『桜の降る夜』







 名前を呼ばれ、サクラは顔を上げた。視線の先には表でも裏でも親友といえる数少ない存在。長い金の髪を揺らす山中いのという人間。
 サクラは桃色の柔らかい髪を揺らし、鮮やかな、青々とした緑の瞳を細く潜めた。反応と言える反応はそれだけ。

「朔姫?」

 顔を上げたまま、ぴくりとも動かないサクラに、親友はもう一つの名前を呼ぶ。
 さくひめ。
 昔、健在だった母と父が読み聞かせてくれた本の中のお姫様。物語の内容は、既に覚えていない。けれど、月明かりすらも届かない朔の日に現れる存在だったのだと覚えている。
 決して表にでることのない、光の当たることのない存在。
 サクラが暗部の時に名乗る、太陽のない世界の姿。

「…なんで、いるの」

 小さく、頼りないほどに細く落とされた声に、いのは肩を潜めた。

「それはこっちの台詞よー。ここ、あたしの特等席なんだけどー?」

 そう言って彼女が見上げるは、暗闇に浮かぶ薄紅の花。この時期になると息吹く春の花。月明かりに照らされ、たった一本だけ植えられた桜の木は、立派な枝を風に揺らし、花弁を散らした。
 今年の冬が暖かかったため、咲くだけ咲いてどんどん散っていく中、この里の外れに立つ一本の桜だけが満開を迎えていた。少しだけ時節外れの大樹。

 暗闇の中、まるで雪のようにひらひらと舞う花弁の中、サクラは一つ首を振って、息をついた。それは感嘆のため息ではない。それなら何か、と問われてもいのには分からない。

「何で桜が綺麗に咲くのか知っている?」
「何よいきなりー。それってあれでしょー。木の葉によくある怪談話ー」
「桜の木の下には人の死体が眠っていて、その血を桜の木が吸い上げるから桜が綺麗な桃色になる」

 淡々とサクラはそう言って、木の根元に立った。太い大樹に手を添えて額を軽くぶつける。
 桃色の髪の上に沢山の花弁が振リ注ぎ、いのはそれに見とれた。
 毎年毎年、いのはここに来ていた。それも決まって夜だ。木の葉でも有名なこの一本の桜を見に来る人間は多いから、誰もが来ないような夜中にいのは来る。
 今日は、去年とも、おととしとも、桜の様子が違った。以前よりも濃く、綺麗な薄紅色に染まっているように見える。
 いのの目の前で狂ったかのように花弁を散らし続ける桜は、木の下の小さな少女を飲み込んでしまいそうだ。

「それが…どうしたってのよー」

 桜の木の下で、桃色の髪をした少女は小さく笑った。唇だけの微笑み。

「この木の下に、私の両親が埋まっているわ。だからこの桜は、こんなにも美しいのね」

 何の感情もないような淡々とした言葉の意味を、一拍遅れて理解する。いのに背だけを見せ続ける少女の表情は分からない。伺えない。
 いのは桜の木を見上げて、少しだけぎこちなく笑った。
 だからなのか、と目を伏せる。同時に、少し、気持ち悪くて。
 綺麗な綺麗なこの桜は、サクラを飲み込む。

 サクラの過去をいのは知らない。
 いのの過去をサクラは知らない。

 自分達にとってそれはさして重要な事ではなかったから。それよりももっと大事な事が沢山あったから。

「この樹…もうなくなったのかもしれないと思っていたけど…。複雑だわ」

 サクラは両親が死に、その後孤児院に預けられた。その後孤児院から一人の男に預けられ、男についていく事で各地を転々とし、最終的に木の葉に戻り、暗部になった。

 この桜の木の下に、サクラは両親を埋めた。家の近くにあったこの桜を、両親はひどく気に入っていたから。幼い頃の自分は必死で穴を掘り、バラバラになった両親を埋めて、その後孤児院に入った。その時の記憶は、今になってみてもひどく不明瞭で、自分が何を考え、どう思っていたのか、思い出すことは出来ない。幼い頃の記憶は年を経るごとに薄れ、場所などもう覚えていなかったから、うっすらとぼやけた光景を手がかりに、ようやっと見つけたのが今日だった。サクラが両親と住んでいた家はどこにもなく、荒れ果てた地に、一本だけ桜が立っていた。
 それはどこか幻想的で、薄紅色の花弁が風に舞う様は、とても綺麗だと思った。
 これが両親が愛した桜の姿。幼い自分にとって大して重要でなかった事。

「母さんも父さんもここにいるのに、誰もそれを知らない。桜を見上げて、ただそれを喜ぶ。誰も2人の事を悼んだりしない」
「……」
「…2人をここに埋めた私が言うべき事じゃないわね」

 ため息をついたサクラに、いのは首を振って、桜を見上げる。怖いくらいに綺麗に咲き誇る桜の花。いのが見てきたこれまでよりも、ずっと美しく、ずっと誇らしげに、綺麗に咲き乱れる薄紅の花。

「後悔してるわけ?」
「………」
「サクラー。あんたの誕生日、今日でしょー。おめでとー」

 唐突に、そう言い放ったいのに、サクラは眉を潜めて軽く睨み付ける。とっくに0時を回っているから、確かに今日はサクラの生まれた日だ。

「………いきなり何なのよ…」
「あんたの母さんと父さんは後悔なんてしていないわー」
「何で、言い切れるのよ」
「知ってる?」
「何を」
「この桜はねー。3月28日になると、一番綺麗に咲くの。毎年、毎年、他の桜がまだ咲いていなくても、枯れてても、この桜だけはね、変わらないの」
「………」
「どうして、って思ってたわー。でも、あんたの話聞いてやっと納得した」
「…私、こんなところに勝手に埋めたのに? この年になるまで来もしなかったのに!?」
「どっかの誰かが言っていたわー。桜が怖いほど綺麗なのは、その木の下に眠り続ける人の想いがあるから…てねー」
「………」

 怖いくらいに綺麗に誇り咲く桜は、サクラの涙を覆い隠すように花弁を散らす。真っ暗な闇の中、ふわりと、薄紅の雪が降った。

「ねぇ、サクラ。さいっこーのバースデープレゼントね」
「……そう、そうかもしれないわね」

 いのの言葉に頷いて、サクラは小さく笑った。
 桜の花弁が、笑う2人の少女の上に降り注いだ。
2008年7月6日
夜桜同盟様にbbsで捧げた文章です。
この設定は流用したかったのですが、この設定だと分からないように頑張りました(笑)
ナルヒナ組が関わらなければ彼女らはこんなにシリアスが出来るのです(笑)