「では…せめて…せめて私に介錯をさせてください…」
悲痛な瞳で、少女はそう言った。
『約束』
死を覚悟した男は、たった一人…ひどく静かにそこに座っていた。
薄暗い部屋の中で、正座をしたまま目の前の刀に視線を這わせる。
恐れがないとは言わない。
だが自分は結局これを選んだ。
ゆっくりと刀に手を伸ばす。
―――が。
一つの影がそこへ舞い降りた。
音もなく静かに…静かに。
その姿はひどく小さいもの。その姿形ははっきりとしない。
男は何も言わず、ただ影を見る。
影は歩く。
男に向かって、おずおずと…ゆっくりと…。
そうすることで次第にその姿が明らかになっていく。
もし…そこにいたのが彼でなければ、誰もが驚きに目を見張り、声を上げただろう。
だが彼は、明らかになったその顔に一つ息をついた。
そうして、ゆっくりと声を紡ぎだす。
「そうか…貴方はやはりそうでしたか…」
その言葉に、影…本当に小さな少女は、身体を強張らせる。
「き…づい…て…?」
「確信はありませんでしたが薄々と…」
目を伏せ、淡々と言葉を紡ぐ男に、少女は涙を流した。
「ご…めん…なさい………ごめんなさいごめんなさいごめんなさい……っっ!!!」
言葉が…涙が…止まらない。
あふれ出す。
感情が。
誰もが知らない…少女の本当の言葉が…。
「私は…逃げようとしたのです。…気付いてました。抵抗しようと思えば出来ました。…多分私が倒すことも出来ました…。でも…でも私は…あの時、何も考えず…ただ…ここから抜け出せると…」
それはなんて浅はかで…愚かな考え―――。
冷静に考えればそんなこと不可能だとすぐに気付いただろう。
だが…その時はそう思ったのだ。
思ってしまったのだ。
―――故に…最悪の結果を招いた。
その場に立ち尽くし、大粒の涙を零す少女に男は目を細める。
優しく優しく。
けれど…どこか悔しそうに…悲しそうに。
そしてまた目を伏せる。
「貴方は兄上にとてもよく似ておられる」
一言一言を、ゆっくりと確実に相手に伝わるように、目を伏せたままそう言った。
その言葉に、それを向けられた少女は大粒の涙を止める術を知らぬまま、大きく首を振った。
「似てなんかいませんっ!!…父上は…父上はいつも強く…前を向いておられる…だけど…だけど私は…」
「いいえ。貴方も兄上も視野が狭く…鈍い」
少女の言葉をさえぎるように、彼は続けた。
その言葉は、ひどく悲しく…深い響きを伴った。
「大切なことには必ず後から気付かれる。…今回のことだって、殺さずに捕獲すればよかった。だが殺してしまった。その結果がこれです。幾たびも幾たびも後悔を重ね、懺悔の涙を流す。貴方の父君はそうして生きてきました」
「ち…ち上が…?」
それは少女の知る父上のものではない。
少女の知る父は、いつも自信に満ちていて、後悔なんて微塵も感じず、常に冷静な態度を守っていた。
そう、自分に対しても―――
「私と兄はたった何秒かの差で、宗家か分家かが別れた。物心ついたとき、兄と私は容赦なく引き裂かれる事実を知りました」
それは少女が知らない、彼らの幼い物語。
彼らも、その宗家と分家の変えようのない流れの中で、絶えず苦しみ傷ついてきた。
「兄は私よりも弱く、それは宗家の望むところではなく、兄上には様々な非難と嘲笑が降りかかり、兄上は強くなるためだけに努力してきた。そうして作られたのが今の兄上。日向家当主日向ヒアシなのです」
まっすぐに強くなることを目指し、それに付随するものも周囲のことも何を見えてはいなかった。
「私はあなたのように早熟な子供でした。ですから、私も貴方のように力を隠しました。分家は宗家の上に出てはならぬのです。私はそうして生きてきました。影となり兄上を守ってきた」
「そんな…」
そうして死ぬのか?
全てを日向ヒアシに注いで、日向ヒアシのためだけに死ぬと言うのか?
「けれど、ネジが生まれて、初めて私は自分の立場を悔やみました。もっといい環境をあの子に与えてやりたかった。日向という組織を恨みました…。日向はネジを縛るでしょう。貴方のためだけに…。私はそれを是とはできない。ネジは…自分の為に生きて欲しい。これは私の我侭です。兄上を守るためだけに生きた私のように、ネジにはなって欲しくはない」
「…貴方の死で…きっとネジ兄さんはそうするのだと思います…」
「私もそうは思う。けれど日向はネジを縛るだろう。私の死がネジの人生に影を落としてしまうのだろう。それだけが心残りだ」
「ヒザシ様…」
少女は立ち尽くす。
どれだけ後悔しても、どれだけ懺悔しても…すでに手遅れなのだ。
もう少女にはどうすることもできない。
けれど…これからは?
「…確かに私は…父上に似ているのかもしれません…。ですが絶対に父上のようにはなりません!後悔することのないように、間違った選択をしないように…私は強くなります」
だから…と少女は呻く。
「ごめんなさい」
言葉が足りないのは分かっている。
何か言うべきことは他にも多くあるのに、言葉が追いつかない。
自分の感情を表す言葉をヒナタは知らない。
「ごめんなさい」
感情の全てをその言葉に込めて。
「ヒザシ様…私は誓います。絶対に強くなって、ネジ兄さんを守ります…。それがネジ兄さんから貴方を奪った私の役目です…」
ヒザシは少しだけ目を見張る。
なんと強い言葉なのか。
この少女は、日向の誰もが持たない力を持っている。
「ありがとう…。だが、それに縛られることはない。君は君の幸せを見つけなさい」
「………はい」
そう答えはしたが、少女がそうすることはないだろう。
きっと、この優しい少女は、過去に囚われる。
日向ヒザシを殺したという過去に…。
けれど気付く。
いつか、先に進むことができる。
そうするだけの力をこの少女は持っている。
そして…。
兄上は確かに鈍い。だがそれでも確かに最後は気付く人だ。
いつかきっと、この子のもつ力に貴方は気付くだろう。
そのとき、貴方はまた後悔するのでしょうね。
貴方は優しすぎる。
苦しみ懺悔し、そして前を向くのでしょう。
そんな貴方が、たやすく負の感情へ突き落とされる私には…とても眩しいでした。
やはり、貴方とヒナタ様はよく似ているようです。
「では…私はそろそろ消えねばなりません…」
「っっ!!!!!…では…せめて…せめて私に介錯をさせてください…」
私が貴方のことを永遠に刻み付けれるように。
「それでは…よろしくお願いします」
穏やかな笑みを日向ヒザシは浮かべた。
ヒナタがヒアシに欲しいと願った…暖かなそれ。
なんと静かで、深く…暖かい。
ヒナタは深く深く頭を下げる。
自分にできることはこんなにも少ない。
けれど、できることが一つでもあるのなら、その為に生きよう。
「刀はどうしますか?」
「これが」
少女は服の袖から短刀を取り出す。
「それは私が使いましょう。私の刀をこれからは貴方が使いなさい」
日向ヒザシの使い続けた刀。
彼の一生がそこにあると言っても過言ではない。
「…ありがとうございます」
「いいえ。それでは…ネジを…兄上を…よろしくお願いします」
「…分かりました…」
「ありがとうございます」
「―――っっ!!!!!!」
静かな声の直後短刀が空を切る。
―――さようなら
そう、聞こえた気がした。
日向ヒアシの首はとても安らかな顔をしていたという―――。