少女は宙に軽々と舞った。
同時に一人の少年が、草をむしる作業をやめて顔を上げた。
同時に一人の少年が、足を止めて周囲を窺った。
『木の葉の銀獣』
〜目覚める獣〜
「―――ヒナタぁぁあ!!!!」
「ヒナタ!!」
「ヒナタッ!!!!!」
3つの声と同時に少女の体が宙に浮いていた。
何が起こったのか理解できず、それでも本能的に少女の名前を呼んだ。
宙に浮いた少女の体には、何本ものクナイが突き刺さっていた。
それは、いつ飛んできたのか…誰の目にも、上忍である紅の目にも見えなかった。
敵がどこにいるのかも分からない。
紅は視線をめぐらし、キバとシノはヒナタに駆け寄った。
キバははっきりと、シノには珍しくも他に分かるくらいに、焦りと恐怖がその顔に満ちていた。
―――だが…
「ひな……た…?」
「…………!?」
二人の目の前で、小さな少女の体が一瞬にして消え去る。
紅が目を見張った。
「影…分身…」
それは上忍レベルの技で、ヒナタのような下忍が使えるような技ではなく、現にヒナタが使ったことなどない筈だ。
第一使えたとしても、あのほんの一瞬で、いつ印を切ったというのか―――。
『―――影分身か』
不意に、低い低い声が3人の耳に鳴り響く。
戦闘体制を整えながらも、彼らは驚愕に満たされ、どう見ても平常とは言えなかった。
唯一―――紅だけが、本心はどうあれ冷静を保って見せている。
「何者―――?」
険しい紅の誰何の声に、けれど声は相手にすらしなかった。
『―――さぁ…出てきてもらおうか?日向ヒナタ』
その応えはない。
2人の少年達は恐慌の中で、一瞬だけ安堵を見せる。
よくは分からないが、彼女は確かに生きているのだ。
『応えぬか…10秒待とう。貴様が出てこぬならこやつらを一人ずつ殺す』
「―――っ!!」
3人は息を飲み、冷たい汗を流した。
どこからともなく流れ出てきた、おびただしいチャクラに、動くことすらままならない。
はっきり言って、この敵は自分達など相手にならない。
それは3人同時にかかっても―――だ。
なんせ、声は聞こえていても、諜報能力に優れたシノの蟲にもキバの鼻にも、未だ敵の居場所が掴めないのだ。
『10…9…8…7』
そんな、3人など埃のほどにも感じていないのか、声は全く自然にカウントを始めた。
だが、何も変化は起こらない。
刻々と数字が減っていく。
『3…』
(ヒナタ―――)
できることなら逃げてほしい―――と、紅は望む。
『2…』
(ヒナタ―――!!)
なんか分かんねぇけど、出てくんじゃねぇぞ!!―――と、キバが歯軋りし、赤丸が弱々しく鳴いた。
『1』
(ヒナタ…)
来るな―――…と、ただそれだけをシノは思った。
『では一人目ですね』
どこからともなく飛んできたクナイは、勢いよくキバを狙った。
「―――っっ!!!!!」
完璧に死を覚悟した。
息を呑むことしか出来ない。目を反射的に閉じる。
が
「生き…てる…のか…?」
その弱々しい声に、赤丸が応えた。シノが紅が、呆然とこちらを見ている。
キバの目の前に一つの影。
それは…
紛れもなく同じ班の少女の姿―――。
思わず鋭い声が口をついて出る。
「ば…っか!!ヒナタ…何してんだよ!早く逃げろっっ!!」
だが少女がその声に応えることはない。
変わりに響く少女の声。
「何が目的ですか―――?」
その…凛とした澄んだ声に、誰もが耳を疑った。
弱々しくおどおどとした、そんな声ではない。
けれど強い響きを持つそれは、確かに自分らのよく知る少女のものだった。
ヒナタは前に進み出て、重ねて問う。
「何が目的ですか―――?」
一歩進むごとに冷たく、硬く、抑揚のない声に変化していく。
真っ直ぐに立ち白眼を発動させた彼女は、今まで見たことのないような冷たい瞳をしていて。
紅もシノもキバも―――
だれもが己の目と耳を疑うしかなかった。
『死んでもらいます』
返事はそれだけだった。
それと同時に、ヒナタの元へ幾つものクナイが降りかかる。
「ヒナタッ!!!」
仲間達の叫びが届く頃には、すでにヒナタは印を組み終わっていた。
クナイの全てが、突如起こった風に巻き上げられる。
その中の幾つかを抜き取って、ヒナタは投げた。
既に場所の見当はついている。
チャクラを練り印をきる。それだけの動作が、他の3人の目には冗談じゃなく見えない。
術の完成とともに、8班の3人の周りを半透明の膜が四角く覆った。
結界の一つ。これで、彼らに危害の及ぶことはないだろう。
「紅上忍!!」
「―――はっ!!」
強い響きの声に、紅は思わず切れのいい返事を返した。
相手がヒナタであるということすら忘れてしまうような、それほどまでに圧倒的な力を持った声だった。
「暗殺戦術特殊部隊―――木の葉の銀獣が一人、蒼黒の名において、ここからの早急なる退避を任務として言い渡す―――」
「蒼黒っ!?」
紅の驚愕の声に、被さるようにして声が重なった。
『逃がしませんよ!!』
同時に遠く結界が張られるのを感じた。
ちっ―――と、一度だけ舌を鳴らして、少女は不敵な笑みを浮かべた。
「…悪いけど、その程度で私を殺すつもりなら…甘いですよ―――」
『甘いのはそちらです!第一この人数相手に勝つつもりですか―――!!』
嘲笑を含むその声に、ヒナタは全く反応しなかった。
確かに囲まれている上に、相手もかなりの実力ぞろい…。
実際のところかなり危ないが、それを顔に出すほど未熟ではない。
心理の上で相手より有利に立つことが、何よりも重要なのだから。
「だから何?あんまり舐めないでくれる?"赤煙の銀狼"の牙は鋭いよ?まぁ"金色の銀孤"には負けるけどね」
余裕を崩さずにひどく冷たい笑みを浮かべて、ヒナタは巻物を取り出し、チャクラを練る。
誰が止めるより早く、一瞬のうちに取り出された一振りの刀。
それはひどく鋭く、そして…ひどく長い。
ヒナタのその身長の2倍ほどもある長刀。
"赤煙の銀狼"がふりかざすチャクラ刀、紅月―――。
ヒナタが舞う。
刀を軽々と持ち上げて、重力などまるでないように、銀の軌跡だけを描いて、獲物を捕らえる。
「―――っっつ!!」
楽々と間合いを詰められた声の主、30半ばの細身の男は、かろうじて紅月を避けることに成功した。
ヒナタは構わず、一度は縦に振り下ろしたその長刀を、下から斜めに振り上げる。
血飛沫が舞った。
それの犠牲になったのは、声を出していた男ではなく、隠遁していた別の男―――。
隠遁の術が破れ…ずるりと胴体がずり落ちた。
銀の軌跡は更なる獲者を求めて、すぅ―――と、横に流れた。刀についた血が煙となって紅く紅く立ち昇る。
"赤煙の銀狼"の由来そのままに―――。
それは名刀でもありチャクラ刀でもある紅月の力―――。
常に高温を発し、それはすべてを焼き尽くす。血のような液体は一瞬において蒸発する。
その様はまるで煙のように。
「では一人目ですね?」
目の前の細身の男のさっきの口調を真似て、ヒナタは笑った―――。
それは相手が誰であっても、心から恐怖を覚えてしまうような…
壮絶で…けれどどこか妖艶な笑み。
男は死を覚悟した。圧倒的な力の差があった。
男に紅月という名の牙が襲い掛かり、一つの命がそこで終わった。
彼の首が飛ぶと同時に、周囲の殺意が膨れ上がる。
おそらくこの男は小隊長の一人。
ヒナタは紅月を肩に担ぎ、ぐるりと首をめぐらせた。
「出てこないの?じゃあこちらから行こうか?」
くすくすと妖艶に笑う少女に、8班の者達は震えを禁じえなかった。
そして紅は動きたくとも動けなかった。ようやく気付いた周囲を囲む敵の多さに。
今動いても、自分達が逃げれる可能性はないに等しい。
なぜなら自分達はヒナタの足かせであり、ヒナタに対しての人質でもあるのだから。
何よりも―――…。
感情がついていけなかった―――。
存在を知ってはいた。
"赤煙の銀狼"こと蒼黒―――
"金色の銀狐"こと銀赤―――
"黒雷の銀鷹"こと白金―――
暗部の3忍と謳われた…色彩を名にもつ者達の存在を。
基本小隊の4人で動くことはなく、単独か…この3人だけでしか動かない。暗部は火影の忍であるが、それでも他の上部のものに繋がる者も多い。しかし、この3人は純粋に火影に仕える、火影しかその存在を動かすことは出来ない、暗部の中でも特別な存在。
誰もその正体を知らず、闇だけに生きる存在。
それはまさに…
―――木の葉に解き放たれた銀獣達―――
その伝説と呼べるほどの存在が…
その中の一人…蒼黒が―――
目の前の―――自分の部下であった日向ヒナタだというのか―――?
我知らず吐息の様な声が漏れる。
また一つ命が消える。
舞うは赤煙。飛ぶは銀狼。
確かにその様は人であって人ではない。
獣そのもの―――
キバのそれなんて話にならない。
「あれが…ヒナタ…?」
「………」
信じらんねぇ―――と、キバが弱々しく漏らす。
それは3人全員に共通した気持ち。
キバもシノも蒼黒の存在は知らない。
けれど、彼女のその圧倒的な強さだけは伝わってくる。
紅の驚愕から見ても、名の知れた有名な暗部の名前だと言うことが分かる。
血が流れる。
面白いほど簡単に首が飛ぶ。
キバとシノが吐き気をこらえて視線を反らす。
震えが止まらない。
紅でさえも目を背けたくなるような惨状がそこにはあった。
断絶間の悲鳴が幾たびも幾たびも上がって、紅い紅い煙がどこまでもどこまでも立ち昇る。
それを顔色一つ変えず、淡々と行っているのは…よく見知った、友人であり、守るべき存在であり、仲間である少女なのだ…。
夢―――なれば、どんなに幸せだろう。
だが夢じゃない。
「ぅあぁっぁあぁああああああああ!!!!!!!!」
一人の忍びの体が結界に打ち据えられた。その身体が結界に血を引いて、ずるりと崩れ落ちた。
そのことによって見えたヒナタの表情。
そこに彼らのよく知る彼女のものはない。
冷徹で残忍―――感情の一欠けらも見当たらない硬質な輝きを放つ瞳。
至るところに血をこびりつかせ、彼女は崩れ落ちた忍びに平然と止めを刺した。
血煙がゆるゆると立ち上る。
一瞬だけ―――8班の面々と視線が絡まった。
その瞳に表情はない。
まるで…表情そのもの―――感情そのものを忘れてきてしまったような…空っぽの瞳。
―――全身に鳥肌が立った。
彼女は―――死人を思わせた。
だがそこで、3人はようやくヒナタが全身に傷を負っていることに気付く。
それは、あまりに違うヒナタの様子と強さに隠されて、全く見えなかったが…足にクナイが深く突き刺さって、小さなかすり傷は至るところについて、その厚手の服は破れかぶれになっていた。
クナイはそのままに、少女は紅月を上段に構え、襲い来る忍び達を迎え撃つ。
1人目をただの肉塊へと変えたとき、ヒナタの足に土が絡みついた。土遁の術による拘束。
術によってその場に縛られたヒナタは、チャクラを練って、絡み付いてきた足のチャクラ穴からチャクラを放出し、拘束を抜け出すと、近くの木の上まで跳び移る。
しかし、狙い済ましたかのように業火が襲う。
「―――ヒナタッ!!!」
一瞬にして、彼女の全身を炎が飲み込んだ。
炎は大きく燃え盛り―――
そして消えた。
「バカな―――っ!!!」
「紅月に炎?バカなのはそちらです―――」
嘲る笑み。だが視線は冷たく、何の感情も見受けられない。
ヒナタは紅月に吸収させた炎を、今度は発散させた。
さっきヒナタを襲ったものと全く同じものが、周囲を襲う。
だが―――
彼らもまた…無事だった。
「そろそろ限界ですか―――?」
「貴方達が…でしょうか?」
にやにやと―――嫌らしい笑みを、口に刻んだ男の言葉に、ヒナタは間髪入れずに言い返す。
だが―――確かに少女は限界に近く、チャクラは残り少なかった。
(やばいかな―――)
血を流しすぎた。
すでに20人は切っているが、それと同じくらいは残っているだろう。
"赤煙の銀狼" 蒼黒の名は、それほどまでに大きい。
「さてさて、そろそろ止めを刺しましょうかー?銀獣を殺せば木の葉はより手に入りやすくなりますからねぇー」
口だけに笑みを浮かべて、男は悠々とヒナタに歩み寄る。
「最後まで…舐めない方がいいですよ…」
「負け惜しみも虚しいとは思わんのかねぇ?」
ヒナタの言葉に、男は更に嘲りを強め、だが少女は構わず紅月を地へ深く突き刺した。
「獣は…最後まで牙と誇りを失いません」
紅月の柄にもたれるように頭をのせて、ヒナタは言葉を紡ぐ一方で長い長い印を組み始める。
ゆっくりと息を吐いて、チャクラを身体中から搾り出す。
その想像以上の消費に、ヒナタは白眼を解いて、そのチャクラすら術へとまわす。
紅月から立ち上る血煙がヒナタを纏った。
「ヒナタ―――!!!」「ヒナタっ―――」「ヒナタっ!!」
3人分の警告の声。
男が手裏剣をヒナタへと投げつけた。
だが、ヒナタが纏う血煙がそれを拒んだ。
血煙と目に見えるほどのチャクラが、絡み合い、混じり、溶け合い…ヒナタの体へとまとわりつく。
手裏剣を無駄と取ると、男は自ら走り―――
―――そしてヒナタの術が完成した―――。