『帰るべき場所』
茂みを掻き分け、女は顔を上げる。
木の葉から垣間見えた光があまりにもまぶしく、笑った。
それから、視線を落とす。
望み続けた光景が、そこにあった。
喜びに、感動に、身を震わせる。
ようやくだった。ようやく見えた光景だった。
「誰だ」
唐突な、そして無粋な声はその時。
女は僅かに目を細め、己の武器に手を伸ばす。背後の気配の主には分からぬよう、ゆるりと。
「私は、ジェド。旅をしている。貴方はあの村の方か?」
「そうだ」
振り向いた先、目に捉えたのは真っ黒な長い髪。深い、引きずり込まれるような闇の、目。女のように整った造作を、不覚にも綺麗だと思った。
「そうか、助かった。私はどうも道に迷ってしまったみたいで、休める場所に行きたかったんだ。案内してもらってもいいだろうか?」
見るからに疲れきったような女の表情に、黒髪の男は小さく、眉を寄せた。そのほんの僅かな表情の変化に、女は慌てて言い募る。
「あ、いや、ただでとは言わない。金は…あまりないが、私に出来ることならする。だから頼む!」
言い切って、思いっきり頭を下げた。
男は動かない。
ダメだろうか?とそろそろと顔を上げると、丁度男と目が合った。
真っ黒な、闇の色。感情の篭らない、冷めた、視線。
昔、見たことのある目に似てる。そう、思った。
思った瞬間に、男はくるりと踵を返す。
「あ、おいっ」
「来たいなら、来ればいい」
たったの一言。女…ジェドは、ぽかんと口を開いて、それから、笑った。警戒を解いて、男の後を追う。横に並ぶと、男はジェドよりも頭一つ分大きかった。
「お前…。変なヤツだな!」
「…失礼な奴だな」
「そうか?そうでもないぞ。お前名前は?名前はなんと言う?」
「………エン」
「そうか。エン……エンか。短くて、呼びやすい。それに響きが綺麗だ。良い名前だな!」
「…………」
「なんだ?変な顔をして」
「………………」
「ああ、分かった。照れているのだな?な、そうだろう?」
「誰が」
「お前がだ。当たりだろう?」
「違う」
「ははっ。矢張り当たりだ」
「…………」
エンの言い分を全く聞かないジェドの笑顔に、ため息をついて、森を掻き分ける速度を上げた。
「宿まで連れて行ってくれないか?」
ようやっと村について、言われた言葉に、エンは僅かに息を呑んだ。
この小さな村に宿などないからだ。こんな辺境にある小さな村に宿などあったところで元手は取れない。それぞれ毎日を生きるのに精一杯である。
「どうした?」
「…………宿は、ない」
「え?」
「宿はない」
ジェドは、エンの顔をマジマジと見つめて、ああ、と頷く。ジェドの目から見ても、この村は小さく、慎ましく、穏やかな、そんな村だった。観光客どころか、余所者自体来ることはほとんどないことなのだろう。
そうか、と小さく呟いて、ジェドは眉を寄せる。旅をしている身として野宿は当たり前であるし、全く構わないことなのだが、折角屋根があって風を凌げる場所があるのだから、出来ればお邪魔したい。
どうしたものか、と腕を組む。
「そうだ、空き家か何かないのか?この際馬小屋なんかでもいい。屋根があって、風が凌げて、雨が降らなければいいんだ」
顔を上げ、エンの顔を見た瞬間、ジェドの希望は費えた。
会ってからの時間はそんなに長くないが、大体表情は読めるようになった。
「………そうか。ないんだな」
「……………」
「なら、いい。ここまで連れてきてくれて助かった。ありがとう。また明日礼をしに行こう」
出来ることがあるかどうかは分からないが、と呟いて、ジェドは頭を下げた。山道を歩き彷徨い疲れきっていたし、気がつけばもう日は暮れてしまった。村に居るというだけで、獣に襲われる心配は大分減るだろう。今は、とにかく眠りたい。身体を休ませたい。
くるりとエンに背を向け、つい今通ったばかりの村の入り口に足を向ける。
「………」
エンの前を、ジェドの色褪せた砂色の髪が、ふわりと舞った。
考えるよりも早く、ジェドの腕を掴む。
「う、わ…っっ。な、ど、どうした?」
「………………」
エンは何も言わず、ただ、ジェドの腕を引っ張り出す。早足のエンに引きずられ、ジェドは慌ててそれについていく。
「ちょっ!?え、エン…っ?」
「………」
聴く耳持たずなその様子に、ジェドは大きく息を吐いて、エンに身を任せる。エンは、考えも読めない上に表情も読めないが、悪い人間でもないだろう。
エンが足を止めたのは村の外れにある、小さな家の前だった。質素な作りは古いもので、みすぼらしいほどのものだが、手入れはよくされているようだった。でなければ人が住むことなど出来ないだろう。
エンが小さな扉を開けるよりも先に、ガラリと乱暴に開かれる。と、同時に、青年の声。小さく、息を呑む音がした。
「エン!遅い。遅いよ!!」
「…悪かった」
「本当だよ!昼過ぎに出といて一体何すればこんな時間……?」
ようやく、青年はエンの後ろに誰かが居るのに気付いた。首を傾げ、誰?とエンに目で問う。返答はなかった。仕方なく、エンの後ろで縮こまっている女に目を向ける。
色褪せた、砂色の髪。長く伸ばされた髪が垂直に下に落ちていた。どこもかしこも汚れきった旅装束に、ずた袋。武器の類は見当たらない。落ち着いた、翠の瞳と目が合った。今は汚れて分かりにくいが、充分に美人の部類に入る女。
「―――テマリ?」
青年の青い瞳が見開かれる。その反応に、エンが僅かに目を見張る。
「……………ローヴェ?」
「あ、その、エンの親戚か何かか?私はジェドだ。よろしく」
軽く、頭を下げられて、ローヴェは身を強張らせた。声が詰まる。
「おい、エン、私はどうすればいいんだ?」
小声でエンに聞きながら、ジェドは落ち着きなく立ち位置を変えた。ローヴェの視線は不躾なまでにジェドを凝視し、一向に離れる気配を見せなかった。
エンが答えるよりも早く、パタパタと軽快な足音が聞こえた。もう1人の、この家の住民だ。
「エン、ローヴェ、何してるの?扉も開けっ放しで…」
「あ…こんばんは」
目が合うよりも先に、ジェドは頭を下げる。
「…………て…まり……?」
「?…さっきそっちの男もそう言っていたようだが、知り合いか何かか?…悪いな、その"テマリ"とやらでなくて」
大方その知り合いであるかどうか確かめたくてエンはここに連れてきたのだろう。けれどそれは外れだ。
「エン、手を離してくれ。私はもう寝たい」
ずっと掴まれたままだった腕を指し示すと、エン本人が驚いたかのように手を放す。自覚はなかったのだろうが、相当な力を込めていたらしく、ジェドの腕はくっきりと手跡が残っていた。
「よくは分からないが、その"テマリ"とかいう人物でなくてすまなかった。あんた達がその人に会えることを願ってるよ」
にっ、と笑って、ジェドは彼らに背を向けた。嫌になるほど、その笑顔はローヴェとエルの知る人物のものと似ていた。3人、顔を見合わせる。目と目で会話して、軽く、頷きあった。
「ジェド」
すでに遠く、小さくなっているジェドの背に、呼びかける。大して大きな声でもなかったが、エンの声はすんなりとジェドの場所まで届いた。続く、エルの声も同様。
「ジェド、さんと言いましたよね。今日はここに泊まりませんか?」
くるりと、振り返ったジェドが不思議そうに首を傾げる。その様が夜目のよく効く3人にはよく分かった。苦笑して、続ける。
「どうせ宿もない。野宿よりはましだと思う」
ぼろ家だけどなっ、とローヴェは笑った。ぼろ家とは何よ、とエルがローヴェを睨み、エンがそれをなだめる。全く息のあった3人組だ。
「しかし、これ以上世話になるわけには…」
「農作業とか俺らの仕事とか、手伝ってくれたら、それがお礼になるとは思わない?」
「…………そう、だな。分かった。しばらく世話になりたい。よろしく頼む」
それから、ジェドと名乗る旅人と、エンとエル、そしてローヴェの奇妙な共同生活は始まった。
ジェドはあっという間に村に馴染んだ。
元々人懐こいのか、いつのまにか村人の全員と知り合いになり、子供達には外の世界のことを面白おかしく話していた。一人旅をするだけあって腕もたつようで、気がつけば狩りのメンバーにも混じっていた。弓の扱いも一流だったし、狩りの腕も中々のものだった。
誰もがジェドを受け入れ、ジェドもまた元々村の生まれだったかの様に振舞っていた。
気がつけば、ジェドがこの村に来てから一週間がたっていた。
「すまない。ジェドはいるか?」
馴染みの茶屋に顔を出して、ジェドの姿を探す。どうやらジェドは甘いものが好物のようで、ここの団子をこよなく愛しているようなのだ。そのため狩りの帰りや、手伝いの帰り、頼まれごとの後など、ことごとくここにいる。だからここにいるだろうと思ったのだが…。
「今日は見てないよ」
「そうみたいだな」
さして広くもない店内に求め人の姿はなかった。代わり、という風に、よく話す、比較的年の若い青年がいた。ジェドに惚れていますという分かりやすい態度で、よくジェドに付きまとっている。
「エンはいいよな…ジェドと一つ屋根の下でさ…」
最近よく聞かされる恨み言を右から左へ聞き流し、店主に伝言を頼む。エルから呼んできて欲しいと頼まれているのだ。おそらくは、今エルが開発中の薬についてのことだろうが…。ジェドは薬草や薬、病気のことについてやけに詳しいのだ。
店を出てからも青年が愚痴愚痴言いながら付いてくるので、エンは大きくため息をついて
「そんなに言うくらいなら本人に言え。屋根があって雨風凌げるならどこでも喜んで行く筈だろ」
「…そんなのとっくに言ったっつの」
「そうなのか?」
初耳だ。
「俺も含めて、ジェド狙ってるやつ皆そう持ちかけたさ。けど、ジェドはお前んとこがいいんだとさ」
「……そうなのか?」
「"家族みたいで離れがたい。一緒に居たいんだ。"全員それでふられた」
「…そうか」
それは無神経なことを言って悪かった。その気持ちを込めて、軽く肩をたたく。
「お前も、変なヤツだよな。あんな美人と一緒にいて何にも感じねーのかよ」
疲れた表情でそううめく青年に、軽く、首を傾げる。たしかにジェドは美人だろう。だがそれはエンにとって重要なことではないし、顔の良し悪しに興味を持ったこともさほどない。
「いや、特に」
正直に言うと、大きな大きなため息をつかれた。
目の前でそんな風にされると多少嫌だ。
「何だ」
「いや、お前もいい加減無頓着だよな。そろそろ身を固めてもいい年だろう?」
「そうか?」
「そうだっての。エルはとっくに結婚してるっつーに、兄貴のお前がふらふらしてんなよ。いざとなればよりどりみどりだっつーに」
「そうか?」
「そうなの!」
ぶつくさぶつくさ言い続ける青年に、苦笑しながら別れを告げ、ジェド探しに戻る。正直なところ、自分が結婚というのは考えたこともない。エルとローヴェ。共に育ってきた2人が幸せになれば、それでよかった。それだけがエンの望みだったと言ってもいい。まだエンがエンでなかったころ、彼らは幸せとあまりにも遠い場所にいた。自分が彼らに与えられるものはほとんどなくて、ただ一緒にいることすら出来なくなって、それでも、望んでいた。願っていた。彼らが幸せになることを。絶望など忘れてしまうことを。
願って、願い続けて。
エルを縛り続けたあの一族の崩壊によって、ようやく彼女は開放され、共にすべてを捨て、3人で生きることを始めた。
幸せだと、思える今になるまではひどくひどく長かったが、ようやく、ここまで来た。
だから。
もしも、誰かがそれを邪魔しようというのなら、自分はまた戻るのだろう。エンでなかった頃の自分に。
誰もいない場所に来て、軽く、息を吸う。
吐いて、吸って、全身に酸素を送り込む。
全身を緊張させ、神経を張り詰める。目を瞑り、風と一体となるように、気を張り巡らせる。どこかではチャクラと呼ばれていたそれを、大気に這わせ、ジェドの気配を探る。
「―――森の中、か」
何故そんなところに、と思わなくもないが…気にするだけ無駄だ。
呟いた次の瞬間には、僅かに動く空気を残して、エンの姿は消えた。音もなく、静かに、静かに。
ジェドの居る場所を見つけ、木から下りる。ゆっくりと歩いていけば、まるで先ほどまでのエンのように、目を瞑り、静かに大樹に身体を預けるその姿。砂色の髪が、ふわりと風にのり、同時に、薄く、瞳が開く。現れた翠の瞳は、どこまでも冷めていて、落ち着いた表情。遠くを見ているような、冷たくも、温かくも見える、不思議なまなざし。
「ジェド?」
「…………エン、か」
「エルが呼んでいる」
「そうか。それは探させてすまなかった。」
軽く笑ったジェドに首を振って、背を向ける。後ろからついてくる気配を感じながら、道でない道を行く。
「エン達は、ここの村の出身じゃないんだな」
「……そうだな」
「出身はどこなんだ?あ、私は砂な。色素が薄いだろう?」
「そうだろうな」
大体そうだろうと予想はしていた。だからただ淡々と足を進める。
「お前は木の葉か?雲か?」
「…木の葉だ」
「そうか。木の葉だったのか。ローヴェとはそこで会ったのか?」
「そういうことになるな」
「ローヴェとエルは結婚しているそうだな。仲が良くて、素敵な夫婦だ。お前はしないのか?」
「………しない」
何故今日はこんなことばかり言われるのだと、微妙な疲れを覚える。そんなに結婚していないとおかしいのか。
…大体。
「お前は、していないのか」
「はぁ?………私が、か?…ふむ。………居るには、居たな。もう大分前のことだが」
予想外の言葉に、目を丸くする。確実に、していないと思っていた。
「…こら、そんなに意外か」
「………いや」
「………まぁ、そうだな。所詮はただの政略さ。愛などないし、私がこうして旅をするのも承知の結婚だ。今頃は恋人でもこしらえているだろうな」
くくっ、と笑って、ジェドはエンの服をつかむ。
「どうせ結婚するならお前のような男が良かった」
「…冗談を」
「冗談だと思うか?」
不意に見たその瞳は、深く、様々な色合いをたたえてエンを見ている。複雑怪奇なその色合いを理解しようとは思えなかった。ただ、近づいたジェドの翠の瞳に、引き込まれる。
軽く唇を合わせ、その感触を確かめるようにして、もう一度。
長くも短くも思える、その一瞬だけは、すべてを忘れて感情に身を委ねる。
「ふふ。こういうのも密会みたいで楽しいな」
「…冗談じゃない」
「そうだな。冗談じゃない」
ジェドの、これまでに見たこともないような、鮮やかな、本当に嬉しそうな、その微笑み。何か考えるよりも先に、もう一度唇を奪う。前よりも深く、奪いつくすように。絡めとる。
「―――っあ。…エン?」
「………行くぞ」
小さな言葉に、ジェドは笑った。笑ってしまう。エンと居ると、どうしても。
無愛想。無口。感情は読めない。よく知らなければ、冷たいように見えるし、近寄りがたい。けれど、優しい。
共に居て素直に楽しいと、そう感じる存在。
「私は、結構お前が好きだよ」
「………そうか」
「あ、照れてるだろう」
「違う」
「はは。当たりだ。お前結構照れ屋だな」
「………そんなこと、言われたことなどない」
「皆言わなかっただけだろう。エルもローヴェもきっとそう思っているさ」
「…そうだろうか」
「きっとそうだ。何なら今度聞いてみるか?」
「……………」
エンの森を掻き分ける速度が上がった。笑ってそれにジェドはついていく。
初めて会った時のように。
一週間しかまだ経っていなかった。けれど一週間も経ってしまっていた。
着々と時は過ぎて。
「あと、少し」
呟く。
先を行く、エンの耳には届かぬように。
あと、少しだけ。
「エン、手を繋ごうか」
「…は?」
「言葉通りだ。手を繋ごう」
「…何故?」
「私が、繋ぎたいからだ」
にっ、と笑って、強引にエンの手を取る。小さなぬくもりを離すのも惜しい気がして、そのままにする。手を繋ぐのなどいつぶりだろうか?エルとはよく繋いでいたし、ローヴェともあった。けれど、2人が次第に大きくなって、互いに互いが必要になってきたころから、自然と止めた。寂しいと思ったことはないが、ひどく、懐かしい。
「ふふ。こういうのもいいな」
「……そうだな」
そのまま2人、村に帰って、ローヴェに冷やかされたりエルに微笑まれたりして、けれどもそれも幸せだと、そう思った。
崩れることのない幸せだと、思っていた。
この村はあまりにものどかで。緩やかに時は過ぎる。
だから。
なんの理由もなく、すべてがうまくいくように思えてしまうのだ。
けれど。
終わりはやってくる。
どんな出来事にも、静かに、静かに……確実に。
まず、エルが気付いた。今は黒い、その瞳。一瞬にして乳白色の、白き瞳孔のない瞳が現れる。2年間、この村にたどり着き、落ち着いてからはほとんど使われることのなかった木の葉の秘宝。『白眼』と呼ばれる血継限界。
「エルっ!?」
「エン、ローヴェ、忍の気配がする」
「…っっ。なん、だと」
「数、30。あれは…雲隠れ。村に向かっている」
エル、と呼ばれる少女は、"エル"に有り得ない鋭い瞳で、すべてを見透かす。最早、彼女と後一人にしか残されていない、血の、力。
「…来る前に、消す」
「その通り」
すぅ、と、エンの瞳が細まる。かつて、よくしていた表情。
冷たく、感情のないような、凍りついたような瞳。
「エン」
言葉と共に投げられた刀を受け取り、頷く。
「エルは村の守りを、ローヴェ、行こう」
「ああ」
「…気を付けて」
「行ってきます」
「行ってくる」
帰ってくる場所は、ここしかない。
小さく笑って、頷きあった。
「終わり、だな」
呟く。
時間はもうない。
むしろこれだけの時間がよくあったものだ。
己の武器に手を伸ばす。目の前に、敵がいるのは分かっていた。すでに罠も仕掛けておいた。幾つかはもう発動していることだろう。
身軽な忍装束。ここでは着たくなかった。いや、常に身に付けてはいたが、決して誰にもばれたくはなかった。
「来た」
風が舞う。術は使わない。チャクラの動きで感づかれるから。
鉄の扇。
使い慣れた己の武器。
決して大きくはない。普通の扇と同じ大きさ。誰も武器とは思わないだろう。けれど。自分にとっては何よりも大切な、命を預けられる物。
暗闇に乗じ、背後を取る。そんなに強い相手ではないことは承知の上。鉄扇に仕込んだ刃で頚椎を貫く。忍の身体が崩れ落ちるよりも先に飛びのき次の獲物へ向かう。これは、狩りだ。すべての獲物を刈り取る飢えた獣が自分。今この手が奪った儚い命は哀れな獲物のもの。
小さく、笑う。
―――さぁ。
楽しませておくれ。
この場所が、私の居場所。
認めたくはないが、これが本当の自分。誰よりも血に飢えた、一匹の獣。
幾つもの命を刈り取り、ようやく獲物は気付く。自分の存在に。
気付いたのならもう隠す必要はない。チャクラを練りこみ、風を刃に変える。ただの風としか思えないそれらが通過するたびに、忍の身体を切り裂いていく。血しぶきが舞い散り、まるで花びらのように地を濡らす。
嵐の中心で、気付く。
紛れ込んだ異分子。
「―――…ジェド」
「………エン」
どうやって、この切り裂く風の刃を切り抜けたのか。それを知りたい気もしたが、彼が、彼女の知る彼であるのなら、それは不可能ではないだろう。天才と呼ばれ、幼くして自分の一族を皆殺しにし、"暁"と呼ばれるS級犯罪者の集団へと仲間入りをした彼ならば。
「悪いな。"ジェド"のままでいられなくて」
「………………テマリ、か」
「まぁ、そうだな」
言うと同時、風が勢いを失くし、一気に消失する。
「後はナルトが片付けてくれるだろう」
「………何故」
「何故、騙したか?」
「………………」
「私は、"ローヴェ"も"エン"も"エル"も知らない」
騙したのはお互い様。真実を晒さぬ相手に真実を晒す必要などなく、それ以上に、彼らの生活に波風を立てたくはない。
「ここに来たのは偶然。けれど必然かもしれない。雲隠れが不穏な動きをしていた。動向を探っているうちにこの森に行き当たった。砂の上層が、とある者たちへ差し向けた刺客との連絡が途絶えた場所」
テマリは"エン"に背を向ける。誰の生活を壊す気もなかった。けれど、ずっと気になっていたその真実を、確かめずにはいられなかった。
「嬉しかった。生きていた。生きていてくれた。……それが知りたかった。ずっと」
「……ヒナタは、テマリと親友だったと、同じ里の誰よりも近く、誰よりも理解をしてくれる人だったと……」
「ふふ。嬉しいな。私もそう思っていたよ。ナルトもヒナタも幸せになって欲しいと思っていた。だから…2人を近くで見れて嬉しかった。生きているだけで嬉しいのに、こんなにも穏やかに生活しているなんて…信じられないくらいの幸福だ」
出来るなら、ずっと一緒にいたいと。その幸せそうな笑顔を見守りたかった。
―――それから。
この、無愛想な、名前しか知らなかった相手のことを、もっと、もっと知りたかった。共に居たかった。
「………帰るよ。砂に」
小さな呟きに、エンは眉をしかめる。
「…他の女がいる、男のところにか?」
「はは。それは仕方ない。帰る場所は、もうそこしかないんだ」
「……何故」
「私には、出来ないよ…"うちはイタチ"。弟達を切り捨てることも、里を捨てることも」
「…テマリ」
感傷を振り切るように、テマリは首を振る。
「楽しかった…。けれど、時間切れだ。砂が不信に思わぬうちに帰るよ」
くるりと振り返って、テマリは笑う。既に見慣れた、"ジェド"の笑顔。砂色の髪がふわりと舞う。
とっさに伸ばした腕がテマリの手を掴むより先に、風が吹き荒れた。
一陣の風が吹き、同時に、テマリの姿は消え去っていた。
それは、あっという間の出来事。
本当に、ただの一瞬の…。
そうして、ジェドと名乗る旅人と、エンとエル、そしてローヴェの奇妙な共同生活は幕を閉じたのだった。
「……"楽しかった"…か」
沢山の足かせを捨てた者。
沢山の足かせを捨てられなかった者。
「イタチ」
「………ヒナ?」
「ジェドは、言ったよ。『エンと居ると楽しい。エンと居ると気持ちが落ち着く』そう言って、笑った。………ねぇ、イタチは?」
「……分からない、な。」
「嘘つき。ジェドもエンも似ているね。…嘘ばっかり」
楽しそうに笑って、ヒナタは何かを差し出す。反射的に受け取って、それが何か気付いた。イタチがここに来たとき持っていた、旅道具。2年間しまわれたままだった、それ。
「帰る場所は、ここだよ。テマリにとって、ここは帰る場所にならないかもしれないけど、ほんの少しでも寄り道できる場所だといいよね」
「…………ヒナには、敵わないな」
自然、笑みが零れる。
テマリにとって帰る場所は別にある。
だから、ここは彼女の帰る場所には成り得ない。
けれど。
ほんの少しでも安らぐことの出来る場所になればいい。
それだけの、話。
簡単な話だ。
だから。
「……行ってくる」
「行ってらっしゃい」
彼女に会いに行く。
2006年10月8日
『絶望と幸せの在り処』と『手に入れた幸せ』の後日談。
イタテマなんてかなり異例のカプだけど、楽しかったです。前々から書いてみたかったし。
…もうオリジと言ってもいいんじゃない?レベルでNARUTOからかけ離れちゃってる…。