今更、帰れはしない…そう、彼は思った。
立身出世を夢見て、故郷の家族が止めるのも構わず家を出てきたのは1年前のこと。
都会に出てきた彼は、事業に成功していた叔父のもとで地道に働いてきた。
給金は充分とはいえなかったが、貧しいながらも希望に満ちた生活だった。
恋人もできた。けして美人というわけではなかったが、気立てが良くあれこれと彼の世話を焼いてくれた。
そんな生活が続いたのもたった半年間のことだった。
叔父の事業が立ち行かなくなり、路頭に迷ったのが半年前のこと。
それから彼は、必死に働いた。
どんな重労働でも引き受け、寝る間を惜しんで働いた。
その無理がたたったのだろうか、彼は病気にかかってしまった。
医者に見せる金もなく、ただベッドに横になって天井を眺める毎日。
今更に、望郷の想いがこみ上げて彼は両親に手紙を書いた。
書いたのは、半年前までの自分のこと。
都会に出てきて叔父のもとで働いていること。
裕福ではないながらも充実した毎日を送っていること。
恋人ができたこと。
……今更、帰りたいとは言い出せなかった。
それ見たことか、と嘲笑されるような気がしたからだ。
「小包が届いているわよ、ご両親から」
恋人が持ってきたのは、一抱えほどの故郷からの荷物。
開けてみると、ふわりと香ばしい香りが漂ってきた。
「パンだ…」
小包に入っていたのは、いたまないように少し硬めに焼き上げてある懐かしい故郷のパンと、一通の手紙。
手紙には、都会で頑張りなさいという父からの励ましと、帰ってきたい時にはいつでも帰ってきていいのだからね、という母からの言葉。
両親の心遣いに、視界がゆがむのを感じながら、切り分けてもらったパンを食べた。
何か木の実でもはいっているのだろうか、パンに混ざった歯ごたえが好ましい。
恋人と一緒にパンを食べ終えた彼はその日、久しぶりにぐっすりと眠った。
今度の手紙には、本当のことを書こうと思いながら。
しばらくして、彼はベッドからすら起き上がれなくなってしまった。
そんな彼にも、彼の恋人は何くれとなく世話を焼いてくれた。
そして母からの小包も、頻繁に届くようになった。
「また小包が届いているわよ、あなたのお母様から」
きっとまたあの美味しいパンよ、と明るく笑う恋人。
だが彼は気付いていた。彼女が無理して明るく振舞ってくれていることを。
このところ自分の身体が重く、腕を持ち上げるのすらつらい。
常に倦怠感がつきまとい、母が送ってくれるパンですらそのままでは噛み切れないほど彼は弱ってしまっていた。
パンと一緒に送られてきた母からの手紙には、今度そちらに行きます、と書いてあった。
「はい、どうぞ」
差し出されたのは、野菜を柔らかく煮込んだスープと母のパン。
硬いパンを、スープにひたして柔らかくして食べるのだ。
病気になってからすっかり食が細くなってしまった彼も、母が送ってくれる木の実入りのパンだけは残さず食べきることができた。
ただ、パンに入っている木の実だけは、噛み砕けずにそのまま飲み込む。
噛む力も衰えているのだから、木の実をぬいてくれればと思うのだが、彼の母親は必ずパンに木の実を入れてきた。
これが入っていないと、意味がないのだとでもいうかのように。
柔らかいものをゆっくりとしか食べられなくなってしまった彼を、彼の恋人は見つめる。
共にいられる時間がもう残り少なくなってしまっていることに、彼も彼女も気付いていた。
深夜、彼は眠るように息を引き取った。
一人きりで。
朝、彼の恋人がやってきたときには、彼の身体はすでに冷たくなってしまっていた。
朝日に照らされたその顔は、やつれてしまってはいたものの穏やかだった。
彼女は、穏やかに眠る恋人の横で静かに泣いた。
彼の葬儀は、近くの教会で行なわれた。
ささやかなそれに参列したのは、彼の恋人と、数少ない友人と、彼の叔父。
彼の両親は、間に合わなかった。
そして墓地の準備が整うまで、彼の遺体はその教会に預けられることとなった。
それに最初に気付いたのは、教会の神父だった。
遺体から生える、色鮮やかな緑の芽。
薄暗い安置室で、それは蝋燭の火をうけてつややかに。
神父の連絡で駆けつけた彼の恋人と叔父は、恐れおののいた。
遺体から植物が生えることなど、彼らの街ではありえないこと。
遺体の種を植え付けてその死を悼むのは、死んだ青年の村だけの風習だったから。
ただ、彼の叔父は聞いたことがあったのだが。
そして初めて見るその光景に震えながらも、彼は呟いた。
いつ、その種を植えられたのだろうか、と。
彼の遺体はその日のうちに共同墓地へと葬られた。
彼の遺体から生える緑の芽を、誰もが見ていたくはなかったのだ。
当然、両親は間に合わず、冷たい墓標と対面することとなった。
気落ちした両親は墓に花輪を捧げ、今まで世話をしてくれた恋人に丁寧にお礼をして、1ヶ月後にまた来ます、と言った。
なぜ1ヵ月後なのかと彼女が問うと、母親はにっこり笑ってこう言った。
その頃にはきっと、株分けできるくらいには育っているでしょうから、と。
1ヵ月後、彼の墓には小さな白い花をつけた、つややかな緑の蔦が巻きつくように育っていた。
それは、神父らが見たあの緑の芽が成長した姿。
彼の遺体を養分として、その緑の蔦はたくさんの白い花を彼の墓に添えた。
「立派に成長したわね」
1ヶ月後、墓を訪れた彼の母親は言った。
「これで、連れて帰れるわ。さぁ、お母さんと一緒に帰りましょう」
そして彼女はシャベルを使って土を掘り、白い花の根を包んで持ち帰った。
彼が帰りたがっていたに違いない、故郷の村へと。
|