『夜に泣いて』
森の中で聴こえてきた小さな歌い声。
心地よい気がした。
ざわざわと蟲が喜んでいるような気がした。
歌に導かれて、どうしようもなく惹かれて、ただ、足が動いた。
己が先か、蟲が先か。
吸い寄せられるように。
先を争うように。
ただ、惹かれた。
歩いて、走って、森の小さな広場にたたずむ少女に出会った。
「―――誰?」
「…………」
真っ白な、少女。
白紙の少女。
夜の森の中で、彫像のように彼女は静かにそこにいた。
『夜に泣いて』
歌が流れる。血まみれの惨状にはふさわしくない、和やかで、優しい、澄んだ声が。
まるで、全てを清浄化するような歌声が響き渡る。
―――おやすみなさい
―――かぜは行ってしまった日を
―――かぞえながら吹くのです
―――あの日の……
プツリ、と歌が途絶えた。
一人だけの空間だったそこへ、乱入者が現れたから。
もっともその乱入者は歌う人間にとって、最も慣れ親しんだ存在だったのだが。
「……死した者への鎮魂歌のつもりか…?」
「…違うよ。ただ、歌いたかっただけ」
「………」
問うた男…否、まだ幼い少年だ。虎の暗部面に外しながら小さく首を振って、手に持つ刀を振った。ひゅ、と風を切り裂く音がして、赤黒い血が飛び散る。
それを見て、歌声の持ち主は小さく笑った。とっくの昔に外した暗部面が首下で揺れている。小柄でまだ幼い成長過程にある少女。さらさらと流れる短い黒髪と、瞳孔のない異形の白い瞳。それは木の葉の里で最も古く最も強き力を抱く血継限界。
「あの日のしあわせと この日のふしあわせと いつかみた あおいそら」
空を見上げ、少女は歌う。澄んだ歌声が、どこまでも、どこまでも響き渡る。
少年は、もう何も言わない。ただ、ただ、少女の声に聞き入るだけ。
―――幼いいつかに聞いた少女の歌に聞き入るだけ。
おやすみなさい
かぜは死んでしまったひとを
かぞえながら吹くのです
あの日のしあわせと
この日のふしあわせと
いつかみた しろいくも
「…何故…歌う」
「…え?」
唐突に、歌を突き破った声に、少女は首を傾げた。真白い瞳が、声の主に向けられる。
黒い髪と、暗闇でもはっきりと分かる、金色の淡い色をした瞳。その色は何処か日向の瞳に近い。それでも、一目見ただけで、白眼であるかどうかの区別はつく。瞳孔がない瞳はどこまでも虚ろで、感情のない瞳だから。
ここには、少女と、少年しかいなかった。
たった五つくらいの幼い子供達は、深い深い森の中、しかも夕闇も過ぎたような暗闇の中で、ただ、二人だけで存在していた。
ついこの前までは、少女一人だった。少女は日向一族という里きっての優秀な家に生まれた嫡子であり…おちこぼれだった。本来家を継ぐ立場でありながら、力も身体も弱く、どれだけ厳しい訓練も実をなさなかった。
そんな少女に、徐々に周囲の関心は薄れていった。おちこぼれと呼ばれ、悪しきざまに罵られ、虐げられ、家に居る事すら息苦しく、少女は逃げ出した。誰もいない、森の中へ。
家に見捨てられた少女は、森の中でしか居場所を見つけることが出来なかった。
他の人間がいない、静かな静かな空間。
そこに現れたのが、この少年だった。
先程までのように歌っている途中、どこからともなく、不意に現れた。
『―――誰?』
『…………』
たった一人の、この観客との出会いだった。
少年は、ただ、そこにいた。少女のことを何も聞きはしなかった。自分のことを何も話しはしなかった。
だから少女は少年の名前を知らなかったし、少年は少女の名前を知らなかった。
初めての出会いから、もう三十日余り。少女が歌っていれば、どこからか少年は姿を現した。その大抵は夜で、暗闇だというのに全く不安のない足取りで現れる。少女にとってはそれがとても不思議だったが、あまりにもごく自然なのでいつからか気にしなくなった。
少女が泣いているときも、少女がただ立ち尽くしているときも、少女が一人巻物を読んでいるときも、少年はどこからともなく姿を現し、一言も喋ることなく、ぼんやりと、座っていた。
まるで空気のような少年だった。森と一体化し、そこにいることを少女に感じさせないことも多々あった。
少女が気づいていないだけで夜は毎日来ていたのかもしれない、と後になって気がついた。
あまりにも静かなその存在に、少女はいつしか少年とのコミュニケーションを諦めた。
それでも、二人はそこにいた。
少女が来なくなる事も、少年が来なくなる事もなかった。
当たり前のように、そこにいることを許していた。
そして、二人の毎日が三十日と少し経って、初めて少年が口を開いた言葉が、先ほどの言葉だった。
初めて聞いた声に、少女は驚いた。聞いたばかりのその声はまだ高く、どこかにごった響きを持っていた。首を傾げて、相手の顔を見やれば、いつも変わることのない透明な表情がそこにあった。
戸惑って、首を傾げると、少年はほんの少し眉を顰めた。
その小さな動作に、少女は敏感に身を引く。険しい表情は見たくない。少女にとってただ一つの安息の場であるここでは、特に。
「何故、歌を歌っている」
先程よりも少し強く、明瞭に、声は聞こえた。少女が怯えていることに気付いたのか、眉間の皺を指で揉み解した。
「わっ…わたしは…これしか…憶えて…いないから」
「………?」
言葉が足りない、と少女本人も気付いたのか、泣きそうな顔になって、一歩、下がる。
歯をがちがちと鳴らせながら、顔の色をなくした少女に、少年が、僅かにまた眉を寄せた。静かに、静かに、少年が立ち上がって、少女はびくりと身を揺らす。
「…っっ!」
蛇に睨まれた蛙のように、身動き出来ぬ少女の目の前に少年は立って、小さく、息を吐いた。少年の腕がゆっくりと上がって、それを目の端に捉えた少女は、咄嗟に目を瞑った。
全身を警戒させている少女の頭の上に、少年の腕が届く。
少年にもはっきりと分かるくらいに、少女の身体がびくついた。
「落ち着け。息を吸って、吐け」
吐息のような、小さな声。
少女が恐る恐る目を開ける、白眼にも似た、色素の薄い、金色の瞳がそこにあった。
間近で見るその瞳は、はっきりと少女を捕らえ、ほんの僅か、心配する色がある気がした。ただの、願望かもしれないけれど。
少年の言うとおりに、何度も、何度も呼吸を繰り返す。
頭の上にある手が、ほんのりと温かい。
「俺は、何もしない。だから、怯える必要も、逃げる必要も、ない」
感情の篭らない、平坦な声が、ぽつり、ぽつりと少女の身体に染みる。
「………私が、憶えている…母上の記憶は、これしか…ない…から」
「……母親」
呟くような少年の声に、少女は頷いた。
少女のもつ、たった一つの、母親の記憶。生まれて、ほとんどの時は母親と過ごすことなく、甘える事も、何かを話すことも、何もないままに、母親は死した。もう一つの命を産み落として。
「………母上が、ずっと、歌っていた。私…のためと、妹のために…」
顔も、憶えていない。その手の温度も、温かさも、知らない。母親が残したたった一つのものが、この歌だった。名前も知らない、優しい優しい子守唄。
聞くと、幸せになれた。温かくて、とても優しくて、居心地が良くて、この歌があったから、日向の家にもいることが出来た。
「………泣くな」
少年の声に、初めて己が涙することに気付く。
「………ぁ」
母親が死んだ。己の妹を産み落として。
「…ああ」
少女は、何故、自分が歌い続けていたのか、そのときようやく分かった。
―――母親の死を、受け入れることが出来なかったのだ。
歌は、母親のものだった。その歌を歌うことで、母と近くなった気がした。母親がどこからか同じように歌い返してくれるように思った。
少女が知る母親はこの歌しかなかったから。
少女はただ、歌い続けた。
「…っっ」
けれど、気付いてしまった。
母親はもういないこと。
涙を流し続ける少女を、ただ、少年は見ていた。その金色の瞳は何処か優しく、けれど、それを知るものはいなかった。
おやすみなさい
かぜは忘れてしまったことを
かぞえながら吹くのです
あの日のしあわせと
この日のふしあわせと
いつかみた ひのひかり
風が吹くと、少女の髪が大きく揺れた。刀から血を綺麗に拭い取った少年が、風から少女を守るようにして横に移動した。勢いを弱めた風に、小さく少女は笑う。
「帰ろう…ヒナタ」
低い、囁き声。蟲のざわめきのようにも取れる小さな声。ヒナタ、と呼ばれた少女は少年の腕を両手で握り締める。怪訝に眉を顰めた少年に、ヒナタは、ただ笑った。
「…この歌を歌うと、思い出すの。シノと…会った日のことを」
「…そうか」
「安心できるの。シノがいつもそこにいる気がして」
ゆるりと笑う少女を、ただ、見ていた。
金色の、優しい光。
いつだって見守ってくれる、優しくて、暖かい、光。
それは、誰からも見捨てられたヒナタにとって、あまりにも暖かくて―――かけがえのないもの。
泣き続けた夜に手に入れた、大事な光だった。
2009年10月04日
ええと、歌詞をどこから持ってきたのか分かりませんでした(汗)
『おやすみなさい
かぜは行ってしまった日を
かぞえながら吹くのです
あの日のしあわせと
この日のふしあわせと
いつかみた あおいそら
おやすみなさい
かぜは死んでしまったひとを
かぞえながら吹くのです
あの日のしあわせと
この日のふしあわせと
いつかみた しろいくも
おやすみなさい
かぜは忘れてしまったことを
かぞえながら吹くのです
あの日のしあわせと
この日のふしあわせと
いつかみた ひのひかり』