くすり、といのは笑う。
いのでない者の姿で。与えられただけの姿で、指示された通りの格好で。彼女が身に纏うは暗部規定の黒衣。追い忍部隊のとき、あの3人と共に身に纏うものとはまた違う。
淡い金色の髪は、薄暗い茶褐色へ代わり、その長さも肩上より短い。背も普段の倍近くはあるだろう。追い忍部隊として任務を果たすときは主に小太刀を愛用しているが、今持っているのは打刀だ。小太刀も持ってはいるがほとんど使わない。
両手を広げ、先ほどからずっと組んでいた術を開放する。チャクラの塊と化したその術は全方位に拡散し、十数人の忍を捕らえると、するりと内部に入り込み、内側から侵食していく。
情報がいのに流れ込む。
身長、体重、身体情報、血液情報、術の種類、思考パターン、過去。
莫大な辞書の内容を全て頭に詰め込まれるような、脳の許容量を超えた情報の中から必要なものを選別し、抜き取る。
それで全てはおしまい。
いのに向かって刀を走らせていた忍も、術を使おうとしていた忍も、クナイを投げようとした忍も…術に捕らえられた全ての忍は白目を剥き、意味不明の声を喉から吐き出し、糸が切れたかのように、ぷっつりと倒れた。
確認しなくとも、息絶えている。
いのは、深く、深く、深呼吸し、喉元へせり上がる感覚を押さえつける。薬は既に飲んでおいたが、それでも、なお、嫌な衝動が身をすり抜け、全身から汗がふき出す。ともすれば力が抜けそうになる足を押さえつけ、そのままの姿勢を崩さぬようこらえた。
「…よくやった」
低い声。地の底から響くようなねっとりとした、嫌な声。
いのは顔を上げる。
「情報は、全て、書類に、纏めておきます」
声が震えぬよう、途絶えぬよう、小さくならぬよう、一言一言、はっきりと発音する。ぼやけた視界の中、長い金の髪を持つ男がうなずいた。視界の確かでないいのに、その表情は分からない。男の鋭い眼差しは、いのを観察するように注がれている。
「それでは、先に、帰らせて、頂きます」
振り返り、慎重に足を踏み出す。決して無様な姿など見せぬよう、全身を緊張させる。男の視線はどこまでも、いのを追う。その後姿が消え去るまで。ずっと。
十分に離れた、と思った瞬間、いのは駆け出した。ほんの少しでもいい。少しでも良いから、あの男のいる場所から離れたかった。
変化をとき、上忍を遥かに上回る速さで森を駆け抜け、見慣れた広場に出た瞬間、気が抜けた。
その瞬間、喉元から一度は忘れた衝動がこみ上げる。食べたもの全て、泣きながら吐き出す。つんとした独特の異臭は吐くものが無くても衝動を促す。視界がぼやけ、ぐるぐると回る。気がつけば地面が目の前にあった。運良く、吐き出した物とは違う場所に頭が突っ込む。横になっても尚こみ上げる衝動に、うつぶせになり、吐き出した。胃液が飛び散り、喉が胃酸で焼け、痛み出す。
「おい、いの!? 大丈夫か?」
ぼんやりとしたいのの耳に飛び込んできたのは、妙に必死な声だった。のろのろと頭を上げれば、黒い髪と黒い目をした少年の顔があった。
まともに働かない思考で、ぼやけた視界で、水を探す。手探りで薬を取り出し、口に放り込む。唾液だけで、何とか飲み込もうとすると、体温で錠剤の表面が溶け、苦味が口に広がった。無理矢理飲み込もうとすると、異物の混入により反射的に吐き気がこみ上げ、咳き込んだ。吐き出した薬に対し、勿体無いと頭のどこかで思う。
もう一度薬を取り出し、口に含んだ。十分に唾液をため、飲み込もうとしたが、それも結局は失敗に終わった。
「今、ヒナタを…っ」
「―――っっ」
朦朧とした意識の中、"ヒナタ"という単語ははっきりと聞こえた。反射的にいのは手を伸ばし、サスケの足を掴む。力の入らない手では掴みきることも出来なかったが、サスケがいぶかしげに振り返る。
「ひ、ぁ…た…は、よ、ば…ないで………ぉ、ね…が…」
それが、いのの言えた最後の言葉だった。ぐるりと視界が回って、もう一度頭から地面に突っ込み、意識は刈り取られた。
契約の内容は、簡単だった。
『山中いの』になること。
『山中』に相応しい存在になること。
『山中』の名を今以上に上げること。
『山中』の術を学ぶこと。
―――壊れない、こと。
"無"であった少女は、まき散らした吐しゃ物を見ながらそれにうなずき、契約は成立した。
目を覚ましたとき、気持ちの悪さは収まっていた。薬を飲んだわけではないから、めずらしい事だ。ぼやけた視界の中、薬を詰め込んだ小瓶が写った。その量は、昼にヒナタに貰ったときの半分ほどに減っている。
暗号で呼び出された直後に飲み、その後飲み込めず幾つかは無駄にした。それにしても減りすぎだと、いのは苦笑する。これではまたヒナタに怒られるだろう。彼女はいのが薬を飲み続けるのに、いい顔をしないから。少量なら良い薬であっても、飲みすぎれば毒だ。特に、この薬は通常に売られる薬では効かなくなったいのに、ヒナタとシカマルが作り出した特別なもの。
「起きたのか」
疲れたような声が、ポツリといのの後ろから落ちた。振り返るまでもなく、サスケだと分かる。
「んー。なーんか心配かけたみたいでごめんねー」
笑いながらいのが言えば、小さなため息が聞こえた。修行熱心なサスケのことだから、いのやナルト達が帰っても、そのまま修行に明け暮れていたのだろう。周囲はとことん暗く、星がちかちかと瞬く。
「今、何時か分かるー?」
「…2時」
「…あー…。ちなみにー、私がここに来た時は何時だったのかしらー?」
「…11時」
思わず大きなため息をつく。それだけの時間をいのは寝ていたのだ。周囲を見渡せば、既に散々吐いた物は見当たらなかった。サスケが処分したのであろう。
振り返ってみると、サスケは座り込んだまま全く別方向を見ていた。
その後姿に小さく笑って、下忍時のように飛びつく。サスケはそれを反射的に振り払おうとするが、相手が病人(?)だと思い出したのか、動きを止める。
「…サスケ君、ありがとー」
3時間、ずっとここにいたわけではないのかもしれない。それでも、目が覚めたときに誰かいるのは嬉しかった。人の吐しゃ物なんて汚くて、気持ち悪いだろうに、始末してくれたのがありがたかった。ヒナタを呼ばなかったのも助かった。
サスケから離れて、一つ息を吸う。
「最初にね、契約をしたの」
「………契約?」
「山中いのになった時にね。…お父さんと」
ナルトにも、シカマルにも、ヒナタにも、こうして夜に父と任務に出るときがある事を言ってはいない。そのときに限って、薬が激減することも言わない。
「山中いのとして相応しい存在になること。山中の術を受け継ぐこと。………壊れない、こと」
「………」
「山中の術は相手の精神に働きかけ、内側から探り、壊す。そうして相手の情報を、引きずり出し、殺す」
殺そうと思わなくとも、情報を引きずり出した時点で、大抵の人間は死ぬのだ。相手の頭の中に手を突っ込み、中身を探っているようなもの。まして、その人間を形作っている記憶や情報を無理矢理引きずり出せば、脳の機能は壊れ、精神は崩壊する。
「欲しい情報がすぐに見つかればいい。けれど、人間の生きてきた莫大な情報の中から、ほんの一握りを見つけるのは難しい。他人の記憶を受け止めきれない人間も、多い」
「…受け止められないと、どうなる」
「…想像はつくよね。…精神の崩壊。自己と他者の区別も出来なくなり、壊れる」
そういう人間を、何人もいのは見た。山中の名を持つ沢山の人間が、壊れ、朽ちていく様。
「だから、あの人は壊れない人間が欲しかった。壊れた山中いのとは違う、新しい山中いの」
それが、今の山中いのだ。
沢山いた子供の全てに、彼は精神に働きかける術をかけた。発狂し、次々と死んでいく子供たちの中、いのはただ吐き続けていた。
男が目の前に立ったとき、暗闇の中に光が落ちた。長い髪を持つ男が座り、その手に持つ光が子供を照らした。
―――これは、契約だ。
朦朧とした頭でうなずいた事を、いのははっきりと覚えている。
あの時から、吐く、という行為は、ひどく身近なことになった。
「山中の術を多用するとね、どうしても吐いちゃうのよねー。薬が減りやすいのはーそーいうわけ。ヒナタはーおせっかいだからー…心配しちゃうのよねー」
だから、今以上に心配なんてかけたくない。
そう言ういのの顔は矢張り青白かった。
「だから。今日のことは皆には内緒ねー」
まさかサスケに見つかるとは思いもしなかった。ヒナタを呼ばれてしまっては、これまで隠し通してきた全てがばれてしまうだろう。それは嫌だから。
「………」
返事が無いので振り返ってみてみれば、サスケがなんともいえない複雑な顔でいのを見ていたが、目が合った瞬間に逸らす。
「なんっで、そこで目を逸らすかなー」
「………」
サスケはそっぽ向いたまま大きくため息をつき、いのに背を向けた。方角的に丁度街の方向である。
「…言わない、から」
ぼそりと、聞こえてきた言葉に、いのは笑った。
空は沢山の星をちりばめていて、空気はひんやりと冷たくて、木々を揺らす風はやっぱり穏やかで。
ほんのひと時が、ただ愛しいのだと、いのは知っていた。
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第13回祝詞お題 『契約』
参加させて頂きます空空汐です。
前回の『狂乱』と同じ設定で、単独でも読めますが続きです。
今回はいのメインでした。やっぱりいのの名前が平仮名なので、他の言葉に埋没してしまいますねuu でもなんか微妙なこだわりで平仮名を通しました。読みにくかったらすみません。 あとあと、話全体通して吐いてばっかりですみません。
この設定では、いの=嘔吐&薬であることが書きたかったので、こんなことになりましたuu
契約はほんと単純な形をとりました。
気に入っていただけると嬉しいです。
読んでいただきありがとうございました。
空空汐/
空空亭