『遅れ咲きの』 「桜が綺麗に咲いているところを知っているか?」 図書館で会うなりそんなことを言い出したテマリに、シカマルはしかめっ面のまま、顔を上げる。風の国の女は、以前会った時のまま、ほとんど変わっていなかった。挨拶の一つもないまま、シカマルはありのままを伝える。 「もう散っているところがほとんどだぞ」 「―――そう、なのか? …そうか」 落胆の色を隠さずに、ぺたりと床に座り込む。 その手に本はない。腕を組んで難しい顔をして、目の前にある本棚を睨み付けている。 「…なんかあったのか?」 普段本を読んで向き合っている時はまるで気にならない沈黙が、何故か非常に重苦しくて、仕方なくシカマルは本を置く。 「…ん? ああ、いや」 「んだよ」 「………見たことがなくて、な」 ぽつり、とテマリの零した言葉に、シカマルは軽く驚きを示す。 しかし、木の葉の住民にとって季節がめぐるごとに見れる桜とて、砂漠に覆われた風の国では決して見ることの出来ないものなのだろう。 友好国とはいえ、テマリがこの国を訪れるようになったのはつい最近。しかも月に何度もない。見たことがないのも当然といえば当然の話だった。 (しかし、また手遅れな…) あと一週間も早ければ咲き乱れる桜が見られたことだろう。しかし今年は風が強かったこともあって、盛大に散っていった。それはそれで綺麗だったし、木の葉の風物詩として里の者を喜ばせたものだが。 「まぁ…仕方ないな。この際少し残っていればいい。いいところを知らないか?」 「おまっ、案内させる気かよ!」 「駄目か?」 「っっ」 普段に比べてやけに素直で、中々崩れない表情も見るからに残念そうで。 珍しいその様子に調子が狂う。 それが演技の範囲内ではないのだと気がついてしまって、シカマルは深く息をついた。 この場所が、あまりにも自然に素に戻れる場所だったせいか、一人が二人になった今も、時々演技をしているのかしていないのか忘れてしまう。それに加えてテマリの態度があまりにも自然体過ぎて、この場所の空気に馴染んでいるから警戒心も緩んでしまう。 「―――ったく。わーった。分かった分かった。めんどくせーけど案内してやるよ。取って置きの場所にな」 「本当か!?」 ぱぁ、と、テマリの顔が一気に華やいで。 普段の仏頂面が嘘みたいに満開の笑顔になって。 思わず息を呑んだ。 心臓の音が跳ねる。 (なんだ………?) 体温が上昇する。頭に血が上っている。顔が火照っている。身体が硬直している。言語中枢が麻痺している。 一体何事だ。 風邪でも引いたか? 「おい?」 「―――! あっ。ああ。んじゃ、行こうぜ!」 「…ああ。よろしく頼む」 素直に頭を下げたテマリを見ていられなくて、何故か逃げるようにして歩き出した。 「やはり散っているな…」 ごくごく一般的な、里の花見の名所で、テマリは肩を落とす。 見える桜の木の殆どは若草色。瑞々しい青葉は確かに綺麗ではあるが、少女が求めているものとはまるで違う。 俯いた先の踏み散らかされた桜の花びらがまた無残で、テマリは息をついた。 期待をしなかった、と言ったら嘘になる。 「何、止まってんだよ」 「シカマル?」 「まだ先だっての。めんどくせー」 相変わらずの不機嫌顔。 何をしているんだろうな、とテマリは自嘲する。木の葉との合同任務を受けたとき、真っ先に頭をよぎったのは、桜が見れるかもしれない、ということで。いつか見てみたいと、本を読みたびに思っていた光景。 手遅れなことくらい分かっていた。 期待に胸を膨らませてたどり着いた木の葉は、どこを向いても緑ばかりで、絵で見るような綺麗な薄紅色はどこにも見当たらなかったから。 だというのに、無茶なことを言って、この年下の少年の時間を邪魔して、付き合わせて。 小さく唇をかむ。 「…奈良シカマル…。もう、いい」 「はぁ?」 「諦める。来年も桜はまた咲くのだからな。今年は縁がなかっただけだ」 既に葉っぱばかりの桜を眺めて言うテマリを、普段どおりにシカマルは眺めて、ちっ、とつまらなそうに舌を打った。頭をがじがじと乱暴にかいて。 そのいかにもつまらなそうな調子に、テマリは苦笑する。もっと喜べばいいのに。やる気のないところを無理やり引っ張りだしたのだから。 「ざけんなお前。このめんどくせーのにわざわざ付き合ってやってんだ。途中でうだうだ言ってんじゃねーよ! あーもーこんなん言うのもめんどくせー!」 「っ! ……だから、もう付き合ってくれなくていいと」 「うっせー! いいから黙ってついて来いっての!」 問答無用。言うなり踵を返した少年に、テマリは呆気にとられる。 顔が妙に赤かったように見えたのは気のせいだろうか。小さくなりつつある後ろ姿が、普段の爺臭さなどまるで感じさせず、子供子供していておかしかった。 そうして、テマリもまたシカマルの後を追う。 頬が赤く染まっていたのは、本人すらも気付いていない事実。 森だった。 途中で立ち入り禁止の札が見えたが、シカマルは意に介さず進んでいく。テマリは多少惑ったが、シカマルの後を素直に追った。 会話はなかった。 着かず離れずの距離を保って、二人はただ粛々と進む。 だが、気まずくはなかった。 逆にどこか心地良い。 この溢れるほどの緑のせいだろうか? 森のざわつく音を、零れ落ちる木漏れ日を、清浄な空気を、獣の気配を、ただ感じながら歩く。 やがてシカマルは足を止める。 小さな空き地だった。 道なき道は途切れ、ぽっかりと空いた空間。桜などどこにもない。正確には咲いている桜は、だが。 「シカマル?」 追いついたテマリの誰何の声にはこたえず、シカマルは印を組んだ。 いくつかの印を組み合わせて、紡ぐ。 その一連の動作に思わずテマリは構えるが、無駄なく鉄扇にのびていた手を静かに戻す。シカマルに敵意はまるでなかったし。 それに。無駄、だと思ったから。 待ったのはほんの一瞬に過ぎないだろう。 シカマルの術が完成を告げる。 「―――っっ!!!!!!!」 桜が、舞った。 満開の、桜。 小さな空き地を囲んで立ち並ぶ桜、桜、桜。 淡いピンク色の花びらが揺れる。どの木も自分を誇示するように、沢山の花を立派に咲かせている。 「…す…ごい。―――なんて、…なんて綺麗なんだ」 あまりにも綺麗で、あまりにも幻想的で。 これまで見てきたどんな絵画よりも想像よりも映像よりも写真よりも圧倒的で、息を呑むほどの美しさ。 魅入られて動けない。 魂までもが魅入られてしまったように、テマリはただただ桜に見入っていた。 だから。 涙が零れ落ちたことにも気がつかなかった。 それを見たシカマルがぎょっとして慌てふためいたのも気がつかなかった。 嬉しかった。 嬉しくて嬉しくて。 溢れる喜びを抑えるすべも知らなくて。 「シカマル…」 「おっ、おうっ」 「ありがとう…。本当に、ありがとう」 広げた手のひらに落ちる花びらは、受け止められることなく通過して、儚く落ちていく。 降り注ぐ花びらに触れることは出来ない。 当然だ。これは幻。 ほんの少しだけの儚い夢。 シカマルが作り出した、幻の空間。 「―――ありがとう」 どれだけ感謝しても足りないと、テマリは幸せそうに笑った。 シカマルは照れくさそうに頭をかき、自らも桜を仰ぐ。 限られた空間の過去を、幻として見せる幻術の一つ。つい一週間ほどにシカマルが見た光景だった。 (来年は花見に誘うかな…) テマリは喜んでいるが、所詮は幻。触れるわけでもないし、香りもしない。シカマルが作り出した過去の幻影だ。 本物を見ることが出来れば、さぞや喜ぶことだろう。 幻でもこれなのだ。想像にかたくない。 それに、花見の楽しみはそれだけではない。花見団子に、お弁当、お茶をのんで騒ぐのもいい。夜の桜もまた格別で、月明かりに浮かび上がる白い花弁は一見の価値がある。桜の下で読書するのもまた有りだろう。 想像をめぐらせていると、ひどく楽しみになってきて、シカマルも意識せぬままに笑う。 穏やかに笑う二人に、遅咲きの桜が振り続けていた。 |