「お願い!送ってって!遅刻しちゃう」
彼女がそう叫びながら家に飛び込んできたのは、朝7時のことだった。
雨の報酬
今日は朝から大雨。
雷も鳴っていたけれど、僕の通う大学の講義は午後からなので慌てる必要はない。
それでも外に出たくないなーとか思いながら歯を磨いているときに、彼女が飛び込んできた。
彼女は僕の10数年来の片思いの相手。
このあいだ付き合いはじめたばっかりの幼なじみだ。
いつになく慌てた様子の彼女に僕は言った。
「ほへ、へんひゃは?」
「電車?この大雨でとっくに止まってるよ!」
口に歯ブラシを突っ込んだまましゃべる行儀の悪さに眉をひそめながら彼女が答える。
僕は口の中のものをちゃんと吐き出してから、彼女に言った。
「学校に電話すれば遅れても大丈夫なんじゃないの?」
そう、彼女の通う高校は駅で証明書さえもらえれば、事前連絡で公欠扱いにしてくれる。
僕も通っていた高校だからそれは確実だ。
でも彼氏としては少々冷たい言葉だったかもしれない。彼女は顔をしかめて言った。
「今日テスト」
「あ…」
やることさえやれば大抵のことは自由にさせてくれる。しかし、この高校はテストなんかにはとことん厳しかった。
電車が止まってしまったんだったら考慮はされるだろうけど、1時間目のテストは確実に追試だろう。
先生も、電車が止まって遅れた生徒のために問題を作り変えなくてはならないのだ。
そして、追試は試験休みに行われる。
でもその日、僕と彼女は映画を見に行く約束をしていた。
言外に、お前のためだという視線を向けられて、僕ははぁぁ〜〜と息を吐いた。
外にはあまり出たくはないけど、愛しい彼女のためなら仕方ない。
「車で送っていくよ」
「やったぁ!」
ため息交じりの僕の言葉に、彼女は両手を上げて喜んだ。
「…着いたよ」
雨の日の道路は渋滞していて、学校に着いたのはギリギリの時刻だった。
ロータリーで車を停めて、僕は参考書を読んでいた彼女に声をかけた。
慌てて参考書を鞄にしまう彼女。よっぽど集中していたのだろうか。
傘を持って車から降りようとして、彼女の動きが止まった。
こちらを振り向いて、なんだか躊躇うように視線をおよがせる。
「どうしたの?」
不思議に思って問いかけると、なぜだか彼女は真っ赤になった。
なんだろうと見ていると、不意に襟首をつかまれる。
引き寄せられて、唇に柔らかい感触。
「ありがと。じゃねっ!」
はっと気づくと、彼女はドアを閉めて走り去っていくところだった。
遠目でもはっきりと分かるほどに耳が赤い。
触れられた唇を押さえて僕はハンドルに突っ伏した。
……やられた。
顔がにやけてくるのを止められない。きっと僕の顔も赤いのだろう。
嬉しかったのも、事実だけれど。
恥ずかしがってる君と、君からのキスが雨の日の、僕への報酬。
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