日向家長女と蛇のあやかし

 『戦い』




「逃がさない」




 いのの背が、凍った。
 空気が変わる。
 気が付いたら、日向の手に握られた携帯電話。
 気が付いたら、その携帯電話に血が一滴。

 ここはもう、あちら側。
 あやかしの世界。

 目の前には日向の少女。
 うちはも狐もどこにもいない。

「なに、を」

 そう言ったとき、既に少女の姿は消えていた。
 息を呑むと同時、振り返りざま蹴りを放つ。相手を捕らえた感覚はなく、残像のように日向の姿が消えた。腕から蛇を生やし、少女を追いかけた。ぞろりと十を越える蛇は勢いよく飛び出し、そのうちの一匹が少女の足を捕らえる。
 同時に蛇を引き戻し、少女がバランスを崩す。
 その、簡単さに、何かが、警告した。
 目の前の少女の不安定な体勢よりも、一瞬の感覚を信じる。

 蛇を放して、迷わず、後ろに引いた。

 

 同時に消える、少女の姿。
 消える、というよりも、内側から爆発した。
 未だ少女の周辺にいた蛇たちが一瞬で吹き飛んだ。
 赤々と炎を散らして少女の身体をしていたものが燃える。

 つん、と鼻をかすった匂いに、いのは息を止めた。
 着ていた服の一部で鼻を覆う。

「蛇は、嫌いですよね。この匂い」

 声は、後ろから聞こえた。
 振り向こうとして、違和感に気付く。

「痺れ薬、どうやらちゃんと聞いたみたいですね」
「…ちょ…っとー。ずるいわー」
「蛇は視界が狭いから細工が気付かれにくくて助かります」

 なんとなく、今笑ったんだと確信。
 ムカつく。
 ムカつく女だ。

 何よりも自分にムカついて、いのは舌を打つ。

 子供だと、女だと侮ったつもりはない。
 けれども自身に対するおごりはあった。
 日向の子供と狐の子供相手なら、逃げ切れるだけの自信。
 そして日向1人だけならどうにかなるだろうという…実際、今までならどうにでもなった、という事実に対する過信。

 けれど。
 ゆっくりと、痺れる身体を無理をして動かす。
 多分、すぐに気付いたからだろう。吸い込んだ量は少量で、なんとか動く事は出来る。
 足の力がガクリと抜けて、それが、悔しかった。

 少女がすぐ近くにまで来るのが分かる。
 一矢報いたいところだが、本当に、力が残っていなかった。
 遊び半分にうちは相手に力を使いすぎたのも敗因。
 
「私をー殺すのかしらー?」

 顔を上げる力は残っていなくて、けれど、笑う。
 声は絶対に震えさせてなんてやらない。
 これは意地だ。
 年長者として。誇り高き蛇のあやかしとして。

「ええ、勿論」

 人に敵意を持ち、尚且つ人を害せるだけの力を持つあやかしの排除。
 それはあやかしに関わる家全てにおける絶対にして唯一の掟。
 そんなの長く生きるだけ生きたあやかしなら誰でも知っている。
 なのに、いのは笑う。
 蛇のあやかしは笑う。

「何故、笑うんです」

 ほんの少しの苛立ちと共に日向の少女は問う。
 少女は分かっていた。
 この蛇のあやかしがかなりの力を持つこと。
 だから短期で、蛇のあやかしが自分の力を計りかねる前に決着をつけた。
 貴重な薬を惜しげなく使って、その動きを止めることに集中した。
 圧倒的で一方的に見えた攻防でも、少女はぎりぎりの緊張感と戦っていた。
 蛇の弱点は、視野の狭さと強烈な匂い。
 その代わり地に足さえつけておけば、地をうごめく他の存在の動きを追う事が出来るし、使うあやかしと感覚を共有してカバーできる。
 だから、急な世界の切り替えで、蛇の感覚を奪い、それを立て直される前に奈良家の札を使って細工をした。
 自分の形をした人形を自分と入れ替え、蛇の手下たるあやかしを消す。
 勿論蛇が細工に掛かれば上等。けれど蛇の反応は素早かった。煙と爆炎に上手く鼻を誤魔化せると思いきや、それにもすぐに対応した。

 腹立たしい相手。
 先にうちはの相手をしていてくれてよかった。
 ほんの一瞬でも痺れ薬を混ぜた蛇専用の香を嗅がすことが出来てよかった。

 絶対的に蛇のあやかしよりも優位な立場に立っているはずなのに、得体の知れぬ不気味さに少女は唇をかんだ。

 くすくすと、蛇は少女を笑う。

「私をー殺したらー、…うちはもーあの狐の子もー死ぬわよー」

 くすくすと、蛇は毒を囁いた。
2008年07月06日