『罪人と女』
そろそろ潮時なのかもしれない。
そう、山中いのは思う。
潮時。年貢の納め時。
―――覚悟を決めるとき。
生まれてこの方二十とちょっと生きた。
この血生臭い忍の世界で、驚くほど貪欲に、奇跡的に五体満足で生き延びることが出来た。
それでも当然、無傷というわけにはいかない。全身に傷はあるし、手入れはしていても髪はずたずた。肌もぼろぼろ。
くの一らしいくの一ではなく、あくまでも戦う忍として彼女は生きた。
だから彼女にとって全身の傷は、忍としての誇りで、決して卑下するような要素ではなかった。
けれども、やっぱり女で。
だから何ってわけではないけれど、本人はそう思っていても周りはそう思っていなくて。
女である以上、避けられない問題もあって。
だから、ずっと後回しにしてきた問題を、ようやく片付けることにした。
ベッドの上から弾みを付けて立ち上がる。
部屋の中から外をのぞいたら、驚くくらいに土砂降り雨だった。今更ながら耳に激しい雨音が飛び込んでくる。
そんなことにも気付かないくらい、考え込んでいたのだろう。
小さくいのは笑う。
決意を固めた日がこんな嵐のような日だったとは予想だにしない。
中々の船出だ。どうやらいのの決意は神様とやらにも祝福されていない。
恐らくは、誰からも祝福などされない。
だからこそ。
「丁度いい感じなんじゃないかしらー?」
くすり、と笑って。
箪笥の中から服を引っ張り出す。いつもどおりの忍服っていうのも味気ない。
あまり着ない、完全休みの遊び専用のワンピースを着てみた。薄い青の、いのの目の色に近い色合いの服。胸元のひらひらレースについている細いリボンを結んで、カーディガンを羽織る。
部屋を飛び出して、店先まで飛び出ると、さすがにこの雨では客の姿もなく閑散としていた。
幾つかの花を選んで、小さな花束を作る。
店番をしていた母親に出掛けることを伝えて、買ったばかりのお気に入りの傘を開いた。黒地にきらきらと星が散りばめられて、ちいさなプラネタリウムのよう。
華奢なヒールのミュールを履いて、出来上がった立派な女の子。
女の子、というにはもう無理があるけれど、なんて考えるけど。
さすがの大雨。
歩いている人の姿は少なかった。やがて前も見えなくなるほどの大雨と化して、それにただただ笑う。
最早傘なんて意味がなかった。
ワンピースは濡れて色が変わるし、長く伸ばした髪の毛も身体に張り付いてくる。
なんでだか急にもういいか、と思って、いのは傘を閉じた。
とたん、全身に降り注ぐ土砂降りの雨。
誰もいない道をのんびりのんびり歩いた。
まるで冷たいシャワーを浴びているよう。いや、それとも滝に打たれる修行僧だろうか。
楽しくていのは両手を広げる。
そういえば本当に手ぶらできた。護身用のクナイくらいなら持っているが、財布もハンカチも化粧道具も何も持っていない。あるのは傘と、出掛けに作った簡素で小さな花束だけ。
やがて、辿り着いた古ぼけた大きな屋敷で、いのは足を止めた。
どうしようかな、と逡巡。
なんせ何の前触れもないアポなし訪問である。
ほんの少し悩んで、まあいいかと扉を叩いた。
まぁ気配に敏感な相手だ。どうせ気付いているだろう。
「………何の用だ」
いかにも不機嫌そうな声が、扉の向こうから聞こえてきた。
足を引きずるような音がして、扉にドン、と打ち付ける音。続いて鍵のあく音がしたので、自然と気分が向上して、いのはうきうきと扉が開くのを待つ。
「お花をお届けにきましたー」
扉が開くと同時、いつ見ても超絶不機嫌そうかつ整った冷たい容姿に、花束を突きつけてやった。
ポーカーフェイスが一瞬崩れて、困惑顔になって、また戻る。
その口元は花束に隠れて見えない。突き付けられた花束を忌々しそうに受け取って、深々息をつく。
「―――うざ」
「ちょ、サスケ君ー? 顔合わせて開口一番それはないんじゃないかしらー? こーんな美人が休みの日にわざわざ会いにきてあげてるのよーっ?!」
「うるさい。で?」
つまらなそうに、いのの会いに来た相手、うちはサスケは先を促した。促したくせに、本人はさっさと背を向けている。ずるり、と右足を不器用に引きずりながら、家の中へ戻る。
その背を追いかけて、開いた扉をいのは後ろ手に閉めた。
「お前ちょっと動くな」
びしょ濡れのまま靴を脱いで上がろうとすると、さすがに止められた。しばらく待っているとバスタオルを抱えたサスケが戻ってくる。
ぼさぼさの短い黒髪。冷たい切れ長の黒い瞳。少年の頃に比べて面長になった輪郭。怜悧で整った容貌。その全ての雰囲気をぶち壊すような、左目を覆う無骨な眼帯。いのが隣に並んでも肩先しか見えないくらい、身長が伸びていた。いのはそこまで伸びなかった。
それが、アカデミーを首席で卒業した、里一番のエリートうちは一族の生き残り、うちはサスケの今の姿だった。
「サスケ君やっさしー!」
「………何をどうやればここまで濡れるんだ」
完全に呆れた、というか見下げた視線に、いのは笑う。
さすがに自分から濡れたとは言わない。言わないけれど、多分向こうは察している。
そうでもしなければ、傘を持ちながらここまで全身ずぶ濡れにはならないだろう。
頭からバスタオルをかぶせられる。柔らかくて温かいふんわりとした感触が気持ちよかった。ふわふわタオルの向こうで、実に微妙な表情をしたサスケが深いため息をついていた。視線は逸らされているが、時折いのに向く。改めていのが己の格好を確認してみると、なんとも見事にずぶ濡れで、ワンピースは見るも無残だった。というか滅茶苦茶透け透けだった。上下あわせた青のレースのフリル下着が丸見えだ。
「ねーどうーそそるー?」
うふ、と両腕で胸を寄せてあげてみた。寄せてあげないとちゃんとした谷間が出来ないあたりが残念だ。世間的に見て小さいほうではないけれど、同期で言うなれば八班くの一の迫力ボディに比べればささやかだ。あんな大人しい顔してあの胸は反則だと思う。脱いだら凄いんですの典型だ。いや脱がなくても凄いけど。
「………」
返事のかわりにもう一枚バスタオルをかぶせられた。顔面も全部覆われて、いのの視界は真っ暗になる。しかも、そのまま乱暴に頭から拭かれたからたまったもんじゃない。
「わ、ちょ、な、何よーっ」
さすがにこれには驚いて、抗議の声を上げるが、完全に無視された。
ごしごし、と芋でも洗うような勢いに、真っ暗な視界のまま手探りでサスケの手を探す。恐らく腕、らしき場所を掴んだ、その瞬間、視界が開けた。
「っ!」
思うよりもずっと、ずっと、ずっと近くに、サスケの顔があった。
あった、と思う間も一瞬。
気がついたら、唇が重なっていた。タオル越しに頭が固定されて、『あ』の形に開いたままのいのの口は同じ形のサスケの口に塞がれる。深く。
離れるのを惜しむように軽く、いのの上唇をついばんで、サスケの顔が遠ざかる。また、変な顔をしていた。どんな表情をすればいいのか分からない、微妙な顔。
腕を掴んでいた手をサスケの頬に添える。
一つしかない真っ黒の瞳に、いのの姿が写っている。
サスケと同じ微妙な顔。
どんな顔をすればいいのか、分からない。
心がさざ波のようにざわついて、なんだか泣きたくなる。
いのがそのまま眼帯に触れると、サスケは静かに、けれども確かに震えた。
うちはサスケの左目は、ない。見えないわけでも傷があるわけでもなく、物理的にない。
彼が木の葉に連れ戻された時点でえぐりぬかれた。今頃木の葉の研究部によって瞳術の研究開発に貢献していることだろう。
右足は歩くのがやっと、という程度の傷を、医療班が出血死など間違ってもしないように、丁寧に与えた。物を掴む、ということに何よりも肝心な両親指がない。その為印を組むことも刀を握ることも満足には出来ない。日向の者によって経絡系を完全に封じられている為、チャクラの放出すらサスケはままならない。
挙句、勝手に自殺されても困るために自傷行為の出来ないように暗示をかけられている。
昔のサスケなら容易に解けたであろうが、そんなことすら出来ない。
それが、うちはサスケという抜け忍に与えられた罰だった。
忍どころか、ただの人間以下。ただひたすらに無力な存在だった。
彼に与えられたのは目標も果たせずに弱く無力な研究材料として、惨めに生き永らえるだけの人生。
生きたままのうちはの研究のためにも、新薬の人体実験のためにも、検証のためにも。
加えて、木の葉繁栄の為に、うちは復興の為に、うちはサスケという種はまだ必要だった。
―――何か、言葉を引きずり出そうとして、出来なかった。
だからもう、言葉は忘れて行動に移す。
いのは両手で挟んだ頬を引き寄せて、自分からその唇を奪う。混乱していた一度目より、ずっとリアルで、熱い。
さっきよりもずっと、短い時間の触れ合い。
離れると、もう一度目が合った。
サスケの左目が、いいのか? と問いかけた。
いのの水色の瞳が、いいよ、とささやく。
バスタオルがいのの肩からずるりと落ちた。気にしなかった。気にする余裕がなかった。
余裕なんか、なかった。
一度火がついたら、もう。
後は燃え盛るだけ。
何度も繰り返す。
何度も繰り返す。
獣のようにがむしゃらにしがみついて、唇を吸って、口内を舌で犯して、舐め上げてすする。唾液の音は雨の音よりも大きく耳に届いた。互いの唾液が混じって、溢れる。唇の端から伝い落ちる唾液を舐め上げて、もう一度口の中へ入れる。荒い息が漏れて、時折零れ落ちる声は一体どちらのものなのか。何度も角度を変えて、時には舌先だけで求め合う。
箍が外れたみたいに、ただただひたすらに、互いに互いを貪っていた。
うちはサスケがこの幽閉に近い隠遁生活を初め、里の人間に会うことを許されたのはいつの事だっただろうか?
里の暗部に連れ戻された事自体、同期の誰もが知らされなかった。当然だ。知れば誰もが彼に会おうとするだろう。彼と同じ班だったナルトとサクラは特に。そして、彼に施される処置に反発しない筈がないから。
ナルトはただただ憤った。それは予想されていたことで、他のメンバーだって同様だ。同期の、あまりにも残酷な仕打ちを見て、それが彼自身の引き起こした事の結果だとしても、平静でいられる筈がない。忍であっても、横の繋がりは、連帯意識は、木の葉はどの里よりも強かった。仲間だと、友達だと、甘っちょろくそんなことを思っていた。
幼いだけの下忍時代を乗り越え、中忍となり、上忍や特別上忍となったところで、それは変わらなかった。ただ、良くも悪くも、忍社会の裏も知る大人になった。分別なく騒ぎ立て暴れることが出来るほど幼くはなかったから、この状況の理解もした。
それだけの罪を、うちはサスケは犯した。
そんな、理解したくもないことを理解できてしまうだけの、大人に彼らはなっていた。
一糸纏わぬ状態で、いのはバスタオルにくるまる。
今日大活躍のバスタオルは心底ふわふわで気持ちいい。バスタオル使いすぎてストックがなくなったんじゃないだろうか、なんて変な心配をしながら、その柔らかい感触を楽しむ。
「サスケ君さー洗濯うまいわねー」
ベッドの上でごろごろしてる女に、サスケは、眉を跳ね上げる。いのからは見えない場所で、顔をしかめる。そのむき出しの背中に、思いっきり引っかき傷がついていた。それが実に痛そうだったので、いのはころころ転がって近づくと、真っ赤になって血のにじんだ背を舐めた。サスケにとって実に不本意なことに、びくり、と身体が跳ねる。
「―――っっ!!! いの!」
「痛かったー?」
ごめんね、と背を撫ぜる指先から意識をそらして、深く息をつく。
「痛くない。別に」
「嘘つき」
「………」
はっきり断言されて、サスケは黙り込む。
確かに、痛いと言われれば痛かった。それでも、それ以上に幸福感が全身に満ちていた。 絶対に一生味わうことのない、自分には縁のない筈の感情だった。
「いの」
「なぁにー」
「……悪い」
「……謝んないでよー」
全てを失った。
生きる意味も、目指した力も、手にした力も、全て。
陳腐な言葉で表現するなら、うちはサスケは左目を失った時点で絶望したし、人生全てが真っ暗に塗りつぶされた。
それからの記憶はあやふやで、幼い頃の同期がそれぞれでかくなって、散々色々構ってきて、その全てを適当にいなして。多分その頃のサスケに意志などないに等しくて、ただ動いて生きて生かされて。余りにも惨め過ぎて、生きているのが滑稽で、まだ動いているのが馬鹿らしくて、どうでも良くて。わめき散らすだけの体力も力も既に失った。プライドなんてとっくの昔に木っ端にされて、哀れで惨めな生き様を自虐的に受け入れた。今では実に協力的な模範囚だ。
いっそ狂ってしまえればとても簡単だったのに。
誰か殺してくれたらよかったのに。
消えてしまいたかったのに。
だっていうのに、誰も殺してくれなかった。死ねなかった。惨めに生き延びるしかなかった。
かつて少年時代を共に過ごした者達がここに来ることがあった。何度も何度も。それはただただ苦痛で、サスケの惨めさを、弱さを、思い知らされるのだ。
彼らは善意だということくらいサスケにだって分かる。分かってはいるのだ。
だが、彼らがサスケを見て、言葉を失う。何を話せばいいのか、何を語ればいいのか。夢も希望も力も喪った男とどう接すればいいのか、ありありと悩む姿。そして、親指を、眼帯を、引きずる足を見て、痛々しく顔をゆがめるのだ。
そのたびにどれだけサスケが惨めで狂おしいほどの絶望に突き落とされるのか、当然彼らは知らない。
だから、突き放してきた。
昔のように心をただ閉ざして。
言葉を語らず視線を合わせず。
誰にも興味のないふりをして。
何も聞いてないふりをして。
みじめで無様な壊れた囚人を演じて。
時には狂ったようにわめき散らしてみて。
誰にも関わってほしくなかったのに―――。
何度突き放しても、何度邪険にしても、何度傷つけようとも、山中いのはやってきた。
あれだけサスケに執着してきたサクラやナルトを超えるほどのしつこさで。
まるで、かつてのアカデミー時代、出会うたびに飛びついてきたような無邪気さで。
そう。一番しつこかったのも一番最初にうちはサスケと関わりを持ったのも―――。
ようするに、うちはサスケと木の葉の接点をより強固に、より頑丈に仕立て上げたのは、結局のところ、この山中いのというなんとでもない少女なのだ。
何もかもを無くして、自分という存在の意味すら分からなくなって真っ白になったとき、幼いころ何度も何度も目の前に示された小さな手の平が、突然恋しくなった。
そんなの、誰に言えるはずもなく。
そんなの、求められるはずもなく。
決して口に出すことのない、態度に出すことのない、密やかで小さな、望み。
黙り込んだサスケの背中は、たくさんの重荷をしょい込んでいて、それがなんだかさみしい。同じ年とは思えないほど、うちはサスケは老いているように見えた。
当然だ。
刹那のように生き急いだ少年は、急速に成長し、無理やり大人になった。そのあとは構成するすべてを奪われて、生きる屍になった。
本当に、死人同然だった。
言葉もなく、動きもなく、気配すらもなく、目標もなく、夢もなく、家族もなく、感情もなく、心臓だけが時計のように規則正しく動き続けて、いて。
こわかった。
背中から、そっと包み込む。
汗ばんだ肌が張り付いて、少し濡れた髪がいのの頬に触れた。
「ねぇ、サスケ君ー」
「…なんだ?」
「私ねー、これでも覚悟決めてきたのよー」
「………なんの」
くすり、と笑う。
少し離れて、サスケの顏がちゃんと見えるようにして。
「あなたをー私のものにする覚悟ー」
実に、嫌な顔をサスケはした。
予想通り、もしくはそれ以上のサスケの反応にいのは笑う。
昔のように、ちゃんと感情を示すようになったことが嬉しくて、愛しくて。
「うちはの名前は残すには罪も禍根も大きすぎてー、けれど、その血を消すのは惜しい」
それが木の葉の里の、火影の、上層部の見解。
「だからねー、私、山中を捨てるわー」
「は?」
そのひとつ前のセリフとの繋がりがさっぱり見えない。
だから、ってなんだ。
サスケの先を促す視線に、いのはゆるりと微笑んで―――そのあまりに慈愛に満ちた表情に息を呑んだ―――静かに、けれども決然と続ける。
「うちはも山中も捨ててー」
生まれてこの方ずっと付き合ってきた、大事な名前。
そんな簡単に捨てられる筈、ない。
それでも。
捨ててもいいと、思えた。
「サスケ君とー新しい一族を作るのー」
うちはでも山中でもない、けれど、うちはと山中の血を継ぐ新たな一族。
過去が消えるわけはないけれど、それに縛られて新しい何かを築けないのは嫌だ。
「…それがどれだけ無理なことか分かっているのか」
「分からないで、こんなこと言えないわー」
「………」
簡単な思い付きや適当な気持ちで、こんなことを言うような女ではない。どんだけ軽く言っていたとしても、口にした言葉のリスクは背負う覚悟がある人間だ。
それでも、山中いのが言っていることは、現実的に不可能と言っていいことで。
たとえ名前が変わったとしてもサスケが罪人であることは変わりなく、うちはの血を継ぐ事も変わりなく。
山中いのが山中直系の長女であることもまた変わりなく。
そもそもが、許される筈もないのだ。
「ここから出られなくなる」
「―――変わるわー。だってあなたはうちはじゃなくなるわー。私も山中じゃなくなる。木の葉から出ることは出来ないかもしれないしー、監視もつくかも知れない。それでも、今よりずっといいと思うわー」
「そんなの…出来るわけねぇだろ」
「ねぇ、私たち、偉くなったのよー? 私も上忍だしーサクラやサイは火影の補佐をしてるわ―。シカマルはー木の葉と風の外交を一手に任されているしー、ヒナタも日向を出て木の葉上層部と火影の橋渡しをしているしー、チョウジとシノとキバは上忍として部隊を任されて第一線で戦ってるー、ネジさんは日向の分家と宗家を正式に継いだわー、テンテンさんもリーさんもその補佐をしながら走り回ってー」
意図的にいのが外した名前。
サスケが最も知りたい相手の名前。
正面からサスケをぎゅうっと抱きしめる。
もう、私たちは子供じゃない。
「ナルトがー火影になったわー」
耳元で囁かれた言葉。
サスケの身体がほんの少し揺れ動いて、けれどそれだけだった。
かつてともに学び、戦い、高めあい、憎みあい、決裂した。
そのなんて遠い日。
決して、忘れたわけではない。
あの苦しみ、劣等感、嫉妬、憎悪、焦燥。
たくさん、傷つけた。
本気で憎んだ。
「―――…そうか」
それだけ、なんとか絞りだす。
全てが遠い、遠い―――過去、だった。
「………だからねー無理を通す方法くらい、知ってるわー。」
かつて不可能だと思われたことを、幾つも幾つもやり通してきた人がいる。
それに影響されて、不可能なことを成し遂げた人がいる。
決して諦めなかった人がいる。
それを知っているし、今だって必死になって努力している人がいる。
サスケの処置の軽減については、何年も前から同期全員が色んな所に働きかけている。
「大体ーこのままここにいたってーどーせ強制的に子供作らせられるんだしー、私だって誰かと結婚しないといけなくなるわけだしー、それならー好きな相手としたいじゃないー」
「………好きな相手?」
「反応するのそこなのー…?」
思ったよりもサスケが落ち着いていることに安堵しつつ、いのは苦笑する。もっといろいろ突っ込みどころはあった気がするのだが。
「……初めて、聞いた」
「えっ?」
「……お前の口から、初めて、その言葉、聞いた」
「………へ?」
ぽかん、として、いのはマジマジとサスケの顔を見つめる。ほんの少し照れくさそうな仏頂面。視線は空を泳いでいる。
「そ、う、だった…かしらー??????」
割と昔から積極的な方だったし、出会えば飛びついて愛情表現しまくっていた気がするのだが。
いのの本気で分からない、という顏に、サスケの眉間の皺が深くなる。
「聞いてない」
憮然とした表情と声に、いのは必死に考える。
『サスケ君は私のもの―』
『サスケ君かっこいー』
『さっすがサスケ君よねー』
まるで、口癖みたいに、そんなことを言っている時代があった。
他の女の子に”サスケ君が好き”と伝えたことならある。
サクラにもある。チョウジやいのには呆れられるくらいにたくさん。
でも。
でも確かに。
本人に対して言ったことなんて―――。
「あは」
笑う。
わかってしまった。あのころの自分の気持ちが。
直接言って、直接否定の言葉を聞くのが怖かったのだろう。たくさんアピールして、振り返ってほしくて頑張っていたけど、本当に大事なことは絶対に言えない、傷つくのが嫌いな子供だった。
そんな臆病な山中いのが、これだけの覚悟を決めている。
臆病にしたのもうちはサスケなら、今の自分を作ったのものうちはサスケだ。
本当、笑ってしまうくらいに、山中いのはうちはサスケを愛してる。
「好きよー。大好き。ずっとずっとー子供のころもー今の貴方も大好きだわー」
言うたびに、好きになる気がする。
言うたびに、もっと強くなれる気がする。
身体から溢れそうなこの気持ち。
言っても言っても体の中から湧き上ってきて止まらない。
不思議だ。
人が人を好きになるのって不思議だ。
かっこいいからとか、なんとなく気になるから、とか、きっかけなんてもう覚えていないくらいささやかだったはずなのに、今となっては、目の前で真っ赤になってしまった人が、たまらなく好きで。
「………もういい」
耐え切れなくなったのか、いのの口を不自由な手で押さえる。幸せそうに、本当に楽しそうに笑い続けるいのに、サスケは小さく苦笑を漏らす。
きっと変わる。
変わっていく。
目の前で笑う女がいるなら、サスケはもう一度立ち上がれる。
抱き寄せる。
完成された忍の体。細身でありながら、確実に鍛えられた筋肉。医療忍術でも治せない大きな傷跡、小さな傷跡は数えきれない。手の平はクナイや手裏剣の扱いですっかり固いし変形もしてる。
それでも、綺麗だと思う。
その生き方。
そのあり方。
山中いのを構成する全てが、サスケを魅了する。
女に興味なんてなかった。
復讐がすべてで、力だけを求めていて。
うっすらとした仲間意識も、連帯感も、友情も愛情も、確かにそこにはあったけど、明確にするには幼くて、曖昧で。
大人になって、ようやく、気づく。
これまで向けられてきた感情に。
一人で生きてきたような気分になっていた自分に、確かに向けられていた色々なものに。
自分の中にも確かに宿っていた小さな感情に。
「いの。―――俺と、生きてくれ」
ずっと好きだった、なんて言えるはずもない。
けれど今の自分があるのは確かに彼女がいたから。
無邪気にもたらされる体温は煩わしくとも、気持ちのいいものだったからすぐに振り払うことは少なかった。
うんざりするのは確かだったけど、あけすけな好意は気持ちよかった。
きょとん、と一瞬だけ動きを止めてから、はい、と笑った女は、誰よりも何よりも綺麗で。
きっと彼女と一緒なら、うちはサスケはもう一度、生きていける。
本人は―――気づいていただろうか。
うちはサスケがその瞬間見せた表情が、どれだけ幸せそうな―――笑顔、だったか。
知らないだろう。
その数日後、火影直々の命によって、うちはサスケの軟禁が終わりを告げることを。
知らないだろう。
人体実験の強制協力を外され、偽名をもって里での生活を許されることを。
知らないだろう。
さらにその数日後、山中いのがどこの誰ともしれぬ身体の不自由な男の下に嫁ぐことを。
―――まだ、誰も知らないだろう。
2012年8月11日
終わった!なんか達成感が…。
罪人ってか囚人サスケと、いのの話を結構前からやりたかったので、満足です。
いろいろなんか際どい気がするけどuu
原作だとそんな重い罪は下らなそうな気もするし、まぁ、どうなるんでしょうね…。
ナルヒナのとこにこれの裏話的なものがあるのでそっちも読んでいただけるとめっちゃ嬉しいです。