「お、お久しぶりです…」
自分に向けられたその声に、月を眺めていた少年は振り返った。
少し息をきらしながら舞い降りてきた少女は、うれしそうに顔をほころばせた。
「また、会えてうれしいです」
少年が背にしている月は、これ以上ないほど見事な満月。
真夜中の犯人探し
いまから1ヶ月ほど前の、やはり満月の日。
小夜という少女が、1人の少年と出会った。
静かに月を眺めるその少年は、人の姿をしてはいるものの、人在らざるモノ。
そして小夜も人ではあるものの、普通ではない存在を抱えた人間であった。
「私と会う度に落ちているような気がするが、お前は」
よっぽど急いで来たのだろうか、へたり込んで息を整えている少女を横目で眺めて、少年は訊いた。
「普段からよく落ちるのか?」
「ええ?見てらしたんですか?」
かああ、と少女の顔が赤くなる。
「見えた。踏まれたところが」
「踏まれた?」
赤かった頬もどこへやら、きょとんとした表情で小夜が聞き返す。それを見て彼は気付かなかったのか、と舌打ちした。
踏まれておきながらそれに気付いていないとは、鈍い。
「や、あの、飛んでいたらいきなり背中に衝撃が………。気付いたら下に落ちていて」
突然舌打ちした少年に怯えてしまったらしい、逃げ腰で言葉を紡ぐ少女の目にはうっすらと涙が溜まっていた。
へたり込んだままの少女の全身をざっと見て、少年は軽いため息をついた。
空を飛んでいる途中に墜落したにしては大した怪我もなさそうなのは、彼女に憑いている2匹の努力のたまものだろうか。
「おい、デュラとやら。踏んだやつは見たのか?」
「いや。上から踏まれたし」
このままでは埒があかないと、宿主思いの2匹のうち1匹を呼べば、帰ってきたのは困惑気味の声。
視線を向ければ、小夜の左手をかりて具現化した悪魔が困ったように頭をかいていた。
「小夜が見てないんだから、あたし達が見てるわけないじゃないか」
偉そうにそう言いながら小夜の右手をかりて具現化したのは天使のクリス。
彼らがこの、小夜という人間が抱えている普通ではない存在である。
彼らを自らにすまわせてやっているかわりに、小夜は彼らの力を少し使うことができるらしい。
小夜が背中から羽を生やして飛ぶことができるのも、彼らの力を借りているから。
この奇妙な共生関係は、少年が彼女と知り合う前から続いていて、しかもうまくいっているらしい。
彼には理解できない話である。
「あ、姿は見てはないけど声なら聞いたよ」
小夜はすぐ気絶して目閉じちゃったから、見えなかったけど耳は聞こえてたもんなー。
「なー」
と、頷きあう天使と悪魔は、世間一般の印象に反して妙に息が合っている。
そんな2匹を、話題の主である小夜が微笑ましげに見つめていた。
別に私は踏まれたことなんてなんとも思ってないのだし、と少女は言った。
犯人探しなんてことで、あなたの手をわずらわせることなどできない、と。
だが、何か引っかかる。
少年は、まだ人間だった頃から一族のリーダーとしての役割を強制されて生きてきた。
それを嫌だとか、重荷だとか思ったことは一度もないが、その生き方が染み付いてしまっているのは確かだ。
だから、この引っかかりはリーダーとして身内を守るという義務感から来るものかもしれないし、少女を踏んだ人物に心当たりがあるから来るのかもしれない。…彼自身にも、よく分からない。
少年は小夜を踏んだ人間を目撃していた。
遠目だったから、断定はできなかったのだがデュラとクリスの話でさらにその確信を深めることとなったのだ。
彼らの話では、それは青年と少女の2人連れ。
その口調や話していた内容を、デュラとクリスはとてもよく覚えていた。
加えて、ビルとビルを跳んで移動していたことや、遠目で見た印象から…おそらく、加害者は夜の眷属。
その条件にぴったり合う人物を、不幸なことにも彼は1人、知っていた。
「よー、お前がコンビニ来るなんて珍しいじゃん」
そこは、真夜中でも煌々と明るいコンビニから少し離れた暗闇。
人間に見つからないよう木の影に隠れていた少年を目ざとく見つけ、手を上げて挨拶しながら近づいていたのは、長身に黒いスーツを軽く着崩したホスト風の男。
少年が夜間学校に通っていた頃に知り合いになった、吸血鬼ウルス。
「お前に訊きたいことがある」
前置きなしに向き直って言った少年に、ウルスは芝居がかった仕草で眉を上げてみせた。
「なに、ショタ坊。あらたまっちゃって」
「ショタ坊言うな」
「んじゃショタっち」
「ショタっちでもない」
「授業で配られたショタの雑誌をあんたが真剣に読みふけっていたのは忘れられない思い出よ?」
「忘れろ。そんなもの」
顔をしかめて無理やり話題を打ち切った少年は言った。
「踏んだだろ」
ぎく、とウルスの体が強張る。
「えーなんのことー?」
白々しく笑うウルスの顔には汗が一筋たらり。
つくづく芝居がかった男である。
「安心しろ、被害者は怒ってない」
人間風に言うなら不起訴ってとこだな。
そう続けると、ウルスは大きな安堵のため息をついて力を抜いた。
「見てたの?」
「ああ」
踏んづけときながら放置はないだろう、と言えばウルスはくしゃりと顔をしかめた。
「あー、やっぱしまずかったかー」
「当たり前だ。謝っておけよ」
「えー、怒ってないんだったらいいじゃん」
「謝れ」
重ねて言うと、頭をかきながらへいへい、と気のない返事をされた。
これでは謝りなどしないだろう。
ウルスは自分が何を言っても従いなどしない。
まぁ、それでもいい。
なんにしろ、彼女に危害を加えた人物が誰だかはっきりしたのだから。
胸を閉めていたもやもやがすっきり晴れて、少年は傾きかけている月を見上げた。
太陽が顔を出すまで、あと少し。
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