彼は満足だった。 今日の獲物の血はうまかったし、月は美しくかがやいている。 彼はただ、人気のないビルの屋上でぼうっと月を眺めていた。 真夜中の邂逅 「えっ?ちょ、ちょっと…!わっ、た、助け…きゃぁぁぁぁっ!」 彼の静寂を壊したのは、そんな間の抜けた悲鳴だった。 それが遥か上の方から降ってきたことに驚いて、彼は振り向いた。 白っぽい何かが錐もみ状態で落ちてくる。 驚いたことにそれは、白い服を着て、白い翼を生やした少女だった。 彼がいるビルの屋上めざして落下してくる少女を呆然と見上げる。 あの高さから人間が落ちれば、確実に死ぬ。 受け止めなくては死ぬと思うのに、身体が動かなかった。 彼が見上げる中、少女はなんとか落下を止めようと背中の翼を羽ばたかせる。 切羽詰った叫び声が聞こえた。 「落ちる!おーちーるー!!お願いクリス、何とかしてー!!」 自分の名前はクリスではない。 他に人も見当たらないのに、いったい誰に頼んでいるのかと彼は不思議に思った。 騒ぎながら落ちてきた少女は、床に激突しそうになるところで急停止した。 ふわりと浮いた少女は、気が抜けたのか床から1m程のところから再び落下した。 …どさっ 「〜〜〜〜っ!」 先ほどのような高い場所から落ちるよりははるかにマシであるわけだが、少女は顔面から落ちたらしく、鼻を押さえてうずくまる。 「…大丈夫か?」 言って彼は、自分でも驚いた。 なぜ。普段の自分なら、こんな少女とは関わり合いになりたくなくて、黙って立ち去っていただろうに。 「あっ…」 彼の言葉に、ようやく他に人がいたのだと気づいた少女は鼻を押さえてうろたえた。 落ちたのを見られたのが恥ずかしかったのだろう、耳まで赤い。 「あ、あのですね、私はけしてあやしいものではなく、ただ散歩をしていた普通の人間でして…」 「普通の人間が夜、空の散歩をするか?」 意地悪く問うてやると、少女はいささかむっとした。 「じゃ、じゃぁ真夜中に廃ビルの屋上に1人でいるあなたは普通じゃないんですか?」 「俺は吸血鬼だからな。食休みをしていたところだ」 彼女の言葉に答えてまた驚く。なぜほいほいと素性を明かしているんだ、俺は。 「吸血鬼!?じゃあ、この子の血を吸うのかい!?」 「ばぁーか、今食休みだっていったろ。腹が減ってないのに食餌なんてしねえよ」 突然聞こえた声に 驚いてあたりを見回す。ここには俺と目の前の少女しかいなかったはずだ。 ふと見ると、少女が心底困った顔をして胸の前に出した手を見ていた。 …いや、手ではない。彼女の両手には、それぞれ操り人形がはめられていた。 子供向けの人形劇で使う、アレだ。右手の人形は天使、左手の人形は悪魔に見える。 始めは腹話術を使った1人芝居かと思ったが、どうやらそうではないらしい。 両手の人形は喧々囂々と喧嘩をしている。そう、同時にしゃべっているのだ。 夜目がきく彼には、人形の表情が動く様子まで容易に見て取れた。 「なんだ、それは」 彼の言葉に少女は喧嘩している人形をそのままにして答えた。 「あ、私に憑いているクリスさんとデュラさんです。2人のおかげで空の散歩ができるんですよ」 彼女がしゃべっている間も人形の喧嘩は続いている。どうやら本当に腹話術ではないらしい。 不思議なこともあるもんだと彼は感心した。 そうして黙って眺めていると、少女がおずおずと彼に話しかけた。 「あ、あの。本当に吸血鬼さんなんですか?お名前は?」 「人間に教える名前はない」 そう答えると、少女は寂しそうな顔をした。 「ご趣味は?」 「別に」 「あ、あの、普段はどんな暮らしをされてるんですか?」 「昼寝て夜起きる」 「月、好きなんですか?」 「………」 見合いか?と思うほど質問攻めにされる。 いつの間にか、彼女の両手の人形も喧嘩をやめてこちらを窺っていた。 なんだか彼は馬鹿らしくなって、彼らに背中を向ける。 「帰る」 「あの!また会えますか?」 彼は、慌てて声を張り上げた少女を横目でチラリと見て言った。 「…ここで眺める満月は、格別だ」 少女はその言葉に、ひどく嬉しそうな顔をした。 「はい!」 どうしてその問いに答えたのか、彼自身にも分からない。 ただ、彼女といることでいままで感じたことのない穏やかな気持ちになったことは確かだ。 きっと次の満月、少女とまた会えるだろう。 ビルの入口で空を見上げると、屋上から飛び立つ黒い翼が見えた。 |
2005年7月3日 再び挑戦、吸血鬼もの。 彼は5月の拍手お礼に出ていた『避難訓練』のあのひとです。 おもむろに使いまわしてみました(笑) 少女は私が高校のときに考えたオリキャラ。 1人なのに、3人で会話できる変わった子です。 この設定を考え付いた時、だれかに「ギャグじゃん」とか言われた思い出があります。 …面白い設定だとおもったんだけどなぁ。 どうでもいいけど、1人称と3人称、ごちゃまぜ(泣) 読んでいただき、ありがとうございました♪ 浅羽翠 |