空はこんなにも高くこんなにも青かったのだと知った日がありました
日向家の一角…手入れなどなされていない森の一角に小さな小屋があった。
それを、うずまきナルトが見つけたのは偶然だった。
普段ならこんな場所に来ないし、来る必要はない。
ほんの少し興味を覚えて、足を向けた。
それは本当にちょっとした好奇心。
日向というのはとことん秘密主義で、本来ならこの場所を通る事すら許されていない。ただ、日向家を突っ切ればかなりの時間の短縮が出来るが、日向家を避ければ恐ろしく遠回りになるので、ナルトがそれを守る事は殆どない。
その超秘密主義の日向家が、森の中に隠した小さな小屋。
どんなお宝が隠されているのか、そう、ナルトは笑う。
その小屋は、本当に小さなものだった。
きっと中は3畳もないだろう。外から見る限り窓らしきものは見えない。
小屋自体は、何の変哲もないものだった。
そう、小屋、自体は…。
「……何だよ、これ…」
小さく、呟く。
既に忍として暗部任務をこなしているうずまきナルトという人間が、息を呑み、眉を潜める。驚愕、というのはこういう感情だろうか。
目に見えるほどのチャクラが荒れ狂っていた。
薄汚い小屋を中心にして、赤に、青に、黄色にと色づいたチャクラは小屋の中と外とをぐるぐると回り、暴れまわる。まるで台風のような有様でありながら、小屋はびくともしない。
近づいて、分かった。
それもそのはずだ。
小屋の壁という壁に刻まれていたのは、全て封印を示す術式だった。荒れ狂うチャクラの周りを囲う結界が、近くででも見ない限り、異常等など何もないように見せかけていた。
もし、一般人であったなら、この小屋を見ても何も気付かないだろう。
もし、下忍や中忍であったなら、この小屋の結界の中には気付かなかっただろう。
優れた力を有する忍のみが、その結界に気付き、そして、中のチャクラに気付く。
それだけ高度な結界だった。
ナルトは自分の周りに結界を張り、目の前の結界とチャクラの質を同化させる。チャクラを結界の種類と近づければ近づけただけ、進入はたやすくなる。
そうして結界をすり抜け、扉の前に立つ。
小屋の扉に触れた瞬間、全身に痺れが走った。これもまた侵入者に対する罠の一環なのかもしれない。自分の周りに結界を張っていたナルトはまるで気にせず、扉を開く。
術の障害さえ取り除いてしまえば、小屋はただの建物に違いなかった。
思ったよりもスムーズに開いた扉に内心驚きながらも、中の様子を探る。
小屋の中は、すっきりしていた。
薄暗い空間に視線を張り巡らせ、眉を潜める。
何もなかった。
これだけのチャクラがある空間に、何もないなんてあるはずがないのに。
これだけの術式で封印している場所に何もないなんてあるはずがないのに。
「………誰」
「―――っっ」
突然の声に、ナルトは動揺し、息を呑む。
気配なんて分からなかった。察知できなかった。
声の方向に視線を巡らせば、直ぐ隣にそれはいた。
長い黒髪、日向家特有の真白い瞳。
背は、うずまきナルトと同じくらい。
恐らくは、年もそう変わらないだろう。
艶やかな橙の着物を纏った少女だった。
半眼の瞳は、驚愕に身を強張らせたナルトを写していた。
「…お前、なんだ?」
少女が、チャクラの中心だった。
荒れ狂うチャクラの中で、少女だけが平然としていた。
気だるそうに、面白くなさそうに、どうでもよさそうに…そんな瞳で、少女はナルトを見ていた。
ぼんやりと開いた唇から、平坦な声が零れ落ちる。
「日向ヒナタ」
「………嘘を言うな」
「嘘なんて言っていない」
「嘘だろう。日向ヒナタは、お前じゃない。アカデミーで見た"日向ヒナタ"はお前じゃない」
黒髪で、目が白いのは一緒。顔もどことなく似ている。けれど、こんな強大なチャクラ、こんな質のチャクラを、アカデミーにいる"日向ヒナタ"は持っていない。
「…へぇ、アカデミーに行ってるんだ、今」
「お前…なんだ。何者だ…」
「だから言ったでしょう? 日向ヒナタ。私は日向宗家長女日向ヒナタ」
「………」
「信用してない? じゃあ証拠を見せてあげようか?」
日向ヒナタと名乗った少女は、くすりと笑って、ナルトに手を差し出す。動かないナルトを馬鹿にするようにして笑い続ける。
冷たい瞳だった。アカデミーの日向ヒナタでは有り得ない、冷め切った、感情の抜け落ちた瞳だった。
「証拠、だと…?」
「ええ。ほら、聞こえるでしょう? …人の、足音」
はっとして、振り向いた瞬間、強引に手を引きずられた。ナルトを小屋の中に引きずり込んだ少女は、音を立てずに扉を閉める。
扉の閉まった小屋の中は、ただただ暗かった。
真っ暗な世界で、少女の瞳が白く浮かぶ。
行動の意味を問い詰めようとして、確かに人の気配が近づいていることに気付いたから、ナルトは息を殺す。眉を潜め、何が起こるのか待つ。握られた手首が異常に熱かった。
うっすらと、少女の身体をチャクラの膜が覆っているのが見えた。恐らくは、それが理由。彼女の持つチャクラが、他人のチャクラを寄せ付けないのだろう。
その拒絶が、熱となり他者へ襲い掛かる。
「………ヒナタ様。…ヒナタ様。聞こえますか…?」
少女はナルトを放すと扉にもたれ掛かる。声に応じるように、扉を一度叩いた。
「食事と、今週の術書です」
―――トン。
少女が扉を叩く音だけが小屋の中に響く。
外の気配は落ち着くなく小屋の前をうろうろとしていたが、幾度か振り返りながら去っていった。
気配が完全に消えると、少女は扉を開ける。
「食べる?」
扉の外に残されていたお膳と本を見ながら少女がそう問いかけた。ナルトはただ、首を横に振る。
「………お前が日向ヒナタだとしたら、今アカデミーにいる奴は何だ…?」
「身代わりでしょう? 日向ヒナタがこんなんだった、なんて外聞悪いし」
食べ物よりも先に術書に手をつけた少女は、本当に、どうでもよさそうだった。
何が、というわけではなく、何もかも、がどうでもよさそうだった。
「…つまんねー人生送ってんな」
「…ええ」
「つまんねー目してんな」
「………何が言いたいの?」
僅かに、日向ヒナタという少女の瞳に苛立ちがよぎった。
ナルトは何事もなかったかのように立ち上がり、外の様子を見回す。どうやら人が来る様子はない。結界の中から見ると、カラフルに色づいたチャクラが邪魔で風景なんて殆ど見えなかった。おぼろげに木々があることだけが見て取れる。
「………帰るの?」
ひどく小さな声に耳を貸さず、ナルトは結界から抜け出すためにチャクラの放出を高める。外に一歩足に踏み出すと、チャクラがより一層激しく暴れ狂った。
「……ま…って」
少女の声に、チャクラは激しく荒れ狂い、ナルトへと襲い掛かる。
結界をもう一つ重ねて、ナルトはチャクラの中歩き出した。行きよりも遥かにチャクラの抵抗が激しい。
何故、日向家の長子がこんなところに閉じ込められているのか、それはナルトには分からない。そして知ったことじゃない。
知ったことじゃないが、この異常な量のチャクラと、少女に触れられた手首の焼けるような感覚から、大体の予測なら出来る。
もしも、生まれてきた時からこのチャクラを纏っていたとしたら。
今アカデミーに通う少女が身代わりでしかないとしたら。
日向は彼女を利用するためだけに生かしている。
そして恐らくは、少女自身それに気付いているのだ。
次第に激しくなるチャクラの嵐を強引に突き破り、振り払う。結界の外まで来ると、ぴたりと襲撃は止んだ。
振り返ると結界のすぐ傍まで少女が来ていた。
ナルトは笑って、手を差し伸べる。
さっき少女がそうしたように、馬鹿にするようにして、笑う。
今目の前にいる少女の瞳は、冷め切った、感情の抜け落ちたものではない。
だから笑って、手を差し伸べる。
―――彼女の欲しいものは、分かっていたから。
そう。
彼女はきっと拒絶され続けた。
親に、親戚に、友達に…。
その荒れ狂うチャクラゆえに。
その身体をまとうチャクラゆえに彼女は拒絶され続け、挙句こんな小屋の中へと隔離された。
力ゆえの孤独を、うずまきナルトは知っていた。
だから、分かる。
彼女が求めているもの。
「出て来いよ」
そう言えば少女は、小さく後ずさった。迷うようにして結界と、自分を覆うチャクラと、ナルトとを見比べる。
僅かな苛立ちを抑えて、ナルトは重ねて言った。
少女の迷いを断ち切るように。
「出て来いよ。お前一生そこにいるつもりか」
「…ここから、出たら、チャクラがどうなるか分からない。それに…結界があるからこれ以上は進めない…」
「お前馬鹿だろ」
「っっ」
冷たい声に、少女は息を呑んだ。
結界越しに伝わる声は、やけにまっすぐに、はっきりと少女の耳に届く。
「お前のその力があれば結界なんてどうってことないんだよ。結界が破れないのは、お前にその気がないだけだ。チャクラを操れないのは、お前にその気がないだけだ」
「っっ!! 違う! そんな…そんな簡単なものじゃない!」
「だからそう思い込んでるんだろ。たとえ、ガキん頃そうだったとしてもな、こっちゃ成長してんだよ。その力抑えるくらい出来るよーにな」
「―――っっ」
本当は、外に、出たいのだ。
小屋の中に閉じ込められて、話すことさえも禁じられて、ただ生かされてきた少女。
いつしか外の光景すら忘れ、親の顔すら忘れ、ただただ拒絶された記憶だけが身を苛み続けてきた。本当は、チャクラを操るだけの力を持っていたとしても、出来るはずがないと諦めていた少女は、それを試そうなどしなかった。
外に出たい。
人に触れたい。
人と話したい。
一緒に居たい。
押さえつけていた望み。
見ない振りをした欲望。
それが、うずまきナルトが現れたことで吹き出した。
―――うずまきナルトは、日向ヒナタの力をものともしなかったから。
だから、もしかしたら、彼となら一緒に歩けるのではないか、と…心のどこかで、そう思った。
立ち尽くす少女に、ナルトが口を開く。
「来いよ。―――ヒナタ!」
うずまきナルトと日向ヒナタの瞳が一瞬かち合って。
それから。
世界は虹色に輝いて
音も無く
静かに
静かに
崩れ落ちた。
日向ヒナタは、固く閉じていた瞳を開いて視線を真横へ向けた。
手のひらが熱かった。
自分の体温と他人の体温が交わって、更に温度は上昇する。
それは他者を焼き尽くし、排斥するような熱さではなくて、ただただ心地よい、ほんのりとした温かさ。
握り締めた指の先に金色の光が見えた。
小屋に閉じ込められて以来、決して見えることなど無かった光。
すぐ下には茶褐色の地面があった。
結界が崩れた衝撃で、ヒナタは吹き飛ばされ、その手を掴んだナルトもまた吹き飛んだ。なんとか受身を取った2人は今、仰向けに倒れている。
首を戻したら、そこはあまりにも雄大な景色が広がっていて。
その空の高さ、その空の広さ、その空の青さ。
それは、何時までも見つめていたいような、吸い込まれてしまいそうな…泣きたくなるほどに美しい青空だった。