「テンテンさん」

 呼ばれて、テンテンは反射的に立ち止まる。大学を出てすぐだった。
 聞き慣れない、けれど昔どこかで聞いたことのある…そんな懐かしい声だ。
 振り返って目に入った姿に、呆気に取られて立ち止まった。こんなところで見るはずもない相手だったから。

「ヒナちゃん?」
「は、はい。あのっ、お久しぶりです」

 ぺこりと頭を下げるのは、肩までの黒髪を揺らす少女。高校時代の後輩で、日向ネジの従姉妹。卒業してからはそんなに会わないが、たまに姿を見かける。
 驚きと共に少女を見つめて、何度も瞬きを繰り返す。

「どうしたの? 学校は…って日曜日か。えと、ネジに用だった? 探してこようか?」

 続けざまに飛び出した軽快な言葉に日向ヒナタは首を振って、ほっとしたように笑ってみせた。

「良かった…」

 ネジ兄さんは、貴女に何も話していないのですね。
 続く言葉はヒナタの心の中で終わる。
 全然意味の通じない言葉に、テンテンはきょとんとして眉を顰めた。
 ヒナタはまるで頓着せずに、テンテンを見上げる。どちらかと言えば小柄なヒナタに対して、テンテンが長身なので、まさに見上げるという表現は正しい。

「あ、あの、お願いがあって」
「タンマ。それって長い? 長いんならさ、ちょっとお茶しない。私、結構喉渇いちゃってるんだ」
「そっ、そんなに長くは…」
「ま、いーからいいから。お茶しましょうお茶。可愛い喫茶店見つけちゃったんだ。なんと占いも出来るの」

 慌てて首を振るヒナタの手を問答無用で捕まえて、テンテンはにかりと笑った。その目は実に楽しそうに輝いていて、すごくまぶしい。
 そのまま引きずるようにして、テンテンは年下の少女を誘拐した。





 それで、今メニュー表とにらめっこしている。
 ヒナタは控え目にシナモンティーを選んで、テンテンは。

「すいませーん。キャラメルマキアートとチョコバナナシフォンのアイスかけとブラックベリーのパイとまったりベイクドチーズケーキと黒蜜かけ和風パフェくださーい」

 あっけに取られるヒナタの眼も気にせずに一気に言いきった。
 にこにこと満面の笑顔で、ヒナタに向き直る。

「あっ、あの、そんなに食べられるんですか?」
「勿論、ヒナちゃんも一緒に食べるのよ」
「………!?」
「ああ、お金はちゃんと払うから。ほら、こういうとこって種類多いからさ、沢山制覇したいじゃない? でも1人じゃ食べきれないから2人で分けると色々食べれて楽しいでしょ。あ、でももしかして甘いもの嫌いだった? もうちょっと甘くなさそうなのにした方が良かったかな…」
「あ、いえっ、だっ、大丈夫です…甘いもの、好きですから」
「そう? 良かったーネジもリーもこーいうの嫌いだからさ、ぜんっぜん付き合ってくれないの。だからヒナちゃんと来れて嬉しいな」

 聞きなれた名前に、ヒナタは一瞬視線をそらす。テンテンは本当に楽しそうに話すから、なんだかとても、いたたまれなかった。
 彼女は知らないけど、ヒナタは彼女がネジが好きなことも、ネジが彼女を好きなことも知っているから。ネジがそれを彼女に伝えようとしないのは、ヒナタ自身の所為に他ならなかったから。

「…あの」

 視線を逸らして、俯いて、照れくさそうに、おどおどと。
 相手によっては苛立つ挙動にも、テンテンはまるで気にしない。ちゃんと待っていてくれる。
 そんな優しさが、とても自然な人。
 だから、すごく申し訳なくて、心の中で何度謝ったかわからない。

「うん」
「てっ、テンテンさんは、ねっ、ネジ兄さんの事…まだ、す、好き、なんですよねっ?」
「うん?」

 両肘をテーブルに乗せて顎を支えていたのが、かくんと外れる。眼をまん丸に見開いたまま固まるテンテンを見て、素直な人だなぁとヒナタはしみじみ感心した。日向家の中では滅法見られないような顔。

 可愛い人だと、思う。
 自分みたいな作った性格じゃなくて、心からの言葉が溢れている人。
 どこか近寄りがたい日向ネジや、色んな意味で近寄れないロック・リーと長く付き合えるだけの事はある。だから…きっと自分は彼女が好きなんだと思う。日向ネジの付属品としてではなく、テンテンという女性を。
 まさかそんな事を思われているとは知らないテンテンは、何度か口を開け閉めして、視線を泳がした。

「えと、ね、ネジが?」
「ねっ、ネジ兄さんは…何も。でも、あの、そうなんですよね…?」
「あーーーーーーーーー…。あたしって、そんなに分かりやすいのかなぁ。…恥ずかしいったら。ヒナちゃん、それ…もしかして、皆知ってたりするの?」

 曖昧に首を傾げることでヒナタは誤魔化す。
 気付いている人は他にもいると思うけど、ヒナタはどのくらいそうであるのか知らないから。

 真っ赤な顔で頭を抱えてしまったテンテンを不審な目で見つつ、店員が次々とケーキを置いていく。机一杯にケーキ皿と飲み物が並んで、甘い香りが満ちる。頼むだけ頼んだテンテンは到着に気付くと様々な香りに顔を上げて、嬉しそうに笑った。

「お、い、しそーーーーーーーっ」

 早速フォークを手にもつテンテン。
 それを見ながら、ヒナタはシナモンティーに口をつけた。
 甘さは殆んどないけど優しい香りに気持ちが和らぐ。
 テンテンもまた甘いキャラメルマキアートを口に含んで、幸せそうに顔をほころばせた。口をつけたマキアートにスプーンを突っ込んでかき混ぜる。キャラメルが白いふんわり泡とぐるぐると溶け合って、色が変わっていく。

「…でも、あたし、こないだ振られたんだ」

 ぐるぐると回しながら、ポツリとテンテンはこぼした。
 溶け合ったキャラメルマキアートを口に含んで、少し、笑う。
 それを忘れてしまえるほどの時間はまだ経ってなくて、じくじくと胸の奥で溜まっている。消化不良の気持ちをどうすればいいのか、テンテンには分からない。

「結構、気が合うし、さ。私も調子乗ってたんだと思うんだよねー。なんか、皆にからかわれたりもしてさ」

 良い雰囲気になったこともあるし、2人で出かけたりしたことも沢山ある。というか、大抵ネジとリーの2人と遊ぶから、2人きりになるのは案外多い。同じくらいリーと2人になることが多いが、リーはあれで彼女もちだし、幼馴染という関係の所為か全く意識した事がない。それは向こうも同じだろう。
 いつも一緒にいて、それが当たり前になって、楽しくて仕方がなかったから、きっと勘違いしていたのだ。
 ネジも自分と同じ気持ちでいてくれる、なんて。

「あっ、こんな話楽しくないよね。ごめんねヒナちゃん暗くしちゃって」

 何も言えずに縮こまっている少女に気付いて、テンテンは慌てて手を振った。
 目の前にあったベイクドチーズケーキを切り分けて、どうぞと皿を押す。他の皿も同じようにして、和風パフェだけは先に少し頂いた。黒蜜のほろ苦さのある濃厚な甘みが口一杯に広がった。
 ヒナタは静かにそれらを口に含む。
 美味しいのに、どれもなんだが苦く感じた。

「ネジ兄さんの、こと」

 鮮やかな色合いのケーキを見ながら、言う。
 視界の端に写るテンテンの手が少し、震えた。

「諦めないで、貰えますか」
「………え?」
「…ずっと、好きでいて欲しいんです。時期が来るまで、ネジ兄さんを想っていて欲しいんです」

 ゆるりと視線がぶつかる。
 色素の薄い大きな瞳と、こげ茶色の瞳がぶつかって、瞬きを繰り返す。
 テンテンは、息を呑んで目の前の少女を見つめた。

 果たしてこの少女は、こんなにもまっすぐで奇麗な瞳をしていただろうか。
 こんなにも強い、全てを射抜くような眼をしていただろうか。

 けれどもそれは一瞬。
 口に入れたクリームが溶ける、淡い瞬間。

「あっ、あの、ごめんなさいっ。きゅ、急にこんなこと…でっ、でも、あの、お願い…出来ますか…?」
「あ、う、うんっ」

 みるからに一所懸命な勢いに押されて、つい、頷いた。
 日向ヒナタがほんの一瞬見せた、真っ直ぐで強い視線を、テンテンはこの先一生忘れる事はなかった。それはまだ、彼女の知らぬことだけれど。

 今目の前にいる日向ヒナタは、ほっとしたように、ゆるり、笑って。
 おいしそうにケーキを頬張っていたから。

 だから、テンテンは無意識に感じていた違和感を気にしないことにして、同じようにしてケーキをつついた。




 そして、これが高校生活最後の休日。




 もうすぐだな、と歩きながら少年は言う。
 そうね、と歩きながら少女は言う。
 冷たい瞳で。
 少年少女らしくない眼差しで。

 やるべきことはもう大体やったから、したいことをした。
 猶予期間はもう、ない。あとは前に進むだけ。
 全力で、進むだけ。

「そういえば、ナルト君はいつもジャージだね」
「楽だし。ヒナタは露出がねーな」
「まだ寒いし」
「いのは短いズボンだし、サクラはミニスカじゃん」
「そこまでお洒落に必死になれない」
「なるほど」

 道理だ、とナルトは笑って。
 その笑い方が案外年相応で可愛らしかったから、ヒナタも自然と笑った。

 きっと昔日向ヒナタが憧れた、好きな人と過ごす当たり前の日々。当たり前のなんとでもない会話。
 有り得ないはずの邂逅から始まった、有り得てはいけない大切な毎日。

 歩いていたら、思ったよりも早くキバたちとの待ち合わせ場所について。

「キバ君のこともね、シノ君のことも、大事だったの」

 なんでもないことのように、何かのついでのように簡単に、ぽつりとヒナタは零す。嘘偽りのない、正真正銘の事実を。
 思う。
 こんなに素直な気持ちで人接することは一体いつ以来だろうか。
 物心ついたころには役目があって、見たくもないものを否応無しに見せつけられて、感情を少しずつ、少しずつ殺して、殺して。
 家族も親戚も友達も見せ掛けだけで。
 ―――望むことを見せる予知という力は、代償に日向ヒナタの全てを持って行った。

「ふぅん」
「嫌われてたし、散々迷惑かけたけど、それでも一緒に居てくれた」

 だから、好きだった。
 大事だった。
 彼らのモノを奪うたびに自分が嫌になった。
 彼らが何かを諦めるたびに自分を呪った。

 そうした色んな摩擦が、日向ヒナタに普通の生活を諦めさせて。
 歪な関係に蓋をして、色んなものに目隠しをして、何事もなかったかのように平らにして、綺麗に整ったおぞましい道を何も知らないふりして歩いて出来た毎日。

「―――ナルト君」
「―――んだよ」
「全部、ぶち壊しにしてくれて、ありがとう」

 守りたいと思った日常とか。
 優しい従兄弟の未来とか。
 犬塚キバの抑圧された感情とか。
 油女シノの優しい誇りとか。
 小さな小さな妹の姉に対する憧れとか。

 日向の幾重にも重なった檻を、予知に縛られた人生を。
 隠し続けてだまし続けてきた自分を。

 清々しいほどにぶっ壊して踏みにじって。 

 叶わぬ夢を見せてくれた。

「…ってか、礼言うようなことでもねーだろ。むしろ―――」

 むしろ反吐が出るほど最低で最悪な行為を、嬉々として行っただけだ。
 うずまきナルトの手は日向ヒナタを殴り倒した感触を覚えている。殴り、蹴り、押さえつけ、踏みにじった。関節の軋む音は耳に残り、苦痛に歪む顔が欲しくなった。意地でも負けを認めようとしない姿も、普段見ていた時とは全然違う性格も、まるで鏡に映った自分のようで。
 川岸で佇む後姿は冷たくて、厳かで、孤独だった。
 初めて向き合った時の興奮と高揚。
 対峙し、構え、その緊張と圧迫。戦いにおけるひりひりとした焼け付くようなスリル。
 負けを認めさせたくて傷つけて、うずまきナルトを無理やりに刻み付けて。
 それでも全然足りなくて、欲しくて欲しくてたまらなくなって。
 強烈な飢餓に、まるで獣のように日向ヒナタを貪った。

 全部、自分勝手な都合だ。
 日向ヒナタの全部をうずまきナルトは求めた。
 日向の身体を、仕草を、精神を、言葉を、吐息を、己の腕に閉じ込めて。
 それでも足りないと伸ばした手は、柔らかく、何もかも許すように受け止められた。

 深々と、本当に深々とナルトは息を吐く。やりきれないままの、消化不良な感情を吐き出すように。

「―――ナルト君?」
「…お前ほんっとわかんねーよ」
「そう?」
「―――なぁ、ヒナタ」
「何?」

 柄にもなく、ナルトはまっすぐに日向ヒナタを見下ろす。
 緊張していた。多分、ずっと前から言いたかった。
 日向ヒナタに好きだと言われ。
 自分も日向ヒナタを好きなのだと気づかされ。
 屋上で抱きしめた小さな温もりはとても愛しかった。
 真っ白な頬を、艶のある黒髪を撫ぜるたびに、自分が何をしたのか、どれだけひどいことをしたのか、何度も何度も思い起こされる。
 贖罪に全力を尽くそうと思う。あの行為は何をもってしても許されることではないと、今なら思うから。
 
 ―――悪かった。ごめん。すまない。
 あれからずっと、言えないままになった素直な言葉。
 謝罪の言葉は世界中のどこかしこに転がっているのに、うずまきナルトの口からはちっとも出てこようとしない。喉元で引っかかって、息が出来なくなる。
 謝罪なんて、幾らでもしたことある。当たり前だ。生きていくにあたってこんなに必要な言葉もないだろう。
 けれど、そこに込める感情が違うだけで、たった一言がこんなにも重いのだと、ナルトは初めて知った。

「―――その…」

 深呼吸して、解放。
 今日こそ、言える。

「ヒナタ―――ごめん」
「―――わりぃ!! 遅くなった!」
「…すまない。中々用事が終わらなくてな」

 ようやく出てきた謝罪の言葉は、待ち合わせの相手の謝罪で綺麗にかき消された。
 ナルトの声が聞こえなかったヒナタはただ、首を傾げる。その唇が小さく「なに?」と動く。
 一気に、体中の熱が上がった。

「―――っっ」
「ってナルト? どーしたよ」
「ふざけんなてめぇ!!!! 台無しにしてんじゃねーよ! 返せ! 俺の苦労を返せ!!!!」
「はあ?! おま、何言ってんの?!!! ちょ、辞めろ! シノも止めろって!!」

 響く声を、シノとヒナタは綺麗に無視して、軽く、笑った。
2013年3月17日
ナルトはとことん天邪鬼で素直じゃなければいいと思いますw
ヒナタは開き直って心を許すとだだ漏れ的な…w