「"いない"んだなぁ」

 小さな呟きは、闇に消えるようにして吸い込まれていった。
 届いたのはただ2人の少年にだけ。







   存








「…―――いない?」
「違う?」
「………」

 戸惑うように視線を上げる少年達。
 その視線を浴びて、笑う一人の少女。黒い髪が、夕暮れの中で赤く縁取られる。少女の白く小さな輪郭を、細くしなやかな肢体を、赤く染める。
 まるで、夕暮れの光に少女が溶け込んでしまうように。夕暮れが、彼女を連れて行ってしまうように。

 何の変哲もない日だった。
 当たり前に任務をこなして、担当上忍の紅に別れを告げて。下忍として、当たり前の一日を過ごし、そして終わるときだった。

 けれどそうはならなかった。
 ただの一言。
 少女の呟きが、全てを変えた。

「私は、誰?」
「…ヒナタ?」
「何、言って…」
「"日向ヒナタ。日向家宗家嫡子。12歳。好きな食べ物はぜんざいとシナモンロール。嫌いな食べ物はカニやエビの甲殻類。趣味は押し花。下忍。紅班所属。落ちこぼれ。引っ込み思案。恥ずかしがりや。臆病者。後ろ向き。うずまきナルトに憧れる"」

 すらすらと、よどみなく告げられた言葉に、思わず絶句する。
 彼女の思惑が見えないのなんていつものことだが、どうすればいいのか分からない。
 何を言いたい?
 何を考えている?
 何を求めている?
 少年達は視線を合わせ、互いの瞳に困惑の色を見つける。

 少女、ヒナタはただただ楽しそうに笑った。
 いつもと変わることのない、楽しそうな。
 それは、ヒナタのものであって、ヒナタのものでない笑顔。
 黒蝶、という忍が、面の下、常に浮かべている冷たい微笑。
 楽しそうでありながら、無機質で、感情の写ることのない氷のような微笑み。
 ヒナタでありながら、黒蝶を纏う。
 ペンで引いた一本のラインを水でぼかすように、境界線があいまいになる。

「それは、私じゃないでしょう?」

 悪戯っ子のように、悪意の無い、無邪気な瞳でくすりと笑う。
 少年。犬塚キバは眉をひそめ、油目シノは小さく身じろぎする。

「………黒蝶?」
「何、言いたいのか全然分かんねーし」
「そう? キバ君なら分かると思ったんだけど」
「はぁ?」
「だって、キバ君は表裏結構激しいじゃない? 犬塚キバ=瀞稜だなんて誰も信じないし。作ったでしょう? "犬塚キバ"を」

 息を呑んで、沈黙した。
 キバにはヒナタの言葉に思い当たることがあったから。

「"日向ヒナタ"なんて全て作り物の偽者、なら、本物は"黒蝶"?」
「…違うのか?」

 よく分からない、と顔に出たままのシノ。けれど、真摯に、真っ直ぐに少女を見つめる。
 何も知らない。分からない。だからこその真っ直ぐな姿勢。
 そのあまりに純粋で真っ直ぐなところが、ヒナタにはとても好ましい。
 冷たい微笑が緩んで、ヒナタ、を纏う。
 全てが癒されるような、温かい、聖母の微笑み。

「違うかもしれない。違わないかもしれない」
「…いい加減にしろ! ヒナタ!!」
「キバ君は、同化しているよね。本物、と、偽者。"犬塚キバ"と"瀞稜"が」
「だから…っ! だから何なんだよ!! 何が言いたい!」

 キバの怒鳴り声に、ちらほらと見える不安の塊。追い詰められた獣のような、警戒があらわな姿。

 ―――ほら、瀞稜が出てきた。

 口には出さず、思う。
 以前の犬塚キバであるなら、いつどんな時も自信に満ち溢れた悪ガキの表情を崩さなかっただろう。たとえ危機に陥ったとしても、もっと冷静に、もっと静かにしかるべき処置を行っていた。
 犬塚キバ、は、不遜で、明るくて、前向きで、馬鹿で、悪戯好きで。
 けれど、どこかは確かに冷静であった。それは常ではなく、ふとした瞬間に見せる姿。
 それは下忍であるから。下忍という余裕のある立場だからこその冷静さ。下忍の立場で、"瀞稜"にすら処理できない事態など皆無だ。
 それが、犬塚キバという人間だった。
 彼がまだ犬塚キバだった段階で、その冷静さを失った姿を見たのは、あの、彼に初めて触れた瞬間だけだ。

 瀞稜と黒蝶が任務をこなすうち、そして、シノが瀞稜の正体を知った後、除々に犬塚キバは変わり始めた。
 明るくて、前向きで、馬鹿で、悪戯好きな瀞稜。
 繊細で臆病で、弱気なキバ。
 溶けて、ゆるゆると混じり始めて、もう、境界線は存在しない。
 キバは瀞稜であり瀞稜はキバ。

 例え姿形は違っても。
 例え性格も嗜好も違っても。
 同じ人間には違いない。
 それは、自分にも言えること。

 "日向ヒナタ"も"黒蝶"も同じ存在。

 けれど。違う。
 ―――違うのだ。

「日向ヒナタの情報は全て偽者」

 自分のどこにも、日向ヒナタという存在はいない。
 例え同じ存在であっても、全ては偽者の情報で固められた蝋人形のようなもの。

 黒蝶はヒナタのように優しくないし、照れ屋でも引っ込み思案でもない。好きな食べ物、嫌いな食べ物ですら演技上作り上げたものでしかなく、押し花なんて好きでもなんともない。
 全て、演技のために作り上げた、詳細な日向ヒナタのデータ。

 だから。

「"いない"んだなぁ」

 空を見上げた。
 薄暗い、夕暮れ。
 ほら、もう2人の姿が見えない。
 黄昏の時。
 


「ヒナタ!」
「ヒナタ?」



 少年らの声に、ヒナタは笑った。
 あまり見ることのない、日向ヒナタの、黒蝶の、満面の笑顔。

「だから、貴重なんだよね。日向ヒナタでない私を知る人間」

 独り言にも近いその言葉は、夕暮れに、にじんで消えた。






 




 お題にそるなら、ここで止めるのが一番良い気がします。
 でも書きたかったのはこの後だったりします。