中楼閣に過ぎない想いを抱いて占い師は頭を下げた









「はい、ちょっと待ってね」

 呆れたような声音と共にアルダ・ココの腕がパシリと掴まれ、それと同時にやんわりと引き寄せられる。
 その動作はあまりにも無理なく自然なものだったので、アルダ・ココは釣り上げられた魚のように釣り人の下へと収まってしまった。
 これはいけないと大声を上げようとして、それを拒まれる。
 いつの間にか口に当てられた大きな手のひらに噛み付いてやろうかとも思ったが、その女のように細く滑らかな、それでいて節々に骨っぽさを感じさせる大きな手は苦しいと思うほど力が込められてはいなかったし、苦しくないように、という配慮も感じられたから、唇を尖らせるだけに終わった。

 第一アルダ・ココが声を上げたとしても、この喧騒に阻まれて誰にも届きはしないだろう。
 この街一番の大通りでは店の客寄せもあって、誰もが大声でがなり合っているので、アルダ・ココの声など何の役にも立たない。
 人の多さに阻まれて他の連れと離れてしまったのはアルダ・ココ自身で、人ごみに揉みくちゃにされて途方にくれていたのもアルダ・ココ自身。
 その人ごみの中ではたと目があったのが何故か今や敵となったコーサ国のルダート王子で、慌てて人の群れに突っ込んだアルダ・ココをひょいと連れ出してしまった。もっとも、群れに突っ込んだはいいが色んな人に邪魔だと突き飛ばされ、小柄なアルダ・ココが倒れそうになったところを引き寄せて人にぶつからないよう腕に抱いてくれているのはルダートなので、無謀な真似をしたアルダ・ココは助けられたような格好だ。

 人ごみの中を泳ぐようにしてするすると抜けたルダートは、少女の口から手を離すとふぅ、と小さく息をついた。
 大通りから脇に入る小道は驚くほど人が少なく、アルダ・ココもついついほっと息をつく。

 人ごみでどこに行くにもままならず、好きな方向にも行けずあっという間に仲間たちとも分かれてしまったので、はっきりとうんざりしていたのだ。
 揉みくちゃにされてしまった所為で髪はぐちゃぐちゃに乱れているし、服にも変な皺がよっていた。

「君はつくづく無茶をするね」

 掴んだ腕はそのままに、ルダートは呆れる。人ごみに突っ込もうとしたのも無茶千万だし、これだけ人の多い空間で仲間と共にいないとなれば誰に何をされても分かったものじゃない。人が多ければドサクサ紛れのスリも多いし、セクハラ紛いの真似を働く者もいるだろう。
 アルダ・ココが望んで仲間と共にいないわけではないのだと、ルダートはよくよく分かっていたが、結果は同じ事だ。

 ほっと安堵した表情とは一転。
 アルダ・ココはむっ、と口を尖らせて眉を潜める。仲間の姿を求めるようにして周囲へと視線を走らせた。それから、ようやく未だ腕を握られている事に気付く。あんまりにも違和感なく自然に握られているので、あまり意識が向かなかった。振りほどこうと思えば振りほどけそうな、そんな力しか込められていないように思える。

「…離して、下さい」
「嫌」

 いつの間にかにこにこと細められた無邪気な瞳で、ルダートは断言する。
 言葉とその表情との差異に、アルダ・ココは一瞬意味を飲み込めずにぽかんと口をあけた。

「い・や・だ・よ。って言ったんだけど、分かる?」

 やっぱり悪意のない本当に無邪気な顔で笑うから、アルダ・ココはますます困惑してしまった。腕には矢張りすぐに振り解けそうな力しか込めていないくせに、なんでそんなことを言うのか。
 無理矢理振りほどこうかどうか迷って、アルダ・ココは途方にくれる。
 この王子様は確かに敵ではあるが、今はいつも傍にいる白髪の魔法使いもいないように見えるし、敵意も全くないように見える。
 そもそも彼がどうして牢を抜け出して、守龍を得ようとしているのかさっぱり分からない。守龍を国へ連れて帰れば王になる。そう殆んどの者が考えている。だからだろうか。そんなに王になりたいものなのだろうか。

 なんにしろ、あの王宮で周りの事など何でもないように振舞っていたルダートとは違うのだと、そうとしかアルダ・ココには思えなかった。

 不意に唇を噛み締めたアルダ・ココに、ルダートは小さく首を傾げる。握り締めた腕に力が篭ったのも分かっていた。それでも力を入れようとはしない。

「………どうして、ですか」

 ポツリと落とされたアルダ・ココの言葉に、今度ははっきりと首を傾げて見せた。

「何がだい?」
「そんなに、王様になりたいんですか…? 牢を抜け出してまで、王になりたいんですか…!?」
「………ん?」

 デムナ夫人は確かにそう望んでいた。
 そう望んで、アルダ・ココにその占いの結果を望んだ。
 けれど占いで出た結果は全く別のもので、それをデムナ夫人は確かに納得したはずなのに、こうしてルダートはここにいる。
 それはデムナ夫人の望んだことなのだろうか。

 あの美しい夫人は、アルダ・ココの言葉に納得してくれたのに。
 占いは決して覆らないと分かってくれたのに。

 どうして、とルダートを見上げる瞳はとても真剣で、懸命なものだった。だからルダートは顔から笑みを消して、つかの間考え込むように沈黙する。

「別に、王になりたいわけではないよ。僕よりなりたい人間がいるならなればいいと思うし、わざわざそんな面倒なものになりたいとは思わないしね」

 こんな時にでも茶目っ気たっぷりに片目を瞑ってみせるから、アルダ・ココはもどかしく口を開けたり閉めたりと繰り返す。

「じゃ、じゃあ…どうしてこんな」
「ねぇ、アルダ・ココ。君は考えた事があるかい?」

 アルダ・ココの言葉を遮るようにして、歌うようにルダートは言葉を紡ぐ。
 何故かその時、彼は初めて会ったときからまるで変わらないのだと、そう気付いた。ただ一人、何事にも左右されないかのように自由に、気ままに、そのように振舞っている。だからなのか、なんのてらいもなく見せる笑顔は幼く、無邪気だ。前の彼とは違うと、そう思ったのは彼を見る自分自身が変わってしまったのかもしれない。

「君がした占いがもたらした事。守龍をコーサに連れてくるのは誰か、君がそれを占ったことで起こった事」

 それは、デムナ夫人に匿われた荘園で、散々考えた、散々言われた事だった。占いを終えてアナンシアと共に旅立つまでは、あまりにも色々な事が起こったものだ。その全てが占いの結果だ。
 神妙な顔で頷くアルダ・ココに、ルダートの視線がほんの少しだけ苛立ちを含み、すぐに消えた。

「じゃあ、勿論分かるよね?」
「……何を、ですか?」
「僕を牢に入れたのは君だ」

 思いがけぬ言葉に、アルダ・ココは愕然と立ち尽くした。
 言葉の理解が追いつかず、世界が回っているような気さえした。

「君が僕を牢に入れたんだ」

 もう一度、単語を組み替えてルダートは言う。
 アルダ・ココは立ち尽くしたままにその言葉をどこか遠くで受け止めた。

 ―――自分が、この人を、牢に入れた?

 ルダートが牢に入ったのは、彼の部下と思われる2名がアナンシアを毒をもって殺そうとしたからだ。その計画に加担していない証明をすると言って彼は自分から囚われることを選んだ。
 たっぷりと間をとってから、ルダートは小さく息をつく。

「あの2人のような過激派は、どの派閥にもいた。火をつけたのは君だよ、アルダ・ココ。一番初めに手を出したのが偶然あの2人だった。もしもあの2人が何もしなかったとしても、また別の人間が似たようなことをしただろう。それはレンヒュートを庇護する人間だったのかもしれない」

 正当な血を引く由緒正しき王子。体が弱いがために表には出れない優しい王子。
 自分の会ったことのある優しげな面差しの王子を思い出して、アルダ・ココの全身からさぁ、と血の気が引いた。

「で…でも、それは!」
「君の占いが引き金だ」

 それだけは間違いないと、ルダートは確固たる口調で断言した。

「母が苦しんでいるのも、何もしていない僕が牢に入ったのも、あの2人が死んだのも、誰の責でもないと言い切れるかい? 神秘の占い師アルダ・ココ」

 責めるような口調ではなく、ただただ淡々とルダートは続けた。その一つ一つの言葉が、アルダ・ココの全身を縛りつける。
 激しく頭を殴打されたような気分だった。
 ぐらぐらと揺れる視界で、自分が立っているのかどうかすら怪しくなる。

 アルダ・ココの占いが、全ての発端。

 元を返せばデムナ夫人が望んだ事が原因であろうが、それでもアルダ・ココは分かっていた。
 あの場で彼女が言わなかったとしても、同じような事があれば確実に占いを果たしたであろうことを。何故なら、そう。アルダ・ココ自身がそれを望んでいたから。

「アナンシアが守龍を国に連れて帰っても、僕は一生牢に閉じ込められたままだ。それこそ何もしていないのに、だよ。そして母はそれを悲しみ悲嘆にくれる。王は母をもう信じない。誰も母を信じない」

 アルダ・ココの占いがルダートの一生を決めた。
 デムナ夫人の全てを奪った。
 もう彼女には王からの寵愛も、貴族からの信頼も、ルダートという大事な息子も残されてはいない。

 それを、アルダ・ココは本当の意味で分かってはいなかった。

 おざなりな心配と、おざなりな理解。
 どちらも今のデムナ夫人とルダートにはまるで必要のないものだ。

「守龍を連れて帰れば、もう一度牢にいれられない。全てが好転するわけがなくても、あのままアナンシアを待つよりはずっといいね」

 国を豊かにしたいのはルダートも同じだ。けれどもそれが全てはわけでは、決してない。
 自分の今の現状と母の置かれている状況を考えると、これしか道が残されていないという事実があった。
 アナンシアよりも先に守龍を見つける必要がある。

 王になりたいわけでなく、現状を好転させる術ではこれが一番だっただけの話だ。

「で、も…アナンシアは…彼女は、分かってくれます! ちゃんと話せば」
「話せば、ね。ラダと共にいる僕とまともに話すとは思えないね。第一、僕は彼女に嫌われている」
「それは…!」
「彼女も人間だよ。好きな人間と嫌いな人間、自分の望む答えと望まない答え、君ならどちらを選ぶかい? アルダ・ココ」

 より信じたい方を人間は選ぶ。
 それを、アルダ・ココはウルファの着せられた罪の件で知った。
 目の前に立つ黒髪の王子は、ウルファと同じようにしてまるで覚えのない罪を被っているのだ。

「僕はもう引き返せないし、引き返す気もない。だから君ともアナンシアとも敵対するよ」

 なんの気負いもないような声で言うのに、アルダ・ココにはひどく重く響いた。
 ずっとアルダ・ココの腕を掴んだままの腕にはあいも変わらず大した力が篭っておらず、その手にぽたりと透明の雫が落ちた。一つ、零れて、二つ、三つと、ぼろぼろと数を重ねる。

 その時初めてルダートの手のひらが動揺するかのようにびくりと動いた。
 しまった、というようにもう片方の手を頭に当てて息をつく。

「泣かないでアルダ・ココ。別に君を恨んでいるわけじゃない。母も間違えた、僕も間違えた、君もそう、皆が少しずつ間違えただけなんだから」

 そろりと手を離すと、アルダ・ココは両手で目を覆った。
 声は出さずにぼろぼろと泣く少女に、ルダートは途方にくれる。女を泣かした経験はそんなにない。基本的にルダートは如才ないし、やることにそつがない。顔や立場に釣られる女の相手も散々してきたが、それなりに和やかにお別れしてきたつもりだ。

 人ごみでぐちゃぐちゃに跳ねたアルダ・ココの髪を整えるようにして、頭を撫ぜる。子供の機嫌を取るようにして、目線を合わせてから悪意なく笑った。

 その屈託のない幼子のような笑顔に、アルダ・ココはますます胸が詰まる。
 ごめんなさい、と言おうとした言葉は形にならず、空気中に溶けてしまった。
 街中で泣いてしまっている恥ずかしさと、目の前の存在に対する申し訳なさ、それに過去の自分に対するやりきれなさと、色々な思いが駆け巡って、整理のまるでつかない感情にアルダ・ココはただただ泣き続けた。

 目の前の距離をほんの少しだけ詰めて、ルダートは僅かに迷う。軽く、視線をさ迷わせて、白い髪や赤い髪を捜して、それからもう一歩距離を詰めた。

 細い肩を震わせる少女の身体を引き寄せて、腕の中に納める。
 人ごみで最初に引き寄せた時も思ったが、やはりあまりにも小さく、儚い少女だった。

 別に泣かせるつもりなんてまるでなかった。別に責めるつもりではなくて、本当に彼女が分かっていないようだったから、分かって欲しかっただけ。彼女が自分や母に何をもたらしたのか、ということ。

 どれだけの時間がたったのか、2人は変わらずそこに立ち尽くしていた。
 遠くで鐘の音が鳴るのを聞いて、ルダートは眉を寄せる。
 自由行動をしたかったルダートが、ラダと約束したその時間。

「ごめん、アルダ・ココ。もう行くよ」

 身を離して目線を合わせると、もうアルダ・ココの目は潤んでいなかった。ただ、俯いた顔全体が耳まで真っ赤に染まっていて、何故だか申し訳ない気分になった。
 あの仲間の剣士とは抱きしめたり抱きしめられたり、そういう事が当たり前の関係だと思っていたのだけど、違うのだろうかと思う。ただ単純に幼い頃母に抱きしめられたら安心したし、ひどく穏やかな気持ちになった。それを思い出したから、そうした。

「あ、あの、ルダート王子っ」
「あ、うん」

 力いっぱい照れている様子のアルダ・ココから両手を離して、ルダートは苦笑する。アルダ・ココの照れた様子につられてしまった。
 とりあえずアルダ・ココの涙はどこかへ引っ込んだようだった。
 だからルダートは笑って、アルダ・ココの頭を撫ぜる。

 遠くからアルダ・ココを呼ぶ声が聞こえたのは丁度その時だった。
 なんともまぁ見事な図ったかのようなタイミングに、2人は目を合わせる。お互いのびっくりした顔がそこにはあって、マジマジと見つめあってから同時にふきだした。

「タイミングいいね、君の仲間は」
「貴方にとっても、ですね」

 笑いあってから、お互いに一歩下がって距離をとる。
 これが本来彼と彼女が保つべき距離。

「じゃあねアルダ・ココ。もう会わないことを願うよ」

 去り際に残した言葉はあっという間に雑踏に消えて、そのあんまりな素早さにアルダ・ココは呆気に取られてしまった。

「また会えますよ」

 目的は同じだから。
 それ以上に、アルダ・ココは自分の胸のうちに湧き上がる予感を信じる。また会える、という確信に近い予感。
 不思議な感覚だった。
 会えばお互いに敵対しなければならないのは分かっていた。それでも会える事は嬉しいと思う。たとえ戦わなければならないのだとしても。白髪の魔法使いに会うことと同義なのだとしても。
 ―――それでも会いたいと思うから。

「泣いて、ごめんなさい」

 言えなかった言葉を噛み締めて。

 アナンシアと、ルダートと、2人の王族が並んで国へ帰る日を望んで。

 もうどこにも見えない猫っ毛の王子様にアルダ・ココは深々と頭を下げた。