『違和感』
例えば髪を払い除けるその仕草とか。
例えば笑うときに指を唇に近付ける動作とか。
それは、どんなにも近くても
どうしても
どうしても
抱いてしまうこの違和感。
彼はあの人ではなくて。
あの人は彼ではなくて。
けれどもどこまでもよく似た相似形。
だから、近くにいてほしい。
だから傍にいないでほしい。
どうしたらいいのだろう。
分からないままに。
答えは出ないままに。
無情にも
無情にも
時は過ぎ去る。
金色の髪が太陽に輝いて、それが眩しくて眩しくて…。繋いでくれた手が暖かかった。
逆光にてらされた顔はあまりよく見えなくて、けれども2つの瞳が優しく微笑んで―――……泣きそうになった。
うれしくて。
悲しくて。
切なくて。
けれども笑った。
今はもう、記憶の中にだけの存在。
視界がにじんだ。
それは、幸せで、あまりにも残酷な夢―――。
「火影様?」
静かな声が、ノックの音と共に執務室に響いた。いつもなれば自分が来るのを予測して、「入れ」なり「来い」なり言ってくるのだが。通常とは違うその様子に、どうしたものか、と逡巡して、結局は扉を開けて身をすべりこませる。いつまでも同じところに突っ立っているのも不自然だし、あまり人に見られたいものでもない。ただでさえ、火影からもっとも信頼の厚い3人組に敵視されているのだ。彼らの不信を煽ることもない。
火影の椅子は窓の方を向いたまま、うんともすんとも言わなかった。大きな椅子は小さな火影の体をすっぽりと隠してしまうので、後ろからでは見えない。
「火影様?」
呼びかけながら椅子の前まで回り込む。そこに座す、変わらぬ火影の姿。ただ一つ違うところがあるとすれば…目を伏せたまま、健やかな寝息を立てるその様子。
呼び声にか、気配にか、わずかに瞳を開いて、火津の姿を反射させる。火影の瞳に映った自分の姿を拒むように、火津は目を伏せ、それと同時に火影もまたゆるやかな眠りについた。
「………ヒナタ」
白い髪が、ふわりと風に舞った。同時に、カーテンがはためき机の上から書類が飛ぶ。それを眺めながら、ああ、窓が開いていたのか、と、ほとんど無意識に書類を拾い集め、机の上に重ねて重石をのせる。
窓の枠に両肘を乗せて、体重を預ける。そのまま、ただ、ぼう、と火影の寝顔を見ていた。
あまりにも珍しい、穏やかな、穏やかな、静かな寝顔を―――。
けれど。
几帳面な音のノックが2回。
無情にも執務室に鳴り響き。そのときには、もう、火影は火影としての体裁を整えていた。
「入れ」
言葉と同時に、火影は椅子をくるりと回転させる。火津を見ることはしなかった。火津もまた、何事もなかったように、火影の後ろに立つ。
「失礼します」
入り込んできた姿、は。
「何だ、シカマルか」
「………なんですかその言い草。気配で分かるでしょうに」
珍しい敬語…とはいえないが、一応の丁寧な言葉遣いに、火影は眉を潜める。火津も同様。
火影のご意見番であり、火影の本性をよく知る数少ない一人であるシカマルは、基本的に火影に対して対等の立場で話す。丁寧な言葉遣いは事情を知らない者の前のみだ。
今は、火影と火津とシカマルの3人。使う必要はない。
けれども。
シカマルが開けたままの、執務室への扉。
そこにもう一人。
いつの間にか立っている事に気づいた。
その気配に気づけなかった事に驚愕し、けれども納得した。
「…砂からはるばるよく来てくれた。………テマリ、上忍」
「………」
執務室の前で立ち尽くしたまま、まったく動こうとしないテマリに、シカマルが眉を寄せる。この忍がこんな呆然とした風を見せるのは普段では考えられないことだ。
「………おい。テマリ?」
「…ん? あ…。ああ。すまない。この度は風影の命にて馳せ参じた。合同任務と聞いていますが」
「その通りだ。……書類を」
火影の言葉に、火津は先ほど拾ったばかりの任務書を引き抜く。ある程度の難易度を持つもの。砂で年若くして上忍となった彼女を使うに値するもの。渡された任務書に目を通して、火影は机の上にそれをのせる。
「任せる。合同任務メンバーとは現場で合流してもらう。ただ、発つのは明日だ。今日は疲れもあろう。ゆっくり休んで欲しい。宿はこちらで手配する。いつもの場所で構わないだろうか?」
「構わない」
「では案内を呼ぼう」
「いや…申し訳ないが、案内はいい。見張りなら、こいつで構わない」
こいつ、とシカマルを指して、けれども火影は首を振った。
「ダメ。そいつには用がある」
「そう、か」
シカマルは僅かに落胆して、息をつく。こいつとかそいつとか…相当軽く見られているのではないだろうか。
「………火影様。私が、行きます」
「「…っっ」」
息を呑んだのは、2人、同時。
シカマルはそれに気づかず、訝しげに火津を見た。火津が火影に関すること以外に動くことなんてほとんどない。その筈だ。それなのに、なぜ、動く?
僅かな警鐘をシカマルの脳裏が鳴らしたころ、火影は重く頷いた。
「……………………いいだろう。頼む」
「……………」
テマリは何も言わず、ただ、するりと執務室から出て「失礼します」と声だけが聞こえた。それを、火津もまた、何も言わずに追いかける。
あまりに素早いその動きに、唖然として、シカマルは見送った。
「なんで、あいつ…」
まさか、テマリに興味を持ったのだろうか?
脳裏に浮かんだ考えを慌てて打ち消す。まさか。ありえない。だって、相手はあの火津だ。始終火影の傍に仕え、火影の為に生きているような火津だ。それが…他の人間の為に動くなんて…。
血の気の引く音がした。
まさか。
「……嘘だろう?」
意図せずに零れた言葉に慌てる。それを隠すように、シカマルは声を張り上げた。
「ヒナタ! 用は!?」
「………え?」
「だから、用」
少女の反応はいつもに比べてあまりにも鈍くて、けれども必死なシカマルは気づかない。
少女の視線が2人の去った扉からまったく動かなかったことにも、気づかない。
けれど。
火影は、シカマルの声にぎこちなく扉から視線を引き剥がした。
「用、ね…。確かあんた向きの仕事が…」
「っていうか、テマリとの合同任務、俺じゃダメなのかよ」
「それは―――ダメ」
「何で」
「何ででも」
絶対に嫌。口には出さずに、任務書を引き抜いて、突きつけた。不満そうな顔をしたシカマルは気にしない。さて、テマリとの合同任務の忍は誰にしようか。
「………キバ、かな」
呟いて、何か言いたげなシカマルは手で追い払った。
シカマルの気持ちがテマリに向いていることなんて、最初から分かってる。けれど、それを成就させてやる気なんて一切ない。
………今のところは。
火津は、確かに見張りであった。
テマリの後ろをただ付いて歩き、何を言うこともなく、ただ、見ていた。
珍しい白髪の青年に、好奇の視線が突き刺さる。中には何故彼がここに、という意味合いを含む視線もあった。それだけ、彼は火影の付き人として知られているから。
やがて、テマリが木の葉に来たとき必ず宿泊する宿が見えて、その時のみ火津は前に出た。火影の用件を伝え、火影の印の押された上質の紙を見せる。それは火影の意を伝えるための必需品。あまり、使われることはないが…。
テマリは軽く宿の主人に礼をして、階段の手すりに手をかけた。ほんの僅かに、動きを止めたが、それだけですぐに上にあがる。
結局、一度も火津の顔を見ようとはしなかった。
テマリの後姿を見送って、火津は自らも宿を出る。彼自身、一度もテマリの顔をまともに見なかった。…いや、見れない。
宿を出て、火津は振り返る。宿の2階。テマリの泊まるその場所を見上げると、宿から自分を見下ろす女と目が合った。
もどかしく、口を開いて…。
けれど、結局は何も言えず、テマリがカーテンを引いて身を隠すまで、ただただ見上げていた。
「………ごめん。テマリ…。…………ごめん……―――」
唇は空虚に一つの名前を結んで。強く、強く、手のひらを握り締めた。
ここ最近の彼女は…明らかに自分とヒナタを避けていた。
だから。
……返ってきたのではないかと…そう、思って………。
けれど、自分が彼女に何を言えるというのだろうか。
―――彼女にとって誰よりも愛しい者を殺してしまったのは自分でしかないのに。
「―――ふっ……くっっ」
両手で、己の口をふさいで、声を抑える。
違う。違う。違う。違う。
―――あれは、違う―――
「………ふぁっっ……あ…あああ」
違う。
「…ごめ、助け、れな…ち、ちが…………ナル……ひ、な…た…・」
違う。
「ひ………ちが………づ………」
―――例えば髪を払い除けるその仕草とか。
―――例えば笑うときに指を唇に近付ける動作とか。
ちがう。
ちがうちがうちがうチガウチガウチガウチガウチガウチガウチガウチガウチガ……………………………………………………………………………………………………………………
「違う!!!!!!!!」
涙に濡れた目で、笑った。
「そう。違う。―――だってあいつは生きてる」
そうだろう?
「なぁ―――ナルト―――」
返事は決して返らない。
2007年4月8日