしているが、家の中ではいつ切れるか分からない爆発物のようなものだった。発する空気はただただ冷たく、人を傷つけることも殺すことをまるで躊躇わない雰囲気を確かに持っていた。
既に暗部となったヒナタは、表向きでも忍になることが決定している。
それはすなわち彼女が日向を継ぐことはないということ。
それ以外のヒナタの利用価値といえばその力と、家柄、立場だったが、あまりにも本人の実力が高すぎ、しかもその性格が使われることをよしとするはずがなかった。
ようするに、ヒナタは日向の誰にとってもとにかく使いにくい、扱いに困る存在だったのだ。
だからこそヒナタは簡単に家を出れると思っていた。
血継限界を持つ常時狙われているような人間が一人で暮らすなど無用心にもほどがあるが、ヒナタに勝てる人間がいない以上、否を唱えることはないだろう。しかもヒナタは常に変化して暮らすつもりである。名前も違う名前にするつもりだ。
手続きは既に火影に頼んでおいたし、完璧だった。
―――だというのに。
「いかん」
「なんで」
「駄目なものは駄目だ」
取り付く島もなく、反対された。
余りにも予想外な流れに、ヒナタは呆気にとられる。
目の前にいる日向宗家当主という立場の人間は、いつもどおりの無表情でヒナタと相対していた。
話し合いは、それから一向に進まなかった。
しかも、追い出された。
「………………………………くそ親父」
殺気を撒き散らしながら歩くその姿に、日向のものたちがことごとくよけていく。
習慣なのか、気配が完全に消されているのがまた不気味だ。
自室に戻ってからも、ヒナタの気は晴れなかった。
晴れるはずがない。
その憂さは今日の暗部任務で晴らすことに決める。
日向家にいるのもアカデミーにいるのもムカつくばかりとなれば、後は暗部任務で憂さを晴らすしかない。
物騒なことを考えながら、ヒナタは部屋から抜け出した。
昔からヒナタは勝手に部屋を抜け出して外で過ごすことが多い。
―――それが、父と妹との接触を遮断しているのだとは全く気がついていなかった。
「姉さま!!!」
抜け出して数時間と経たないうちに、何故か妹に発見される。
誰も来るはずもないような、小高い山の上。樹海のごとく生い茂った森の中だ。
昔から割と気に入っているヒナタの定番の場所で、お気に入りの本や菓子を持ち込んで勝手に私物化している場所でもある。
正直、ヒナタは呆気にとられた。
本日二回目の衝撃である。
「………………………………ハナビ?」
「はい!」
たっぷりと疑問を乗せた呼びかけに、日向ハナビ、次期当主になるであろう少女は実に嬉しげに返事をしてのけた。
いや返事が欲しい訳ではなく。
「なんでいるの」
「はい! 姉さまが家を出て行くと聞きまして、いてもたってもいられなくなったので父上に姉さまがいそうな場所を聞いてきました!」
はきはきとした淀みのない返事に、ヒナタはとうとう頭を抱えた。
なんなんだ一体。
なんでこんな辺鄙な場所まで追いかけてくるのかさっぱり分からない。
第一危険な動物はあまりいないとはいえ、森を一人歩きするなど危険なことには違いない。
父が自分のいる場所を知っているのかも分からないし、こんなところまで一人でハナビを来させる理由も分からなかった。
と、思えば、森の外に日向の人間が何人かいることに気がついた。
ずっとハナビに着いてきて監視していたのだろう。
監視対象がヒナタとハナビに移ったらしい気配がわずらわしくて、殺気をこめて視線を送る。
びくりと怯えた表情になって、わざとらしく彼らは視線をそらす。
ハナビは何も分かっていないのか、きらきらした目でヒナタを見ていた。
「………何」
「はい、姉さまとこうして2人で向き合うのは初めてですね!」
そこで何故か照れたようにハナビははにかむ。わけが分からない。
「………帰らないの」
「えっ…。………あの、姉さまは」
「帰らないよ。まだ」
「それなら私もまだ帰りません!」
そんな意思表明されても困る。
「ていうか、何しにきたの」
「はい。姉さまが家を出て行くと聞いたので阻止しにきました!」
「…………なんで」
父といい、この妹といい、一体何を考えているのか。
日向ヒナタがどんな立場なのか分かっていないはずがないのに。
「それは決まっています! 姉さまが姉さまだからです!」
自信満々に答えられて、ヒナタは矢張り頭を抱える。
「ハナビ、意味が分からない。確かに私はあんたの"姉"だけど、それが何か理由になるわけ?」
「なっ、なります! 家族は一緒の家で過ごすべきなんです!」
「一緒の家も何もあれだけ部屋が遠いなら全然意味ないし」
「そ、れはそうですが!」
「じゃあいいじゃない」
「だだだ駄目ですっっ」
「なんで」
「駄目と言ったら駄目なんです!」
まるで駄々っ子のように首を振る妹の姿に、ヒナタは戸惑うしかない。
そしてそれ以上に。
………………あの護衛のやつら、うざい。
さっきからずっとこっちを伺い、来るそぶりを見せては引き返す。
イライラして仕方がないので暇つぶしに持ってきてきた禁術書を、引っつかんで―――駆けた。
「えっ!? 姉さま?」
小さくハナビの声がした。
正確には―――遠くでハナビの声が聞こえた。
「―――ひっ」
「っっ!!」
「うわああっっ」
控えめながらも、一応対象の監視を続けていることで、任務は果たしているはずだと自分たちを納得させていた日向ハナビの護衛たちにとってそれは一瞬の出来事だった。
ある意味、護衛対象に最も近づけてはならない日向の超危険人物、日向ヒナタ。
その日向ヒナタが―――なぜか目の前で明らかな怒気と殺気を放ちながら刀を抜いていた。ついさっきまで日向ハナビと遥か森の奥で話していたというのに、いまここにいる日向ヒナタは、紛れもない本物だ。
自分よりも遥かに幼い子供に、護衛たちは震えた。
子供だからと、幼いからと侮ってはいけない。否―――決して侮っていたつもりはなかった。それでも、話に聞いていたのよりも、遠目で見ていたときよりも、目の前に立つその姿を見て…自分たちの認識は甘かったのだと、そう思わずにはいられなかった。
身動き一つ、言葉一つ、呼吸一つすら許されない、どこまでも凍りつく空気。
彼女が動けば次の瞬間自分たちは死ぬだろう。
抵抗など無駄だ。
日向ヒナタの前において、自分たちはただの獲物―――最早狩られるだけの存在でしかないのだから。
時間は、どれだけ長かったのか。
日向ヒナタの口が動いた。
――― 次 は な い よ ―――
音などない。
ただ唇の動きで、日向ヒナタはその言葉をこの場にいる全員に釘付けた。
その気配が消えるその瞬間まで彼らは呼吸すら止めて立ち尽くすことしか出来なかったのだ。
父と妹のことを、嫌いだと思ったことは一度もなかった。
正確には、嫌いとも、好きだとも思ってはいなかった。
その、感情は、この日を境にころりと変わって。
―――日向ヒナタは父と妹の二人の家族を嫌いになったのだった。
2009年10月04日