普通の世界の狂った世界
血の匂いがした気がして、サスケは足を止めた。
ちょうど、修行から帰ろうとした矢先の事だった。
眉を潜め、周囲を警戒する。
ほんの一瞬、一瞬だけ鼻をついた匂いが気に掛かり、それ以上動けなくなった。そろそろとポーチに手を伸ばし、クナイを握る。
修行に熱中してつい遅くなってしまったが、既に真夜中と呼ばれる時間帯。いくら他里に比べて平和な木の葉とはいえ、何が起こってもおかしくはない。
じわりとクナイを握り締めた手に汗がにじみ、否応なしに緊張感は高まる。
頼れるのは自分自身のみ。
意を決して、匂いの流れて来た方向―――自分の背後を、振り返った、その瞬間―――。
「なーにしてんのー? サスケくーん!」
思いっきり飛びつかれ、バランスを崩す。振り返った瞬間にきたものだから、思いっきり受け止めてしまった。飛びついてきた方も、いつもなら絶対にないはずの状況にしばし目を瞬かせる。
「おま…っ! いの…っ。 何で…!?」
「なんでってー…修行帰りー? サスケ君も?」
淡い、金色の髪が顔をくすぐるので、思いっきり引き剥がしてもう一度周囲を確認する。
何もおかしい所などない、いつもどおりの帰り道。いつもどおりの木の葉。
―――本当に?
目の前のいのを確認しても、怪我なんてどこにもない。
血の匂いなんてどこからもしない。
狐につままれたような気分で、サスケは小さく息をついた。
「何難しい顔してんのー? 早く帰りましょー」
いのに腕を引っ張られ、それを振り払いながらサスケは帰路につく。既に先ほどまでの違和感は頭にない。
だから。サスケは気付かなかった。
つい先ほどまでサスケが注意を向けていた方、修行場のある森を、いのがじっと見ていた事に。
「はい、これで今日はかいさーん」
気の抜けた台詞と共に、下忍第7班メンバーはがっくりと膝をついた。
今日の任務内容はただの草刈り。ただの草刈りなのに異常に疲れるのは、その面積の所為だ。いつもどおりカカシは手伝う気配も見せなかったし、ナルトは余計な事をして仕事を増やすし、サクラは人に付きまとって手元が疎か。実際至極まともに任務をこなしているのは自分だけではないのだろうかと、サスケは脱力したままうなだれる。
息を整えて、何か口論しているらしいナルトとサクラに気付かれぬよう、こっそりと身を翻した。
ここでどちらかに捕まれば、折角空いている今日の午後は消えてなくなる。
後ろから聞こえ続ける口論に安心して、サスケは勢いよくその場から離れた。
木の葉市街地を通りながら、昼飯をどこで取るか、という極々庶民的な事を考える。
ラーメンは、ナルトと鉢合わせする可能性が高いから、真っ先に除外する。特に何が食べたいと言う気分でもないが、体調管理も忍の仕事だ。
適当な食堂に入ってメニューに目を通す。普段あまり来る事のないようなところで、あまり流行っているようには見えなかった。客は自分と木の葉の忍らしき男達の集団が一つだけ。
「…知っているか? 昨日、あいつらが動いたんだと」
そんな言葉が耳に届いたのは、天ぷら定食を食べ終わろうかという頃の事だった。声を殺した男の話に興味をそそられ、気配を消して聞き耳をたてる。残り少なくなったご飯を食べるスピードを落として、耳に神経を集中させた。
「それ本当か?」
「嘘だろ…。…ぬけ忍の話なんて聞いていないぜ?」
「なんか戻ってきたんだと、ほら…2ヶ月前、………家の……」
「……ああ。聞いている。まだ……されていなかったのか」
「失敗したんだと…見失ってそのままだったらしいぜ」
「……なるほど…それであいつらが…」
やけに神妙な顔で、ところどころ殊更声のトーンを落とすから、中々聞きとりにくい。瞼を下ろし、男達の話に聞き入る。
「奴らの身体は…木の葉の忍で出来ている」
「…そんな事を言うヤツもいたな」
「…それで、どこで…?」
「ああ…ほら、外れの………………第3演習場」
ぞわりと、小さな震えが全身を走った。手に持っていた箸が落ちる。小さな音にハッとして、男達を伺うが、自分達の話に夢中な彼らは気付かなかったようだ。サスケは、余計な事を口走らないよう手で自分の口をふさぐ。
あまりにも唐突に入ってきた情報。
男の口にするそれ、は…その名称は…。
―――昨日サスケがいた場所だ。
思い出す。
暗闇に染まった修行場。
そこを去った後の、一瞬だけの…本当に微かな血の匂い。
いのの出現で消えた全ての違和感。
昨日からずっと、何かが引っかかっていた。
何か。
何が引っかかるのか。
男達の言葉に集中することも、目の前の食事に集中することも出来ず、サスケは代金を渡して外に出た。その顔は病人のように青ざめていたが、幸い気にする人間はいなかった。
外に出た瞬間、人のざわめきが耳に突き刺さり、沢山の気配が通りすぎていく。
遠くにサクラの気配がして、すぐに身を翻した。こんな状況では誰にも会いたくない。
無理矢理人ごみを抜けて、走って、家の前について…唐突に気付く。
昨日、山中いのに抱きつかれた時、自分はかなり神経を尖らせていたはず。
何が起きても対応出来るように。
それでも、彼女の登場を予測出来なかった。対応出来なかった。
何故か。
―――彼女の気配など、しなかったからだ。
木の葉の本通りの一角に、『やまなか花』と大きく書かれた花屋がある。そこが山中いのの家だと、誰に教えられるまでもなくサスケは知っていた。木の葉で花を買うなら大抵はここで、その店番として彼女が座っている事も少なくはない。
店の前まで来て、足を止める。
「………」
眉を潜め、花屋を睨み付ける少年の姿は妙に似合わず、他の人間から奇異の視線を送られていたが、彼は気付かない。
花屋にある気配はたった一つ、山中いのという少女のもの。
何故、ここに自分がいるのか。
自分で自分の行動の意味が分からない。
別に、彼女の気配なんて自分が気付かなかっただけかもしれない。
けれど、何故か。
どうしても違和感が拭い取れない。
先の男達の言葉が頭に張り付いて、一向に離れようとしない。
交差するはずのない2つの出来事が、頭の中でごっちゃになっている。
男達の話が何についてだったのか、はっきりとは分からない。
けれど、あの血の匂い、読めなかったいのの気配、男達の言う"あいつら"、繋がる筈のない出来事が、一本のラインとなってしまった。
「…サスケ君ー?」
不思議そうな、いつもより少し低いトーンに我に返った。目の前に、大きな鉢植えを抱えたいのが立っている。つい先ほどまで彼女の気配を捕らえていた筈が、今、声をかけられるまでまた気付かなかった。考えに熱中するあまり気配に気付かなかったのか、それとも彼女の力は自分の想像より強いのか。
「いの…お前、昨日あそこで何をしていた」
思わず問い詰めるような強い口調になった。いのが思いっきり眉をしかめ、首を傾げる。
「昨日〜〜〜? …っと、ちょっと待ってねーサスケ君!」
そう言うと同時に花屋へ向き直り、持っている鉢植えを店舗の脇に置く。最初からそこに置くつもりで持ってきたのか、いのは満足気に頷いて、少し角度を調節した。そのまま中に入ると、店番としての定位置につく。
手招きをされて、ようやっとサスケは中に入った。
「で、何だっけー?」
「昨日のことだ」
「昨日ねぇ…。サスケ君と会った時はー修行した帰りだったわよー? それがどうかしたのー?」
「……あの周辺で、修行するところは第3演習場しかないだろ。あそこに…いたのか?」
台の上で頬杖をついた少女は、きょとんとして、サスケを見上げた。
「もしかしてサスケ君あそこにいたのー? やだーそう知ってれば絶対行ってたのにー!」
「…おい」
「あ、うん。私はねーあそこよりもうちょっと奥の森の中にいたわー」
「何故」
「何故って…修行に決まってるじゃないー? サスケ君、今日はどうしたのー? いつもと違うわよー?」
いつもならわざわざそんな事は聞かないし、そもそも花屋に来る事がない。自分でもいつもと違う行動である事は自覚しているから、それ以上の言葉に詰まった。
「ちょっとー大丈夫ー?」
「……」
もともと人との会話が得意でないサスケには、それ以上の言葉を見つける事が出来ず、黙り込む。ある意味それは普段どおりのサスケであったから、いのは首を傾げるにとどめた。
くるりといのは店の中を見回し、不意に瞳を輝かせる。
「サスケ君ー」
呼ばれ、顔を上げると、朱赤に色づいた実が目に入った。紙風船のように膨らんだ特殊な形のその植物は、サスケでも知っている。
「鬼灯…」
「そ。これ、あげるわー。家に帰ったらー花言葉調べてみてねー」
にこにこと笑いながら、いのは朱色のそれをサスケの手に押し付けた。思わず受け取って、反射的に財布を出そうとして止められる。
「あげるわー。面白いサスケ君が見れたから、そのお礼にー」
「………」
見世物扱いに、いかにも不満という顔をしたサスケに、いのは笑う。普段クールぶっている少年の崩れた顔は、ひどく面白い見世物だ。
バイバイ、と手を振る少女に、顔を顰めたまま少年は踵を返し、それから振りかえる事はなかった。
いのは呟く。
楽しそうに、とろけるような笑顔で。
「鬼灯の花言葉―――」
―――それは 偽り と 欺き
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