空っぽの器に満たされた感情は何というのか知りたくもなかった
死に面したとき、何もかもが急にどうでも良くなった。
人の不幸な様を見ているのが楽しかった。
人を絶望させるのは楽しかった。
心の力とやらを捻じ伏せ、叩き潰すのが面白かった。
大きければ大きい物ほど壊すのは楽しかったし、ゾクゾクした。
希望とかに目を輝かせてる奴らを一方的にかき乱すのは面白かった。
そのはず、だった。
それなのに。
あの甘ったるい臭いが、全てを打ち消してしまったのだ。
「私より先に死ぬなんて、許さないわよ…。こっちは、あんたの所為で一生滅茶苦茶にされてるんだから…絶対に…死なせてなんてやらないわ」
何故だかぐちゃぐちゃに崩れた顔で泣く女が居た。
甘ったるい香りをさせて、睨みつける女が居た。
気がつけば、笑っていた。いつものように。
何故だかひどく安らかな気分であることに気付かずに。
「…馬鹿じゃないの」
そう、冷たく笑って目を閉じた。
甘ったるい香りがさらに鼻について、唇に慣れた感触が落とされた。
それから何故か生き延びて。
何もかもが、どうでも良くなった。
「何してんのよ」
入り口にぼんやりと突っ立っている男に気付いて、ヒルダは心底呆れた声を出した。
全く唐突な登場ではあるが、今更気にはしなかった。
ヒルダが孤児院を開いてからは何度もこういうことがあったから。
男はまっすぐに注がれる視線を避けるようにして顔ごと横を向き、どうでもよさそうに口を開く。
「別に」
「…だったら、こっちに来て座りなさいよ。寒いでしょう?」
今更この男の言動とか行動の意味を深く考える気はないので、ヒルダは持っていた本を閉じて大儀そうに立ち上がる。
それと同時、ほんの少し戸惑うかのように揺れる男の瞳。
男の目から見て、数ヶ月ぶりに見たヒルダは一点を除けば、さほど変わりないように見えた。
波打つ黒髪は緩く後ろに結わえられて、背に長くたれている。アメジストの大きな瞳は年齢よりも遥かに老獪して見えるし、物腰も妙な貫禄や雰囲気がある。それは男の知っているヒルダ・ランブリングに違いない。
唯一つ、前に見たときと違う事。
その唯一つが問題だった。
「………随分とまぁ、太ったものだね」
しげしげとヒルダのお腹を見つめて、男は言い放った。ある意味とても率直な男の言葉に、ヒルダは握り締めた本を投げつけそうになった。衝動的に出そうになった手を押さえ、小さく息をつく。
「もうすぐ生まれるのよ」
ゆっくりと膨らんだ腹を撫ぜ、ヒルダは微笑む。その、ひどくいとおしそうな声音に、男は呆然と突っ立ったままだった。
その男の目の前にまでヒルダは歩き、視線を合わせる。2人の身長差は殆どなく、わりかし簡単に視線を捉える事が出来る。
「…何」
「早く部屋に入りなさいよ。私も寒いのよ」
そう言いながらも男の背に回り、僅かに開いた扉をぴったりと閉じる。肩からかけていたストールをサレの首にかけ、そのまま自分は暖炉の傍へと移動する。
ぱちぱちと爆ぜる火に照らされた女は、寝る前だったのか化粧の一つもしておらず、普段よりは妙に幼く見えた。ヒルダの動いている間中、男は矢張り立ち尽くしたままだった。それに気付いて、ヒルダはちらりと男を振り返る。
深い紺の髪の男は、ぼんやりとした視線をヒルダの膨らんだ腹に注いでいた。
その表情にいつもの冷たい微笑はどこにもなく、可愛らしくさえ見えたので、ヒルダは笑ってしまった。
「ほんっと、らしくないわね。サレ」
「………なんだって?」
「嫌味の一つもないあんたなんて気持ち悪いだけだわ」
「…フン」
よほど調子がでないのか、矢張り皮肉も嫌味もなく、ヒルダは肩をすくめた。
ぱちぱちと爆ぜる薪の音が響き、炎がヒルダの白い面を照らしていた。
ゆるりとした静寂が続く。
それはうんざりするほどのんびりとした、かつてではありえないような静かな空間。
なぜか居心地の悪くない、静かな、静かな、空白の時間。
男はようやく硬直から抜け出し、小さく息をつくと同時、髪をかき上げる。
「そりゃあ驚きもするさ。前に会った時はとは随分な差だからね」
「……あんた、誰の所為でこうなったか分からないわけ?」
自分の膨らんだ腹を撫でて嘆息したヒルダは、まっすぐにサレを睨みつける。
その言葉の意味を図りかねて、サレは言葉を失う。
「まぁ、今更あんたに何を言っても無駄なのは分かっていたけどね」
大きな大きなため息と共に、ヒルダは暖炉の前へと座り込んだ。
またも立ち尽くしたサレは、今もたらされたばかりの言葉を頭の中で幾度か再生し、ようやく意味を理解する。それと同時、小さな音を立てて口元を押さえた。ようやっと現れた男の驚愕の表情に、ヒルダは笑った。
笑われたサレは、くっきりと眉根を寄せる。
それはもう見慣れたサレの不機嫌顔。
それこそいつもの男の姿だ。
「……フン」
「どんな子が生まれてくるのかしらね」
「…どうだっていいね、そんなこと」
「なんとでもいいなさい。もうあんたの皮肉にも慣れたわ」
人を殺し、恨まれ、恨み、そうして生きてきた時代がまるで嘘のように、ヒルダは穏やかに笑う。
対する男も随分と変わったものだ、とヒルダは思う。
人を殺す事、人を蹴落とす事、人を不幸にする事。
そんなことにしか興味を見出さず、見出せず、人の命を弄び続けた男だった。
そんな男でもヒルダにとってはただ一人、ヒューマもガジュマも関係なく接してきた相手だった。それが好意から生じるものでないと知っていても、縋り付くしかなかった。
それはいつしか、また違った形のものになったけれど。
今もまだ人を殺しているのか、ヒルダは知らない。
ヒルダが知っているのは、時折孤児院に顔を出してはつまらなそうに子供の相手をする姿。それだけだ。
少なくとも、ヒルダが見ている前で、王の盾時代のような残酷な事はしていない。それだけで十分だった。
男は視線をもう一度ヒルダの腹へと移し、そろりと手を伸ばす。
触れると同時、小さな振動が手に伝わった。
何をしているのだろう、とサレは自問する。
ただ、何かに突き動かされたかのように、サレの腕は腹部からヒルダの頬へと伸びて。
久しぶりにその柔らかな唇を味わった。
何度も。
何度も。
