妻からの手紙
「デイジー、この手紙を急いでイングランドの工場長へ届けてくれ」
「はい、旦那様」
私は旦那様から受け取ったお手紙を銀のお盆に載せて、配達の手配をしようと廊下に出ました。
これは執事のハディソンさんにお願いしたほうが早いかもしれませんね。
通りがかった召使に居場所を尋ねると、彼は外出の準備をしていたとの事。もしかしたら、出かけられるのかもしれませんね。一緒に郵便局へ行ってもらえたら、助かるのですけど…。
あ、申し遅れました。
初めまして、私はデイジー。デイジー・アトラス。このお屋敷…カリプトン男爵のところで、男爵の事務補佐として働かせていただいてます。
事務補佐っていうか…書類の整理とか、お手紙を出したりとか、資料をお探ししたりとか、そういう感じのことをしてます。本当は、男性の方がするものなのですけれども、男爵は人手が足りないからという理由でフランス語ができるだけで私を採用なさいました。始めは戸惑いましたが、今ではとても感謝しています。
旦那様は御年50歳。髪にも少し白いものが混ざり始めましたものの、まだまだ行動的な御仁です。ご家族は奥様と、晩年にお生まれになったご子息が2人。それぞれ10歳と8歳の、とてもお元気な男の子です。
そんなカリプトン男爵、社交界ではちょっと変わった人として有名です。
まず、徹底した実力主義なこと。女である私が事務補佐をしているように、世間の常識とか体面をあまり気になさいません。必要な人材と旦那様が判断された人は、たとえどんな身分であろうと受け入れる方なのです。
そして、非常な愛妻家としても有名です。病弱な奥様を気遣い、大切になさっているご様子は使用人の我々から見ても大変微笑ましく、嬉しいものです。2人のお子様も、そんな旦那様と奥様の愛を受けて素直にお育ちです。
……そんな風にご家族を大切にしている旦那様だからこそ、きっと奥様と一緒に避暑地へ行きたかったに違いありません。
病弱な奥様のために、毎年夏にはご家族で避暑地に行かれるのですけれども、旦那様だけ今年は行けなかったのです。
……旦那様の事業が、思わしくなくて。
ご家族思いの旦那様は、奥様とご子息2人だけ避暑地に向かうよう仰いました。
すぐに終わらせて追いかけるよ、と笑ってらっしゃいましたが、事態は一向に良くなりません。
もう1ヵ月、旦那様もかなりお疲れのご様子。せめて奥様がいらっしゃれば、旦那様が心安らぐ時もあるかもしれないのですけれど……。
「ミス・アトラス、そのまま行くと花瓶にぶつかりますが。倒さないで下さいね」
「あっ!」
横からかけられた声に、はっとして立ち止まるとすぐ目の前に大きな花瓶がありました。
危ない、危ない……このままぼーっと歩いていたら花瓶が乗せられた台ごと倒すところでした。
「何を考えながら歩いていたのかは知りませんが、気をつけてくださいね」
そう言って去っていこうとするその姿は、探していた執事のハディソンさん!
「あっ、待ってください!」
「なんですか?」
立ち止まって振り返った彼は、ひと筋のほつれもないオールバックに無表情の、これぞ執事!って感じの人です。そう、執事たるものいつでもポーカーフェイス!
ちょっと、怖くて近寄りがたい感じがしますが、意外にいい人です。
「あの、もしも外出なさるんでしたら、この手紙を郵便局へ持っていってもらえませんか?」
普通なら召使風情が使用人の取りまとめ役である執事さんにこんなこと頼んじゃいけないのですけど、ハディソンさんは引き受けてくださいます。
案の定、彼は私が差し出した手紙をためつすがめつした後、頷きました。
「急ぎの手紙ですね、いいですよ」
銀のお盆から旦那様の手紙を受け取ったハディソンさんは、代わりに別の白い封筒をお盆の上に置きました。…いえ、良く見ると封筒には繊細な薔薇の模様が描かれていて、とても優美な感じです。
そして見覚えのある宛名の筆跡。…これは、もしかして。
「避暑地の奥様から、旦那様へのお手紙ですよ」
食い入るように手紙を見つめている私の疑問に答えるように、ハディソンさんが仰いました。
「さっき届いたのです。旦那様へ届けていただけますか?」
「はい、喜んで!」
この手紙で旦那様は元気になるかもしれません。ハディソンさんは無表情で頷いて、去っていきました。
「旦那様、少しご休憩なさいませんか?お茶をご用意しました」
奥様からの手紙と共に書斎へ戻ると、旦那様は資料をめくりながらなにか書き物をされていました。
「そう…だな、運んでくれるか」
旦那様は最後の一文をさらさらっと羊皮紙に書き綴ると、かつっと羽ペンをペン立てにさしてゆっくりと立ち上がりました。
とてもお疲れのご様子です。ゆっくりと立ち上がる身体は重たそうで、眉間には皺がよっています。
私はソファにどさっと座った旦那様の前に、手紙が乗ったお盆を差し出しました。
「どうぞ、奥様からのお手紙です」
「アンナからのか…?」
ちょっと目を見開いて、それでも少し嬉しそうに旦那様は封筒を手にとりました。
手紙を目にしただけで、旦那様の目が生き生きと輝きだしたような気がいたします。
旦那様は宛名と差出人の署名を愛おしむように見つめた後、ペーパーナイフで丁寧に封を切りました。
中の便箋にざっと目を通し、それを私に差し出されます。
「デイジー、すまないが読んでくれるか」
「えっ!?私なんかがよろしいのですか?」
夫婦の私的な手紙を使用人が読んでしまってもいいものなのでしょうか。
「早く読みたいのだが少し…目が疲れた。頼む」
「は、はい」
頼むとまで主人に言われてしまっては頷くほかありません。私はおずおずと差し出された便箋を受け取りました。
『親愛なるあなたへ
お体は大丈夫ですか?あなたのことだから、きっと無理をしているのではないかと思います。私が見張っていないからといって、食事も睡眠もさぼってはだめよ?
こちらは私も息子達も元気です。息子達は特に、狩りや釣りにと元気一杯です。ことあるごとに、ここにあなたがいればと思わずにはいられません……』
奥様のお手紙は、お子様方の様子を記した後、もういちど旦那様の健康を気遣う言葉で締めくくられていました。
読んだ私までなんだかじーんとしてしまったほど、穏やかで思いやりと愛情に溢れたお手紙でした。
読み終わった後、目の端に光るものをにじませた旦那様がそっと手にした封筒にくちづけるのを、私は感動しながら見ていました。
貴婦人の手の甲にくちづけるかのように恭しいくちづけは、手紙を書いた奥様への愛と感謝に溢れていたのです。
そして、休憩を終えて立ち上がった旦那様の目には力強い光が戻っていました。
すべては、奥様の手紙によるもの。……素敵です。
旦那様と奥様は、私にとってはまさに理想の夫婦像。
いつか私も、御2人のような信頼し、愛しあえる夫婦となりたいものです。
ね、ハディソンさん?
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