『山中いの』

 それが彼女に与えられた名前。
 "無"であった彼女の役割。
 与えられただけの役目。

 生きるための、手段。



 ―――これは、契約だ












 夢と契約と僅かなひと時












 いのは目を覚ますと同時に、洗面所へと走った。胃から昨夜食べたものがせり上がり、喉元でこらえる。大して広くもない家の廊下を必死に…それでも音は立てずに走り、真っ白な洗面台を見た瞬間吐き出す。それを何度か繰り返し、衝動が落ち着いてくると、手探りで所定の場所から薬を取り出した。残りはほんの少ししかない。後何回持つだろうか?
 固形状のその薬は、以前サスケに渡したものと全く同じもので、吐き気は収まるし、大分気分も良くなる。即効性が強く、薬に慣れていなければ毒にもなりかねない物だが、いのにとっては大したものではない。サスケに対しては迷いもしたが、ただの一度だろうと思い、飲ませた。
 薬の効果はすぐに出た。破裂しそうなほど激しく鳴っていた心臓が、通常のリズムに戻ってくる。それを感じながら、水を流し、ティッシュペーパーで飛び散った黄色い物体をふき取る。

「…嫌な、夢」

 唸るように呟いた少女は、髪が濡れるのもかまわずに、思いっきり顔を洗う。水を打ち付けて、タオルをぎゅうっと押し付ける。吐き気も、それに伴った涙も落ち着いたとはいえ、気分の悪さだけは残った。背にもびっしょりと汗をかいていることに気づく。
 鏡に映った顔は、どんよりと眼窩がくぼみ、嫌になるほど蒼白だった。紙よりも白い、という言葉そのままである。

 それに気づいたいのは、にっこりと笑う。
 口角を持ち上げて、目をパッチリと開いて、眉尻は少し上げて、山中いのの勝気な笑い方を見せる。
 そうすると、青白いばかりで病人そのもののような顔は幾分マシになった。

「寝よ」

 一言だけ、いのは言い捨てて、走ってきた廊下をのんびり歩きはじめる。
 次に見るのは悪夢の続きに違いないけど、吐き気だけなら、薬で抑えられるのをいのは知っているから、それ以上気にすることはなかった。





 "ピクニック"にお決まりの場所に行くと、そこには既にいのを除いたメンバーが揃っていた。
 シカマルはいつものようにお気に入りの岩に座って本を読み、ヒナタはなにやら怪しげな物体をシートの上に広げている。きっとまた拷問・尋問部隊やら医療部隊やらの新作だろう。あらゆる薬剤に精通しているヒナタは、各方面からその評価を任されている。もっとも頼んでいる方は、まさかこんな子供が追い忍部隊として名の知られた暗部だとは思ってはいないのだろうが。

 ナルトとサスケの姿は少し離れた場所にあった。
 対峙するように構えた2人の姿。サスケは刀を手に持ち、ナルトは素手だ。武器を持たなくとも、サスケではナルトに傷一つ付けられないだろう。
 いのやヒナタ、シカマルでさえナルトと1対1なら勝てる気はしない。
 彼の力は特殊だ。

「いのちゃん」
「んーなぁに? ヒナター」

 いつの間にかいのを真剣な表情で見上げているヒナタに、いのはにっこりと笑いかける。ばれたかな、とちらりと思った。日向の長女として生きる彼女は鋭い。
 もとより、隠し通せるとは思っていない。ここに来るまでの対処だった。

「何か、あったの?」

 その目が、どうして? と問いかけていた。
 いのが朝起きると同時にかけた、小さな術。他者に察知されないように、僅かなチャクラを使い、ほんの少しだけ自分にかけた術。それを彼女は見破っているのだろう。白眼、なんて発動しなくとも。

 だからいのは苦笑して、己にかけた術を解く。一部分に対してのみかけた、幻術。
 生き生きと輝いていたバラ色の頬から色が失せ、いつもは悪戯に光っている眼もどんよりと暗く、唇はほとんど紫色。全身から生気にあふれたような、明るい少女の姿はそこにはなく、何もかもに疲れ果てたような、うつろな姿。

「夢見が悪かっただけよー」

 そう力なくいのは笑って、ヒナタははっきりと眉を寄せた。

「……いのちゃん、朝食べてない?」
「……………」
「……何も、飲んでない?」
「………………………………………」
「……まさかと思うけど、もう、薬もなくなりそうなの?」
「…………………………………………………………」

 ただひたすらに黙り込むいのの姿を見て、ヒナタは眉を顰めたまま広げに広げた薬を回収する。あっという間にシートの上には何もなくなり、そのシートも小さくたたまれた。

「ひ、ひなたー?」
「…帰る。いのちゃんは絶対動かないでね。ナルト君、サスケ君、ちゃんといのちゃん見張っててね!」

 きっぱりそう言った少女は、常の彼女に有り得ない素早さでシカマルに近づくと、その腕をつかんで無理矢理走り去る。なんとシカマルは胡坐をかき、本を読んだままに運ばれていった。
 ナルトといのは幾度か見たことのある光景だが、サスケは唖然として、ヒナタの声に振り返った体勢のまま立ちすくんだ。そこへナルトが一発の拳骨をお見舞いする。

「…っっ」
「どんなときも油断するべからず、ってな」

 くくっ、と笑って、ナルトはいのの元へ歩み寄る。その無防備にしか見えない背に向かってサスケがクナイを投げれば、ナルトは後ろ手であっさりと受け止める。その上で、投げ返すものだから、サスケは慌てて避けた。サスケが投げたクナイは1本だったが、返ってきたのは何故か4本。急所を外してこそいるが、両手両足に向かってきたクナイは逆に避けにくい。
 その光景を眺めながら、いのは小さなため息をついた。
 これでヒナタに睨まれるのは何回目だろうか。…数え切れない。

「んで、何だってば?」
「………んーまぁー色々ー?」
「…ふーん? シカマルも連れてったって事は、薬関係か。何したってばよ?」
「何も、言ってないわよー」
「ああ、だから」

 そうナルトは言って、納得の表情を見せた。
 いのにはそれが気に入らず、無性に腹が立った。ばったりと地面に直接転がると、土の冷たい感触が気持ちいい。空は嫌味なほどに晴れていた。
 その視界に割り込んでくる、黒い男。

「…病気か?」

 真っ青、という表現の相応しい顔色のいのを見れば、誰だってそう思うだろう。だから、ちゃんと幻術をかけて、いつものように見せかけていたのだ。
 契約を守るために。

「夢見が悪かっただけよー」

 ヒナタに答えたのと同じ言葉を口にして、空を背負う男から眼をそらす。
 本当に最悪だった。夢見が悪いにも程がある。起きたときの呼吸は荒いわ、寝汗はかいているわ、気持ち悪いわ、顔色は悪いわ、とんでもない。明るくて元気で誰にでも優しい優等生どころじゃない。逆に当り散らしてしまいたいくらいだ。

「…水、飲めば?」

 あまり見ることのない不機嫌そのもののいのに恐れをなしたのか、サスケの口調はやけに引いている。目の前に差し出されたペットボトルはただの水。
 サスケは、ここでナルトと修行するようになってから、水がないと死ぬと一日目で思い知ったらしい。ほとんど一日中、下忍任務に出ている影分身のチャクラはそのままにし、動き回っているのだから喉が渇くのも当然である。影分身といえども改良版であるから、ちょっとやそっとの衝撃じゃ崩れない。下忍任務程度なら最適で、いの達はよく使っていた。サスケにもそれを強要している。そのくらい出来なくては、こちらとしても困る。

 もっとも最初の頃は何度も影分身に対するチャクラの供給が途絶え、そのたびにナルトの影分身が補助していたのだが。一週間もすればコツを掴んだのか、その回数はぐんと減り、二週間立てば危ういながらもなんとかなっている。

 いのはサスケから水を受け取って、起き上がる。ポーチを探ってざらりと薬を取り出し、一気に水と飲み込んだ。500ミリペットボトルに入った水の半分以上を飲み干し、口を離す。

「…っあーーー…すっきりー」
「すっきりじゃないってば。しかも親父くせぇ」

 パシーンといい音を鳴らして、いのの頭がはたかれた。言うまでもなく、ナルトの仕業だ。サスケはいのに水を取られた状態のままで固まっている。それくらいに豪快な飲みっぷりだった。水も、薬も。

「…いったいわねー」
「いい加減ヒナタがぶち切れても、俺は止めないってばよ」
「…それは、嫌ねー」
「じゃあ止めろっていい加減」
「…そうねー」

 誰も信用できないほど、いのの言葉は軽かった。本人すら本当に出来ると思っていないのだから、当然のことなのだろう。

「何の、話だ?」

 訳が分からない、とサスケ。当然だ。けれど、わざわざ教える必要もない、といのは思っているし、それについてはナルトも、他の2人も同意見。各々の事情なんざ、自身が話したくなったら話せばいいのだ。わざわざ教える必要も、詮索する必要もない。
 他人の事情に足に突っ込むのなんて面倒極まりないことは、自分達に求められてはいなかった。
 いのも、ナルトも、ヒナタも、シカマルも、個々の事情は知ってはいても、深入りはしない。互いが話しただけの情報しか知らないのだ。

「ヒナタがねーおせっかいでー、シカマルはその犠牲者でー、ナルトと私はそこが大好きでー。私達、きっとヒナタがいたから一緒になれたのよねー」

 ばらばらな個を集めて、まとめて、一緒に居るのが自然な風にしてしまったのはヒナタなのだ。もっとも、どうして彼女がそうしたのか、なんて誰も知らないわけだけど。

 小さく笑って、いのは目を閉じる。
 真っ暗闇の瞼の裏に浮かぶ、夢の光景。そこにはヒナタもナルトも、シカマルも、もちろんサスケもいなくて、いのはただ一人だった。


 ―――これは、契約だ。

 暗闇に落とされた小さな光。
 照らされる小さな子供と、長い髪を持つ男。


 もう一度いのはため息をついた。

「あーーーなんか、殲滅任務でもないかしらねー」

 何もかもぶち壊してしまえば、相当すっきりする気がする。物騒なことを口にするいのに、ナルトが呆れて口を挟む。

「ねーよ。俺たちは追い忍部隊だからな」

 それは、暗部として活動することを知った後、火影によって決められていたことだ。もっとも大規模な抜け忍狩りで、おおっぴらに暴れまわるその様は、殲滅以外の何物でもないのだろうが。

 ナルトがいのの横でごろりと横になり、同じように空を見上げる。サスケはそれを見て、同じようにして寝転んだ。
 何も知らない人間たちが見れば、何故一緒に居るのかさっぱり分からない組み合わせ。

 空は嫌味のようにとことん晴れていて、空気はやけに澄んでいて、木々を揺らす風は緩やかで、時間はのんびりと過ぎて。
 あまりに、穏やかな。

(…ずーっとこのままだったらいいのにー…なんて、あんまりにも大層な夢よねー)

 現実はもっと、あわただしくて、気だるくて、面倒で、偽りにまみれたものだ。
 今あるひと時はほんの少しのひと時でしかない。
 それをいのは良く知っていた。




「いのちゃん」

 ヒナタの声だ、と思って目を開く。思った通り、目の前にいるのは黒い髪の少女。気がつけば、何故か両隣でナルトとサスケが寝ていた。
 ヒナタは手に持っているペットボトルをいのに差し出す。受け取ったそのペットボトルの中身は、見事なまでの赤紫。

「なぁにー?」
「ジュース」
「…なんのー?」
「しそ」

 シンプルな答え。僅かに警戒しながら、ペットボトルに口をつける。飲むと、思ったよりあっさりとしていて飲み易く、甘い。

「あと、いのちゃんのご飯はこっちね」

 そう差し出されたのは、まさに今作りましたと言わんばかりの卵雑炊。色とりどりの野菜が見る者の食欲に働きかける。
 ちなみに今回の"ピクニック"のお弁当担当はナルトで、やっぱりというかなんと言うかカップラーメン。ボールに放り投げられた野菜類は勝手に切って食え、ということなのだろう。このメンバーの中ではナルトの弁当が一番適当で、ワンパターンだ。米すらない。

「…ねぇ、ヒナター」
「何?」
「怒ってるー?」
「ええ。もちろん」

 きっぱりと言い切ったヒナタに、うっ、といのが青ざめる。とはいえ、いの自身は気がついていないが、ほんの少しの穏やかな休息でその顔色は随分とましなものになっていた。

「あとね、薬」

 はい、と差し出された小瓶。半分くらいまで詰められた見慣れた錠剤。全て、ヒナタとシカマルの手によって作り出されるものだ。

「っつかよ。お前マジで薬飲み過ぎ。それに使ってる薬草貴重なんだからもっと控えろって」

 本を片手に持ちながら、深々とため息をつくシカマルに笑って、ごめんねーと一応謝る。いの自身、飲みすぎていることはわかっているのだ。

「それじゃ、皆起こしてご飯食べようか?」
「そうねー。っていうか、何で寝てんのかしらねーこいつら」
「でも、いいお休みになったかもね」

 それにはうなずいて、笑う。

 気持ちが良いほどに晴れた、穏やかな日の出来事だった。





 まだ、鮮明に覚えている。
 初めて『山中いの』になったこと。
 『山中いの』に与えられた役目を知った日のこと。

 多分、忘れる日はないだろう。


「これは、契約だ」

 男の声は低く、たった一つの照明ではその顔をうかがうことすら出来なかった。





 いのが家に帰ると、既に見慣れた暗号がテーブルの上に置かれていた。
 しん、と静まり返った家の中、いのは笑う。

「現実なんてこんなものよねー」

 いののポーチの中、確かな薬の感覚だがやけに重かった。