『死神と男』
日向ヒナタは暗闇を歩いていた。
一寸先も見えないような真っ暗闇。
忍であっても足のすくんでしまうような、完全な闇だ。
その中を、日向ヒナタは歩く。ただただ静かに。
恐怖に震えることも怯えることもなく、確かな足取りでまっすぐに。
一緒に歩いている上忍の方がまだ足取りが危ない。
もっとも、日向の落ち零れとさげすまれたこの少女も、今や立派な上忍であるのだが。
やがて、たどり着く。
父親から聞いて、覚悟を決めた上でここまで来た。日向に火影より与えられた任務。受けるのは誰でもよかったはずだ。今や分家のトップとして、宗家と歩む道を探す日向ネジでも。日向ヒナタよりもはるかに格闘センスに優れた五つ年下の妹、日向ハナビでも。日向の体術を収め、日向の知識を収め、日向の術を収めたものならこの任務は可能だっただろう。
それでも、父は日向ヒナタに任務を与えた。
彼は、断っても構わない、と言った。
蒼白な表情で、それでも任を確かに受けたのは日向ヒナタ自身だった。
だから、不自然に早まってしまった呼吸をなんとかコントロールしながら、目の前の光景を受け入れる。
受け入れることは逆らうことよりもずっと得意だ。
暗闇の中、一人の青年がいた。壁に鎖につながれ、首と腰を固定された、罪人。
年は同じ、黒い髪も同じ。古い家の生まれで、ともに木の葉の瞳術使い。共通点はそれだけ。あとはまるで違う。うろんな黒い片目と、ぽっかりと空いた穴。痩せこけた頬に、目を覆いたくなる傷の数々。親指は両方ともなく、傷口は既に縫合されている。右足は骨が幾つも砕けている。それが日向ヒナタの特殊な瞳には分かった。もう、今までのように歩くことは出来ないだろう。
彼の忍としての命はとっくに尽きている。
ぽっかりと空いた眼球のあった場所は、彼の心の闇そのもののように深く暗い。
動悸を抑える。
吐き気を堪える。
今から自分の行うことに、怖気がする。
すえた臭いが鼻についた。
体臭と汚物と傷口の膿んだ臭いと。
深呼吸するのは諦めて、浅い呼吸をゆっくりと行う。
頭に憧れの人の笑顔を想い浮かべた。
それで、なんだって出来る気がする。
ようやく、向き合う。
「………久しぶりです。うちは…サスケさん」
暗い瞳が、動く。
真っ白な、暗闇を照らすような明るい瞳と出会う。
「貴方は…覚えていないかも、しれません。わ、私は、日向ヒナタです。…同じ年で下忍になりました…8班で、キバ君と…シノ君と…同じ班でした…」
「………………何を」
一言、その一言で、サスケの言いたいことを察する。
この洞察力が、昔は嫌いだった。
人の言いたいことがなんとなく分かってしまうのが嫌だった。
でもきっと、サスケのように言葉の少ない人と話すなら、すごく便利な能力だ。
覚えているからそれ以上の説明は要らない。
同期の女だからこそ、何をしに来た。
―――本当に、この人は可哀想だ。
してはいけない同情を必死に押し隠す。これ以上彼を傷つけたり貶めたりなんてしたくない。
どの道今から傷つけるのに、なんて偽善。
最低だ私。
だって、この人は正気だ。
こんな状況になってもなお、狂気に取り付かれることもなく、冷静に自分の状況を把握している。把握できるだけの頭の良さがまた不幸だ。
もっと弱くて、もっと愚鈍でさえあれば、この人は道を踏み外したりしなかった。
息を吸う。彼の言葉で落ち着いた。心は更に固まった。
だって、私の逃げ腰な心を遮ってくれた。
断ち切って、することをしろと促した。
何をしに来たか?
そんなの決まってる。
「貴方の、経絡系を完全に封じます」
言った瞬間、皮肉気に彼は笑った。
何もかもを諦めた、老獪した表情だった。
ずしり、と重くなる。身体が、胃が、腸が。一瞬ぐらりと揺れる視界。
感じた力の波に逆らわなかった。
力を受け入れたまま動かない。
日向ヒナタは身体の前で手を組んだまま、静かに頭を下げた。
あれだけ暗かった世界は、真っ白に染まっていた。真っ白な世界で見る日向ヒナタは真っ黒な着物を着ていた。喪服だ。長い髪は後ろで高く結い上げている。化粧気のない白い面は蒼白に近い。
その、下げられた頭を見て、うちはサスケは笑う。
今や幻の中にしか存在しない五体満足な姿のうちはサスケ。悲痛で、歪んだ笑みだった。
本当に簡単な、幻。自分と目の合った相手にしか効かないし、少しの抵抗で術にもならない。周りから見たら見詰め合っているように見えるのだろう。とても簡単な初歩の初歩の瞳術。簡単に抜け出せるし、今のヒナタには何の脅威にもならない。
殺意もなく穏やかな力だったから、拒まなかった。
きっと彼も話したかった。
私も話したかった。
何の監視もない世界で。
「お前が俺の死神になるのか」
「…はい」
「だから黒か」
「…はい」
「…何故、受けた」
「…貴方にとって…私は、ただの同期かも、しれない…けど…。私は…私だけじゃなくて、同期の皆も…ずっと、ずっと貴方のことを探していました。…貴方は私達の中で、誰よりも期待されていて…誰よりも強くて…誰よりも重い重圧の中にいて…。きっと貴方なら、私達に出来ないことも、当たり前にしてしまう。出来て当然だって…。一緒の班じゃなかった私達は勝手に、無責任に、そんなこと、思って…いました」
頭を上げた日向ヒナタは真っ直ぐにサスケを見つめる。
「卑怯で、弱くて、無責任だった、から、来ました」
「………」
「……まだ、皆は知りません。…どんな反発をするか分からない…から」
「………」
「でもいつか、必ず…その時は来ます……」
「………本当に…」
くっ、とくぐもった声。最悪の死神だ―――。
世界が戻る。
うちはサスケは目を瞑り、もうヒナタを見ようとはしなかった。
簡単な瞳術とはいえ、これだけ衰弱した身体で行えば負担も相当なものだろう。
「―――はじめます」
静かに、静かに、日向ヒナタは印を切った。
闇を、抜ける。
結局あれから一言もサスケは喋らなかった。もともとヒナタは喋るのが得意ではないし、サスケもそうだろうから、仕方ないといえば仕方ない。
あれでよかったのだろうか。
分からない。
何も分からない。
「―――終わったか」
「……はい」
父の、静かな顔に、ヒナタは頭を下げた。
終わったのだろうか。本当に。
あれでいいのだろうか。
本当に。
本当に?
「―――今日はもう、休みなさい」
くらくらする。
父の言葉に必死に頷いて、わかれる。上忍になったときからヒナタは一人暮らしを始めた。帰る場所は父とはばらばらだ。
出来るだけ繁華街を避けて、ひっそりとした道を歩く。静かで、緑の多い場所。意識しなくても歩けて、人に迷惑をかけない場所。
無意識に足は進む。
頭の中の考えがまとまらない。
真っ黒な服を着ている所為でただただ暑い。
煮えたぎっている。
頭の中は飽和しそうだ。
目の前は光がちかちかしている。
正常じゃない。
気持ち悪い。
ひどい。
ひどい。
あんなのひどい。
かわいそうだ。
あそこまでしなくてもいいじゃないか。
こわい。
こわい。
こわいよ。
感情が、叫んでる。
一方で当然だって忍としての頭が叫んでる。
ぶつかり合う真逆の思考についていけない。
ふらふらする。
立っていられなくて、座り込んだ。
汚していいほど安い着物ではないが、これ以上立っていられなかった。
ねぇ、ナルト君。
これで良かったのかな?
私は間違っているのかな?
嫌だな。
やっぱりこんなの嫌だな。
早くサスケ君が解放されたらいいのに。
あんな汚いところじゃなくて、綺麗なお布団で寝れたらいいな。
美味しいご飯を笑顔で囲めたらいいな。
「―――なた!? …っっ――ーた」
意識が保てない消えていく視界の中で、サスケ君の姿が浮かんで、色んな人の顔が浮かんでそれで、最後に憧れの人の心配そうな困惑気味の顔が浮かんだ。
いつの、ときの、顔かな―――?
眼帯を巻いた、うちはサスケが穏やかに赤子を抱いている。その両手に親指はない。足だって不自由に引きずっている。経絡系は完全に閉じているし、生活も不便だろう。
それでも、ちゃんと、しっかりと、赤子を抱いている。
優しい顔で、危なげのない手つきで。
色んな人がいる。
大好きな人たち。
アカデミーの先生や同期の仲間、担当上忍や一つ上の従弟達。
ああ、幸せそうだな。
素直に、そう思える、そんな顔を皆がしていた。
大好きなあの人が、一番嬉しそうだったから。
だから、ヒナタは。
ヒナタが目を覚ました時、目の前に透き通りそうな青い瞳があって、思わずじっと見返してから、それがどういう状況なのか理解して。
「っきゃぁああああああああああ!!!!!」
「っだ! って!!」
思いっきり叫んで、思いっきり目の前の人物を突き飛ばしてしまった。
うっかり柔券じゃなかったことが救いとはいえ、不意打ちの打撃に綺麗に目の前の人物は吹っ飛んだ。で、棚にぶつかって、その勢いで落ちてきた写真で頭を打った。
見事なコンボに、ヒナタは慌てて立ち上がる。少しふらついたが、何とか立てた。
「なっ、ナルト君!?」
「っってててて。今のは強烈だったってばよ…」
「ごっ、ごめんなさい! だっ、大丈夫…!?」
「……あー大丈夫だってばよー」
かけ声とともに、ひょい、と立ち上がる。妙に返事が遅かった気がしたけど、その様子は健康そのものだったから、ほっとして、ヒナタは息をついた。
「で、ヒナタは大丈夫だってば? サクラちゃんは極度の疲労だから寝とけば治るーって言ってたけど、けっこー長く寝てたってばよ」
「えっわっ、私、寝てた……の…?」
自分が今どこにいるのか全く分からないままパニックに陥っていたヒナタは、ようやく、今の状況に気が付いた。
ここは。
ここは。
まさか。
「なっ、ナルト君!!!」
「へ!?」
「のっ、家!?!???」
「そうだってばよ?」
「……はぅ」
「ヒナタ!?」
極度の緊張疲労状態から回復したはずの日向ヒナタは、極度の緊張でもう一度あっさりと意識を手放した。
「ごっごめんなさいっ。その、こ、混乱してっ」
さすがに、今度は回復が早かった。
いつの間にか布団の上に戻されていた事実の事を突き詰めるとまた倒れそうだったので、必死に意識をそらしながら、ヒナタは頭を下げる。
ナルトの話によると、7班の任務の帰り道、担当上忍と別れた後に倒れこんでいるヒナタを見つけたのだという。医療忍術を収めているサクラによると、疲労が溜まっていて寝ているだけだから、ゆっくり休ませれば大丈夫だということ。それでヒナタの家に運ぼうにも鍵がかかっているし、日向に連れて行ったら何事かと大騒ぎになるだろうし、医療施設に行くほどでもないし何より遠いから、ちょうど近い家のナルトのところに運び入れたらしい。
お姫様抱っこでサクラが運んだとのこと。なんていうか…男らしい。
それで着物もサクラが脱がしてクリーニングに出したとの事だった。もう感謝の言葉もない。だから今ヒナタが来ているのは、その、なんというか、男物の大きなTシャツと半パンで。それが誰のものか、なんて考えるまでもなくて。
なんだか…なんだかもう、どうして、サクラのすごく悪どい感じの笑顔が浮かんでしまうのだろう、と、ヒナタは頭を抱えてしまった。当然ぶかぶかだし肩からずり落ちそうだし、パンツはかろうじておしりで引っかかってるからすぐ脱げてしまいそうだ。絶対これサクラが指定した格好だ。
もういろいろ心許なくて泣いてしまいそうだった。というか、こんな状態では一歩も外に出れない。さっき服なんて気にせず動いてしまって、とんでもない状況になっていたに違いない。絶対丸見えだった。しかも今日着物だったからブラなんてしてない。サラシ巻いてただけなのにしっかりほどかれてる。ぎゅうぎゅうに締め付けてたから確かに外すべきなんだろうけど。ナルトもはしたないとか淫らとか思ってたに違いない。だからずっと違うとこ見てたのか。恥ずかしすぎる。
ゆでだこ状態になって夏用の掛布団をずるずると肩からかぶった。どうしよう。もう動けない。
昔サクラちゃんに読ませてもらった漫画か小説にこんなシーンがあった気がする。あの後2人はどうなったんだろう。覚えてないな。今度貸して貰おうかな。
お願い誰か助けて。
そんなぐちゃぐちゃなヒナタの思考も、次のナルトの言葉で吹っ飛んだ。
「…そのヒナタは、なんで…喪服だったんだってば?」
サクラの迫力に勝てずに、自分の家の中に自分の服を着た眠っている女を置くという、拷問のような状況にさせられて、内心いろいろ焦って葛藤しまくっていたナルトは、掛布団にくるまったヒナタから必死に視線を逸らして、そもそも聞こうと思っていたことをようやく聞いた。
返事はすぐには返らない。
ヒナタと話をするコツは、話しかけて3秒待つことだと昔キバに聞いた。せっかちなナルトとしては面倒くさいことこの上なかったが、気の短いキバにでも出来るんなら出来るだろうみたいな意気で試してみたら、案外イライラしなくなった。
返事はゆっくりでも、ナルトの言いたいことをちゃんと理解してくれるし、しっかり考えて返してくれる。話をしている、という気がするのだ。一方的に話すのでも、話されるのでもなくて、好き勝手なことを好きに喋っているのでもなくて、会話として成立している、という感じがすごいあるのだが。
「私が………彼の死神、だったから」
成立しなかった。
予想だにしない答えに、虚を突かれてしまって、ナルトはそわそわとヒナタを盗み見る。
今にも、泣き出しそうな顔に見えた。
「っっ」
苦手だ。そんな顔。
中忍試験の時の、あの顔。
意外にヒナタは滅多に泣かない。忍が泣かないのは当然と言えば当然だけど、ヒナタの性格ならすぐに泣いたっておかしくない。キバ達もいつも泣きそうな顔はしている、とは言うけど、泣いている、とは言わない。実際泣いていないから。
本気で落ち込むときはいつも一人でうずくまっていて、泣いているのかもしれないけど、それは分からない。
案外サクラの泣き顔の方が、ナルトは何回も見ていて。それはただ単に接する機会の多さからかもしれないけど、ヒナタの性格を思えばやっぱりすごいと思う。
そう。
ヒナタはすごいのだ。
昔に比べたら全然つっかえないで話すし、倒れないし、ヒナタの説明は丁寧で道筋が通っているから、分かりやすい。どうだっていいことかもしれないけど、その一つずつが彼女の歩んできた努力の証拠に思えて、会うたびにすごいヤツだってナルトは感心してしまうのだ。
だからそんなすごいヤツが見てくれているうずまきナルトは、ものすごいヤツなんだって自信をくれる。
ゆっくりしたテンポの会話は、慌てる必要も気を使う必要もなくて安心感と癒しをくれる。
彼女の周りは清流のように涼やかで、豊かな自然の中の空気のように澄んでいる。どれだけ嫌なことがあっても、任務で失敗して凹んでも、彼女といればまた前向きになれる。
私が少しでも前向きになれたのはナルト君のおかげだから、それはナルト君自身の力だよって前に言われたけど、落ち込んでいるときに欲しい言葉をくれるのはヒナタで、それでやる気が湧くのだから、やっぱりヒナタの力だと思う。
自分の事にだけ自信があまり持てないヒナタはすごくもったいない。
本当はもっともっともっとすごいのに。
そんなすごいヤツが、本気で泣きそうだった。
ヒナタの掛布団を持つ手が震えていた。
多分、泣かないように必死にこらえていて、唇をかみしめている。歪んだ顔が明らかに無理をしていた。
それなのに。
「あのっ、ほっ本当に迷惑かけてごめんなさい……ナルト君も、任務の後で疲れてる…のに…」
俯いて、前髪で顔を隠しながら、震える声音で、人の心配なんてしてるから。
なんだか、ひどく腹が立った。
「ヒナタ」
真剣な声に、思わず顔を上げたヒナタの視界はすぐに真っ白になった。今回は別に幻術でもなんでもない。白いTシャツが目の前に来ただけ。ぐい、と掛布団を引っ張られて取り上げられてしまう。肩から掛かっていた布団は、ヒナタの頭の上から再度かけられた。何も見えなくなって、戸惑う。見ようと思えば幾らでも見えるのだが、わざわざ白眼を使うようなことでもない。
布団の上から少し引き寄せられて、こつん、と頭がぶつかる。遠慮がちな、抱擁。
「オレってばヒナタの顔なんて全然見えねーってばよ」
だから。
気を、使うな。
と。
言葉の多い青年の、滅多にない隠れた言葉に息をのんだ。
きっと憮然とした表情をしてる。下唇を突き出して、拗ねたような顔で。
強い口調がナルトの腹立ちを伝えてくれた。
―――オレってばそんなに頼りにならねぇ?
「―――っ」
これ以上迷惑も心配もかけたくないのに。
あんまりにも、ナルトが優しいから。
「ぅ―――っ。―――っっ」
押し殺した声が、掛布団の中でくぐもって。
暗闇の中思い出す。
彼、はどれだけ絶望しただろう。
どれだけ苦しんだだろう。
もう、今日使ったあんな単純で簡単な術さえ使えなくなった。
忍としての力を、完全に、ヒナタが奪った。
ヒナタがうちはサスケを完全に殺した。
彼があの状況になるまで、どれだけの拷問が行われたのか、ヒナタにだってわかる。
決して死ねない苦しみ。永遠に続く痛み。眠れないまま目を見開いたまま眼球を取られ、骨を砕かれ叫びに喉は焼け、ゆっくりと体を切り刻まれ。
それでも狂えないまま。
死神と出会った。
「ぁああああああああっっ!!!!!!」
だめだ。もう。
こんなの。
堪えられない。
我慢なんて出来ない。
悔しい。
何もできなかった。
弱り切っている相手に止めを刺した。
「ああぁあああっっ。―――っぁ。もうっ…」
許せない。
そんなの。
そんなの誰が許しても、自分で自分が許せない。
覚悟なんてちゃんと決めてたはずなのに、いざとなったらこんなぼろぼろで。
情けなくて。
悔しくて。
頭の中がぐちゃぐちゃで、何もかも喚き散らしてしまいそうだった。
暴れてしまいそうだった。
それが嫌で。
そんなの絶対嫌で。
必死でしがみつく。
目の前の存在に縋り付いて、自分を保つ。
熱い。
目も、顔も、体も、頭も。
何もかもが自分のものじゃないみたいだった。
いつしか強く抱きしめられて、その体温があまりにも温かくて、背中を布越しになぜてくれるのが気持ちよくて。
少しずつ、少しずつ、頭の中が冴えわたっていく。
めちゃくちゃに分解された思考が、再構成されて整理される。
全部が綺麗に頭の中で収まったとき、ヒナタは新たに決意した。
それはまだ誰にも言うことのできない、けれども確かな決意。
あきらめない。絶対に。
取り戻して見せる。
夢を夢のままになんてしない。
そこまで考えて、ヒナタはもう一度眠りにつく。
願わくば―――もう一度、夢の続きを―――
「で、何もしてないわけぇ!? 信じらんない! これだけお膳だてしたのに!」
「寝てる相手に手ーなんて出せないってばよ!!!!」
「自分を慕ってくれている可愛い子が無防備な格好で眠っているのよ!?!? 据え膳じゃない! 食べちゃうに決まってるじゃない!」
「なんでそんな無駄に野獣系なんだってばよ!」
「うっさいわね! あんたがへたれ過ぎるのよ! この草食系! どーっせキスの一つも出来なかったんでしょ!」
「うっ……みっ、未遂いだってばよ…」
「あーもう駄目なやつ! ……でもほんと、どーしてそんなヒナタに対しては慎重なのよ。私の時はもっとガンガンきてたじゃない」
ようやく落ち着いたらしいサクラに、ナルトは深々と息をつく。
すぐ横に幸せそうに眠るヒナタがいる。その目じりには涙の跡が残っているし、真っ赤になってしまっている。
しっかり眠ってしまったヒナタにどうすることも出来なくなって、サクラを呼んだらこの様だった。即刻防音結界を張られて鬼の形相で怒られた。怖い。
「…傷つけたくないってば」
無条件に、無欲に、惜しみなく、溢れるほどの愛情をくれた。
幼い自分はまるで気づかなくて、無邪気にサクラを慕っていて、結局それどころでもなくなって。
次第に大人になって、人と関わることが増えて、ヒナタと話すことが前より増えて、彼女がどんな人間なのか分かってきて。そうしたら、ヒナタがどれだけ優しい目で自分を見てくれているのか、気が付いた。いつだって彼女は見守ってくれていて、それはとても居心地がよくて暖かくて、無条件で自分を満たしてくれた。
一緒にいればいるほど、ヒナタの事を新しく知った。
自分がどれだけヒナタの事を知らないのか分かった。
どれだけ傷つけられても、憎まずに心から受け入れられるのは弱さなんかじゃない。強さだ。あの古い体質の家で長いこと苦しんできて、それでもまっすぐな気性を損なわず、父を慕い、妹を愛し、ネジを許した。しなやかで、幅広い懐。
ナルトが何をしても彼女はきっと信じてくれる。見損なわないでいてくれる。認めてくれる。その無条件の信頼。
もしもナルトが道を間違えても、それでも受け入れてくれるのだろう。駄目だよ、と諌めても、それは違うよ、と否定しても、その罪を認めた上で、やっぱりうずまきナルトを受け入れてくれる。
優しくて、花が好きで、笑うとすごく可愛くて、努力家で、意外に力は強くて、料理も好きで、ほんとにすごいヤツなのに自信がなくて。
気が付いたらいつも探していて。
いつのまにか、誰よりも大事になっていて。
その気持ちが大きくなりすぎて、ヒナタに負担をかけたくなくて、ヒナタに心配かけたくなくて、ヒナタに傷ついてほしくてなくて。
「何? 私は傷ついても構わなかったってわけ!?」
「はぁ!? いや、あっ、あのころは子供だったんだってば! それにサクラちゃんはサスケが好きだったし!」
「それ関係ないでしょー!?」
「あるってば! 振り向いてくれてるのと、振り向かせようとするのじゃ全然違うってばよ!」
またも過熱していく口争いは、ヒナタが目が覚ますことですぐに収束することになるのだが、それも随分と先の話で―――。
だから、今しばらくはまだ、ヒナタは優しい夢を見る。
知らないだろう。
優しい夢はいつか現実になることを。
知らないだろう。
火影と呼ばれる青年が満を持して指輪を買ったことを。
知らないだろう。
その数か月後には、夢の中で笑う彼女のお腹の中にもまた、小さな種が芽吹くことを。
―――まだ、誰も知らないだろう。