犬塚キバが日向家の門を通ったのは、記憶にある限りなら4歳の冬。その日は初めて雪を見た日だった。びっくりするほど次から次に白い結晶は空から落ちてきて、アホみたいにはしゃいでいた。
そんな日に真っ白に染め上げられた屋敷に連れて行かれた。
雪に埋もれたその屋敷で会ったのは、小さくて、表情がなくて、下ばっか見てて、声もちっちゃくて、全然特徴なんてない子供。色素の薄い瞳や雪のように白い肌が妙に目立っていた。
正直キバは、日向ヒナタの初印象をほとんど覚えていない。母親の着物に隠れるようにして立っていたから、キバが覚えているのはひどく優しそうで、大人しそうな綺麗な女の人ばかり。
一緒に遊ぶようになって、その小ささとか、幼さとかに少し苛ついて、けれども、一緒に遊んでいるうちにそんなことは忘れてしまった。キバが前を歩いて、その後ろをヒナタがついてくる。そんな時間が続いて、いつのまにかシノが加わって、時々ネジがいて。
その頃は確かに楽しかったのだ。
だからきっと、その頃の犬塚キバは日向ヒナタが好きだったのだと思う。
それが変わったのは10の時だった。
へへ、と犬塚キバは笑った。
ひどく楽しそうな少年の様子に、色素の薄い瞳の少女は首を傾げる。
「な、何かあった…の?」
「へへー聞きたいかよヒナタ! っていうか聞け! うちのねーちゃんさ、今度大学行くんだぜ?! 〇〇大学! ちょうなんかん大学なんだぜ! すっげーよな!」
「………え?」
心底不思議そうに、少女は首を傾げた。
それは、大学の名前を知らないとか、そういうものではなくて、何もかもを知っているからこその表情なのだと、当時のキバは知らなくても直感として知っていた。
多分キバは、この時彼女が自分と同じように喜んでくれると思っていた。だから、少女が本気で不思議そうにしているのが心底気に要らなかった。大体において、日向ヒナタという少女は、キバが笑えば笑ったし、皆が楽しそうなら笑っていたから、そういうものだと思っていたのだ。キバの感情に必ず日向ヒナタは同意するのだと。
だからそれが裏切られて、自分勝手に落胆した。
今思えば身勝手な話なのだけども。
キバはムッとして、ヒナタを睨みつける。
キバは自分の姉がどれだけ勉強していたか知っている。どれだけ頑張っていたのか知っている。
結果を知った時どれだけ彼女が喜んでいたのか、それをちゃんとキバは知っている。
「なんだよヒナタ! なんか文句あるのかよ!!」
「…え?」
戸惑いを充分に含む顔で少女はびくびくと言葉を続けた。
「だって……―――どうせ無駄なのに」
いつもイライラするほどに小さい声の持ち主の癖して、それだけははっきりと犬塚キバの耳に入った。
(―――む、だ?)
日向ヒナタは、このとき何の悪気もなく、ただ、本当に事実のみを述べたのだ。
そう、彼女だけが知る事実。
彼女以外が知りえない、その事実を。
本当に不思議だったから、それを言ってしまった。それが何をもたらすのか、なんて知る由もなく。
「………ふざけんな!!!!!!」
「え…きゃっ」
「ふざけんな!! 無駄なわけねーだろ!!! ねーちゃんはな、ずっとずっとべんきょーして! ずっと頑張ってたんだぞ!! それがなんで無駄なんだよ!!! そんなわけねーじゃねーか!!!!」
「やっ、めて…」
真っ白になった頭はそれでも日向ヒナタの言葉をを否定していた。
気がつけば日向ヒナタの体が下にあって、犬塚キバは少女の襟元を掴んで押さえつけていた。ちっぽけなヒナタの体は薄くて頼りなかったが意外な強さで抵抗するから、キバの力も増して、結局は本気のつかみあいになっていた。
どこかで冷静な自分もいるのを、犬塚キバは感じていた。こんなことをしちゃいけないのだと諌める自分も居た。それでも一度火のついた感情は止まらなかった。
だって、キバの姉は本当に努力していた。
毎日毎日机に向かって、好きだったこともしないで、夜遅くまで明かりをともしていた。幼いキバにとって、鬼気迫るその姿は恐ろしくもあったけど、両親に反対されても、どれだけ頭ごなしに怒鳴られても、決してその力に屈しないその姿は、かっこいいと思った。
大好きな姉のその姿に胸が熱くなった。
キバにとってこの時から、ヒーローといえば、テレビのキャラクターでも剣を持った漫画の中の勇者でもなく、大好きな姉そのものになったのだ。
だから嬉しかった。
姉が合格の発表を受け取って、事実を認識するまでの、ほんの、瞬間。絶対的な沈黙の後、彼女がうかべた、その満面の笑顔は、犬塚キバにかつてない幸福をもたらしたのだった。
「何をやっている!」
「止めろキバ!」
ネジやシノ、大人達に無理矢理押さえ込まれても、キバはずっと何かを叫んでいて、暴れていた。押さえつけられて気を失う、その時まで。
キバは1週間の謹慎を受けた。
ヒナタには何の処分もなかった。
全然意味が分からなかった。
なんで自分がこんな目に合うのか。なんでヒナタは何の罰も受けないのか。
だって不公平だ。
ヒナタがあんな事言ったのが悪いのに、なんで自分ばっかりこんな目にあうんだ。
それが、一番最初の、あまりに大きな亀裂。
憎むことも恨むことも知らなかった幼い時代のおしまいの日。
多分これ以上はないんじゃないか、っていうくらい浮かれた気分のまま遊んで、遊んで、遊びつくして、ようやく一息ついたときに、いのが言った。
「キバさー」
「あ?」
「ほんとーのほんとーに、ヒナタのこと、いいのー?」
きっと前から聞きたかったのだろう。
ただ、2人きりになる機会というものは結構少なくて、今日みたいに休みの日に出かけて、ナルトとヒナタとわかれてようやく落ち着いた2人の時間を得た。
今さらながらの確認に、キバは黙りこんだ。
それは返答に困ったわけではなく、日向ヒナタに対する感情が余りにも複雑で、未だに整理がついていないからだった。
何度も考えた。
初めて会った時のこと。考えないように、思い出さないようにしていた幼い過去。何もかもを縛られて、日向ヒナタの行き先がキバの行く先になったこと。常に共にいることを義務付けられたこと。守るためだけに強くさせられたこと。
自由意思なんてない、ただ定められた未来。
逃げたいと思った。嫌だった。辛かった。どうして、と思わない日はなかった。
―――何よりも、恨んでいた。
「キバー?」
「いの」
「ん?」
「俺さ、ヒナタの事すっげー嫌いだった」
「……………え?」
「つかもー憎んでたな。」
自嘲気味に笑うキバに、いのは言葉を詰まらせた。知らず、指先が震えた。
そんな顔は、知らない。
知っているというなら、恐らくシノやヒナタくらいのものだろう。
負の感情に満ちた濁った瞳。
本人はそんなこと気が付いてはいないのだろう。
ぞっとするような暗い感情の一端にふれて、いのはどうすればいいのか分からない。良くも悪くも、いのはごく普通の環境に育った、ごく普通の人間だ。
だから。
ここまで人を憎悪することを、知らない。
犬塚キバにとってあまりにも身近だったその感情は、ずっと昔に形成されていて、入りこむ余地などどこにもなかった。
「………キバー」
「あ?」
「まだ、嫌い?」
複雑な事情などまるで知らない、それでもどうにかしたい、どうにかしようと思うそのまっすぐな瞳から、キバは視線をそらした。
あたりまえのことだけど、育った環境が余りにも違いすぎた。
それは2人の間にある小さな溝。
その差を見るのはキバにとってあまり気持ちがいい物ではなかった。
「わかんね」
「―――っ」
山中いのにとって、日向ヒナタは大事な親友だ。
大事な大事な守ってあげたくなるような子で。それから………恋敵だ。
いのはずっと前からキバが好きだったし、キバがずっとヒナタを見ているのを知っていたから、だから、決して綺麗な感情だけじゃない。それは確かだ。
それでもいのにとってヒナタは大事な大事な親友。
犬塚キバがどうしてそんなにも日向ヒナタを憎むのか知らない。
きっと今聞いてもキバは答えてくれないだろう。
だから山中いのには何も出来ない。
いつだって山中いのは蚊帳の外で。
そんなだから、いのにはキバの手を握り締めることしか出来なかった。
ずっとその手が白くなるまで、ずっと。
2011年7月30日