「………誰?」
問うた声は、昨日まで共に任務をこなし、共にアカデミー時代を過ごした友人の口から出たもので……。
悪い冗談のような言葉を、軽く笑い飛ばす事が、サクラには出来なかった。
相手の目が、あまりに真剣であったから。
-----無知なる者-----
「記憶喪失ぅっっ!?!?!?」
うずまきナルトのあげた素っ頓狂な声に、綱手は神妙な顔で頷いた。その顔の中には、ひとかけらも冗談という要素が見当たらず、その場にいる誰もが愕然とした表情で、記憶喪失と診断された少女を見つめる。
淡いプラチナブロンドを頭上で一つに結い上げた少女。いつも好奇心に満ちた緑の瞳は、ぼんやりと空を舞い、ナルトたちの視線に気付くと、首を傾げて曖昧に笑う。
その様子が、あまりにも自分たちの知るものとは違い、綱手の言葉を改めて咀嚼する。もとより木の葉一番の名医でもある綱手を疑う事は出来ない。
「………どうして、いのちゃんが? 昨日までは普通だったのに…」
ポツリ、とこぼしたのは日向ヒナタで、普段の気の弱そうな表情からは想像もつかないような険しい目つきで、顎に手を当てて考え込む。
ヒナタの言葉にかぶさるようにして、金切り声が飛んだ。
「そうよ…っ! なんで、なんでいのがこんなことになるのよ!!」
泣きはらした両目で、春野サクラは綱手を睨みつける。そんな事を綱手が知る由もなく、責められる謂れもないが、綱手はただ首を振っただけだった。理由なんて分かるはずがないのだ。そう、記憶をなくした本人以外は。
「頭を強く打ったとか、そういう外的要因らしきものはどこにもない。…原因不明さ」
「どうすれば、戻るんだってば?」
あくまでも軽い調子で聞いたのはナルトで、その表情もさほど真剣ではない。記憶喪失、といっても直ぐに直るようなものだと思っているのだろう。
そう思いながらも、綱手は深くため息をついた。
「全生活史健忘症…俗に記憶喪失、発症以前の出生以来すべての自分に関する記憶が思い出せない。障害されるのは主に自分に関する記憶であり、社会的なエピソードは覚えていることもある。その多くは心因性のものだ。まれに、頭部外傷をきっかけとして発症することもあるようだが…。発症後、記憶は次第に戻ってくることが多い…と、言われている」
「…言われている?」
「そう。言われているだけだ。どれだけの人間が記憶障害になり、記憶を回復したのか、その例は非常に少ないんだよ。大体記憶が戻った人間にしてもどれだけの時間がかかったのか、何をきっかけに戻ったのか、詳しい事はほとんど分かっていないんだ」
「つまり、どういうことだってば?」
綱手の遠回しな言いように、苛ついた様子を隠そうともせず、ナルトは眉を潜めた。
ヒナタもサクラも同様。まんじりともせず綱手の言葉を待つ。
「………打つ手はないってことさ。本人の記憶の回復を待つしかない」
「…マジかよ…!」
「………でも、でもいつかは! いつかは必ず戻るんでしょう!?」
「…………」
嫌な、沈黙が落ちた。
誰も何も言わず、誰もが視線をそらし合う。
言葉にしてしまえば、本当にそうなってしまいそうで。
けれど、その静寂を破ったのは、話題の主である山中いの本人であった。
「つまりー…戻らないかもってことー?」
記憶など無くなっている癖に、いつもの口調でいのは首をかしげた。
「―――っっ。…………そんな筈無い…。そんな訳ない…。いのが…、いのが私たちのことを忘れるなんてない!」
泣き腫らした目でサクラはいのを睨みつけ、病室から飛び出した。乱暴に開けられた開き戸が激しく音を鳴らす。
その音を背にしたまま、誰も動こうとはしなかった。最悪の予感。もしも、いのの記憶がいつまでも戻らないとしたら。
静かな空間で、沈黙の中で、誰よりも早く口を開いたのはいの本人。
「まー…忘れたものは仕方ないしー? きっとすぐ戻るわよー。記憶なんてー。だからー、ほらっ。元気だしなよー」
「……っつか、お前の所為で元気ねーんだけどな」
「もーなんでもいいから、さっさと教えなさいよー。私の名前とかーあんたたちの名前とかー誕生日とかー年とかー血液型とかー、色々あるでしょー!!」
「お前…っ。少しは真剣になれってばよ!」
「何よーーーー! やるってのーー!?」
「おー、やってやろーじゃねーか!」
同時だった。
病室の中、明らかに異常な風が巻き上がり、いのとナルトの間で衝突する。いのの座っていたベッドの布団をふっとばし、先ほどまでサクラが座っていた椅子をふっとばし、花瓶が吹っ飛ぶ。
花瓶だけは救出し、ヒナタはため息をついた。
「………変わってないよ、いのちゃん……」
記憶喪失だからと、それらしかったのはものの見事に最初だけだった。
こうして動き始めて話し始めれば、いつものままの山名いのそのものだ。
…もっとも、この状態を他の下忍に見せたなら、完全に異常扱いするのであろうが。
「…綱手様、しばらくいのちゃんは任務お休みでいいですか?」
「…どっちだ」
「…表も裏も、両方です」
結界を張り、ナルトといのの攻防を遠い目で見つめながら、2人は小さく笑った。
いのの記憶はそれから3日が経っても全く戻らなかった。
それは、『山中いの』という人間が持っていた、忍者アカデミーを卒業し、下忍としての任務を受けているという記憶も、『イイラ』という暗部が持っていた、幼い頃からナルトとヒナタと育ち、下忍としての任務とは別に暗部として働いていたのだという記憶も。
全て。
全て。
「そんなの…嫌」
サクラは唇を噛み締めて、手に持った薬草の数々をすりつぶす。
記憶喪失に効く薬、なんて誰も聞いた事ないし、そんなものどこにも無いのかもしれない。
…けれど。
「絶対、嫌」
いくつも、いくつも、薬草を煎じ続ける。何か一つでも効くものがあるのだと、そう、信じて。
その様子を見ていたヒナタは、静かにサクラに背を向けた。
外への扉を開けると同時、飛び込んできたまぶしい青に、ヒナタは目を細めた。
深い、深いため息は隠そうともせず、壁を背に、空を見上げる。かつて、いのと、ナルトと、サクラとの4人で見上げた鮮やかな青空。
記憶に焼きついた4人での情景。
いのはどんな表情をしていただろうか。
「ヒナタ」
聞き慣れた気配と声に、ヒナタは目を開けた。
捉える姿は、矢張り想像通りのもの。
「………ナルト」
「何してんだよ。こんなとこで。ここ、あいつの実験所だろ?」
春野サクラという暗部の所属する忍の有する建物。建物内の全てを実験に使い、熱中している間は誰も入れないし、誰も入らない。
ヒナタが入れたのは、彼女がひたすら気配を消していたのと、サクラが余りに熱中していたため。
ヒナタは何も言わず、壁から離れ、地を軽くける。
その一蹴りで、ヒナタの身体は宙に浮き、目の前の大木の適当な幹に着地する。
ほんの一瞬後、ヒナタの隣にナルトが着地する。
「何で逃げんだってば」
当然のようなナルトの抗議をヒナタは取り合わず、ぽつりと呟く。
「………ずっと、考えていたの」
「何を」
「……いのちゃんが、記憶を失くした理由」
言葉に、ナルトは息を呑んだ。
考えても分かるはずがないと、誰もがしなかった事。
「……それで?」
「………」
疲れた風に、ヒナタは小さく笑って、ナルトから視線をそらす。
木の上から一気に地上まで飛び降り、着地。木にもたれて、そのまま座り込む。同じようにしてナルトも木から飛び降り、ヒナタの隣に座った。
「……なんか、ね、思ったの」
「…何を」
「…いのちゃんは、自分で記憶を失くすことを選んだんじゃないかな、って」
その言葉に、ナルトは一瞬頭が真っ白になった。あまりに思いがけないヒナタの言葉。 少しずつ飲み込めたその言葉に、ナルトは思わず立ち上がっていた。
「っっ。何だよそれ…っっ!!!」
「…だから、記憶を取り戻す事なんて、望んでいないんじゃないかな、って…。そう、思ったの」
「なに…何言ってんだよ!! じゃあ、いのがこのまま俺達のこと全部忘れてもいいって言うのかよ!!」
「…嫌だよ」
じゃあなんで、と言うように、ナルトは苛立たしげに腕を振った。
それをぼんやりとした目で眺め、ヒナタは思いのほかしっかりとした口調で言葉を紡ぐ。
「嫌だよ、私だって、いのちゃんが私たちを忘れたままだなんて嫌。 記憶が戻って欲しい! また話したい! また一緒に任務がしたい! …でも、ね…いのちゃんがそれを望んでいないのかも、って思ったら……このままがいいんじゃないかな」
「いいわけないだろ!!!!」
「じゃあ!!………じゃあなんで、いのちゃんは任務の何も入っていない日に記憶を失くしたの? 下忍任務も暗部任務も入っていない日なんて月に2回しかないんだよ? それに…部屋もちゃんと整理して、実験結果もちゃんと暗号化して、任務の報告書も全部書いて、あんなに大事にしていた花も売り物に出して、『イイラ』に繋がるもの全部処分して!」
まるで、自分がいなくなるのが分かっていたみたいに。
まるで、記憶がなくなるのを前提にしていたかのように。
ヒナタと長い付き合いになるナルトでも、ほとんど見たことのない激昂した姿に、ナルトは息を呑んで立ち尽くす。ヒナタは自分の言葉を後悔するかのように顔をゆがめ、目を伏せた。
気まずい沈黙が落ちる。
しばらくして、ようやくヒナタは重い口を開いた。
「私、なんとなくだけど、いのちゃんの気持ちが分かる気がするの」
「………」
ヒナタは僅かに迷うように視線をさまよわせ、唇を噛み締めた。
一番言いたくない、誰にも聞かせたくない感情が、ヒナタの中で荒れ狂っている。体中に巣食ったそれらは、既に理性で抑えられるような生半端な感情ではなかった。箍が外れたかのように暴れ、外に向かう。
「…ナルト君、サクラのことどう思う?」
「…どうって…別に、どうもないけど…?」
「……私はね、悔しいよ。腹が立つことも一杯ある。好きだけど、すごく…ムカつく」
時にはそう、感情に任せて殴りつけたい事も、ある。
それだけの思いを、ヒナタはサクラに持っている。
初めて聞くヒナタの負の感情に、ナルトは信じられない思いでその横顔を見つめた。真っ黒な髪が顔を覆い隠し、表情が分からない。
ナルトから見たヒナタとサクラはとても仲がよかったし、よく一緒に出かけている。そんな事を思っていたなんて、想像もつかなかった。
「サクラは凄いよ? 普通の家庭に生まれて、愛情沢山注がれて生きてきて、忍になって、あっという間に私たちの領域まで上り詰めた。…才能なんて言葉、使いたくないけど、きっとそう、なんだろうね」
強く強く握り締めた拳を、ヒナタは地面に打ち付ける。術を使ったわけでもない拳は、当たり前の少女の力しか持たず、ほんの少し地面がえぐれただけ。逆に細かい石混じりの土がヒナタの拳を傷つける。
「…私たちが親に捨てられて、殴られて、蔑まれて…っっ、…死と隣り合わせで修行をしていたとき…サクラは両親と一緒に笑って、刀なんて持った事もなくて、毒なんて盛られたこともなくて!! …それなのにっっ!!」
生まれた時からずっと、誰から虐げられる事もなく、無理な修行を科せられることもなく育った少女と、生まれた時から日向家宗家嫡子という立場を背負い、分家に恨まれ、のろわれ、命がけで修行をしてきた少女。
あまりに違う立場でありながら、今は当たり前のように同じラインに立っている。
「……あっという間に、強くなって。そんなの…そんなのずるいっ!!! どうして!? ずっと、ずっと、子供の頃から修行ばかりして、親と一緒に食事をしたことなんてなかった! 一緒にどこかに行ったことも、抱きしめてもらった事もない! …だから力を手に入れたっ。それなのに、サクラは全部手に入れているじゃない!!」
そんなのずるい、とヒナタはもう一度もらした。
何度も何度も拳を打ちつけ、涙を零す。
その涙を止めるすべを、ナルトは知らなかった。
ヒナタがそんな風に思っていることを、ナルトはほんの少しも知らなかった。
知らないから、多分、沢山、ヒナタを傷つけて。
「…いのちゃんも、そう。いつも身代わりだった…。『山中いの』という子供の身代わり」
幼くして死んだ『山中いの』に生き写しの少女…かつて『イイラ』という名前の孤児は、暗部の気紛れで鍛えられ、貧しい孤児時代を何とか生き延び、『山名いの』の身代わりになった。
『山中いの』の身代わりでしかない、悲しい、悲しい、少女。
『山中いの』になった少女は思っていただろう。
『山中いの』でない自分を見て欲しいと。自分は『山中いの』ではないのだと。
そのために忍の技に磨きをかけて力を求め…そして、結局願いはかなわないのだと知ってしまった。
『イイラ』という少女が欲した全てを、春野サクラは持っていたのだ。
その上、『イイラ』を支え続けた忍としての力すら、あっという間に手に入れて。
「サクラはいのちゃんの居場所を奪った。私とナルト君といのちゃんのチームに入って、サスケ君の隣を手に入れて……サクラは全部を持っていたのに、いのちゃんの場所を全部奪っていったんだ」
サクラはいつも後から来て、いのの持っていたものを易々と奪う。
簡単に。簡単に。
「サクラは、いい子だよ? でも、ずるい…。…ムカつくの。ムカつくの! あの子は分かってない! 自分がどんなに幸せなのか、どんなに恵まれた状況にいるのか! 今日は親に怒られた。今日はお母さんの誕生日。お父さんに買ってもらった!」
恵まれた者だけが口に出来る言葉。
恵まれた環境しか知らないが故の言葉。
それがどれだけ人を傷つけるかなんて、全く考えた事もない言葉。
親がいるからと言って、誰もが同じ土壌で育まれたわけでもないのに。
ナルトもまた親がいない。それは里全体のものが知っていることで、勿論サクラも知っている事で。…親のことを聞かされても、ナルトは気にした事がなかった。
親と言うものを知らないから、サクラの言うことで、親というものはそういうものなのだと思っていた。
………ヒナタといのの口から、両親の話題が一度も出た事がないことを、気にした事もなかった。
…一度も、なかった。
「………私、サクラが好きだよ? でも、いのちゃんを奪ったのがサクラなら、私は絶対サクラを許せない…!」
そう、握り締めた拳から血を流す少女に、ナルトは掛ける言葉を持たず。
また、声を掛けることすら許されぬような…。
何も出来ず、何も出来ず。
その悔しさを噛み締め、見上げた空はひたすら青く。
昔、ヒナタといのとサクラとナルトとで空を見上げたあの時、既に彼女らは病んでいたのだろうか、と、何も気付かなかった自分を呪いながら、初めてサクラを恨めしく思った。
…ヒナタの思いも、いのの思いも、何も知らず、ただただ真摯にいのの記憶を取り戻そうと励む少女が羨ましく………ひどく、恨めしかった。
彼女は何も悪くないが故に。
彼女は何も知らないが故に。
それ故に…行方のない感情は積み重なり、ついには最悪の結果を招いたのだと、原因となる彼女は知らない。
そしてこれからも、何も知らず、知ることもなく、彼女は生きていくのだろう。
大切な友人を2人、失った理由など知らぬままに。
2008年12月8日
長くなった上に書いているうちにどんどん主旨がずれていっちゃって…。
私が書くいのちゃんは、たいていサクラに縛られているので、サクラ縛りのない自由ないのちゃんが書きたかったんですよ。したら、全てを断ち切るなら記憶喪失? とか思って。んで、サクラは自分が悪いなんてちっとも全然思っていないんだけど、たくさんの人を傷つけまくってる感じも書きたくて…。
結局そっちが主旨になってしまいましたね。
いのの記憶はこの後戻ることはないです。絶対に。
本人が望んでいないので。
望んでいないことも覚えてはいないけど、やっぱり本人の意識化に刷り込まれている感じ。
この後の展開は結構考えてあるんですけど、書くかどうかは謎です。