ヒナタは荒く息をつく。
体中が熱をもったように熱い。
あまりに純粋で強い思いが…
そのナルトの思いが…
ヒナタの全身を駆け巡っていた。
思わず膝を突き、その小さな拳で地を殴りつける。
何度も何度も。
血が流れる。
少女の目の前が真っ赤に染まる。
「はっ…はは…」
笑いが零れた。
留めなく流れる真紅の液体―――。
ヒナタが慣れ親しんだモノ。
唐突に彼女はその手の甲をクナイで突き刺した。
血が噴き出す。
血がヒナタを染める。
真っ赤に真っ赤に。
手を高く高く掲げ、クナイを引き抜いた。
鮮やかに広がる赤にヒナタは目を細める。
頭上から降り注ぐ真紅。
生暖かいシャワーにヒナタは笑った。
これが私。
血にまみれ、体を真紅に染めて―――。
ああ―――なんて汚い。
私は化け物だ―――。
軽く風が吹いて―――。
「もう止めたほうがいいんじゃない?」
聞き覚えのある声にヒナタは、ぼぉ―――っと振り返った。
だらりと落とす両手は絶えず血が流れる。
「カカシ」
ただそこにいるものを確認するように、少女は呟いた。
カカシは内心驚愕しながらも少女に近付こうとする。
「今―――近付いたら、加減はしない」
その冷え冷えとした、ヒナタという少女と全く違う者の声に、カカシは目を細めた。
ナルトとのやり取りを見つけて、あまりにも下忍からかけ離れた動きに、思わず追ってしまったカカシは、どこか別の世界に迷い込んでしまったかのように感じた。
目の前で血まみれの姿の少女は―――一体何?
日向ヒナタ。
その少女はいつも大人しく、自身がなさそうにおどおどして、必要以上に怯えていて…。
話したことなんてほとんどない。
だが違う。
これは彼女ではない。
その冷たい視線。
何よりも彼女の周囲で荒れ狂うチャクラと殺気。
そして威圧感。
カカシはそれに恐怖する。
彼女は何?
知らず立ちすくしていたカカシは、微かに近付く音に目を見開いた。
上半身を反らし、信じられない速さで飛ぶそれらをやり過ごす。
「…いきなりそれはないんじゃないの?」
「忠告はしました」
全く感情の感じられない少女の硬質な声にカカシは絶句し、遠く突き刺さった手裏剣を眺め見る。
「オレは何もしないよ?それより、血、止めた方がいいんじゃない?」
「…そう…ですね」
ぼたぼたと落ちる血の流れを見ながら、少女はようやく我に返ったかのように、そのぼろぼろの手の甲を治療し始める。チャクラを練り、術による止血。ついで、手の甲の細胞を促進させ、じわじわと傷を回復させる。
それは、下忍なら知ることすらない高等な医療忍術。
カカシにだって、その繊細な技術と扱いは苦手極まりない。
軽く目を見張ったカカシに、少女は視線を向けた。
だいぶ落ち着きを取り戻し、平静な葉月であるヒナタに戻っていた。
冷たい…感情の欠片も混じらぬようなその瞳に、どこか戸惑いが含まれるような気がするのは何故か。
「記憶…消してもいいですかね?」
多少考えてそう言ったヒナタに、カカシは顔を横に振った。
記憶隠蔽術まで使えるのかと、内心では舌を巻く。
すでに、カカシの中で先ほどまで抱いていた少女への印象は一新されている。
これはカカシの知っていたヒナタという少女でなく、全く違う何かだと理解していた。
「何も聞かないのですか?」
血まみれの中で首を傾げる少女は、何故か妙になめかましく、そして老獪して見えた。
数々の疑問の中で、カカシは一つの問いを、からからに乾いた口から搾り出す。
「君は…誰なんです?」
「私は日向宗家日向ヒアシの娘。日向ヒナタ。暗部特別部隊―――葉月」
最後の言葉に…カカシは今度こそ口から漏れる驚きの声を引き止めることが出来なかった。
「黒の…死神…」
その名はあまりにも有名で。
裏の火影とも称される、暗部一の力をもつ存在が…
その売れすぎた名とは対照的に、性別、年齢、顔…
どれをとっても知られていない、あまりにも謎な存在が…
―――今、目の前にいる、小さな幼い少女だというのか…。
昔、同じ任務で遠くから見た存在は、圧倒的な強さと周囲までをも気温を下げるような、冷たい気をだしていた。
呆然と身を固めたカカシを、少女は嘲笑う。
ただの気まぐれ。
見られてしまったのなら、下手にごまかすよりばらした方が後は楽。
自分を葉月と知るれば、おいそれと他人に漏らすことは出来ないだろう。
もし他に漏れるようなことがあるなら、記憶を隠蔽し彼は殺してしまえばいい。
昔、共に任務をしたことで、彼の力はおよそ理解している。
カカシがのろのろと口を開いた。
「知っているのは…火影様だけかい…?」
「そうですが?」
「……そうか…」
その、なにやら複雑そうな表情に、少し苛ついた。
「…君は…君のナルトに対する態度は…嘘かい?」
カカシの言葉に、ヒナタは唇を噛み締めた。
さっきまでの思いが再び蘇ってくる。
「だったら…どうなんですか?」
噛み付くような表情に、カカシは少し笑って首を傾げた。
「君は強いね」
「はぁ?」
予想外の言葉にヒナタは眉を寄せカカシを睨みつける。
「感情を抑えるのは難しいでしょ?好きとか嫌いとか…ね」
「…何言ってんですか?」
「ナルトは…本当に君のことが好きでしょ」
「…っ。そんなの…知っている」
見てしまったのだから。
熱く強く切ない…渦巻く奔流のような、飲み込まれてしまうほどに強い思いを。
見てしまったからこそ、さらに苦しく身動きが取れなくなる。
「ナルトは君のその姿を見ても受け入れるよ」
「それも知っている」
確かに一度は苦しみ遠ざけるかもしれない。けれど彼の器は大きい。
やがて、葉月のすべてを受け入れるだろう。
「それなら何が君をそんなに苦しめる?」
「……6歳で暗部に入り、人を殺したのはその頃。けれど感情を消したのはもっと前。人の命なんて消えてしまえばいい。お互いを引きずりあい、憎しみの連鎖を募らせ、表面だけで笑っている…醜い醜い生物。誰が死のうと私には関係ない…」
くるりと回って血にまみれた姿で、ヒナタは嫣然と微笑んだ。
あまりに少女らしくない…大人びた、そして老獪した笑みに、カカシは背中を凍らせる。
「ナルト君は初めて見たとてもとてもキレイな生き物」
今度の笑みは柔らかに、普段見せるものと変わらないような笑み。
「憎んで、苦しんで、恨んで、けれどもそれに染まることはなかった。きれいな…私とは正反対の存在」
ああ―――だからなのか―――…と。
あまりにも自分と似て非なるもの。
それゆえに、触れるのは怖い。
それは、あまりに彼女と彼が似ているために。
一つ間違えてしまえば、彼が彼女に染まってしまいかねないために。
だから彼女は拒み続ける。
彼を染めてしまう自分を。
彼を染めてしまわないように。
「君―――は…ずっと…ずっとそうやって生きていく気かい?」
「そうですね。こうやってナルト君守って生きていく」
「……そう…か」
自分には何も言うことはできない。
何か言ったとしても無駄だろう。
彼女は強い。自分などとは比べ物にならない。
彼女の人生に口を出す権利など自分にはない。
それならば
―――俺はそれを守ろう。
「ああ。そろそろ戻らないと皆心配するね」
ふと、何事もなかったかのようにカカシが口にする。
戸惑うように、ヒナタが見た。
「行こうか?」
「…もういいのですか?」
「君がその道を選ぶのなら、俺にはもう言う事なんてないよ。あ。それから記憶は消さないでね。俺は君の害にはならない」
「その証拠は?」
「必要なら血判でも何でもするよ。けれど、君なら分かるでしょう?俺の本気が」
日向の一族は総じて人の気持ちに敏いのだから。
「そう…ですね…」
それなればもう何もいうことはない。
カカシは自分よりも弱いが、この里の中ではかなり強い方だ。
自分の正体を知り、何もする気がないのなら、一人くらいは知っていてもいいだろう。
いざ、何かあったときに利用することも出来る。
「カカシ先生」
「ん?」
「ナルト君の記憶、今日のことを忘れさせてくれませんか?」
「いいよ。山中の方は?」
「頼みます。それから、私は今日は気分が悪くなったので帰ったということにしといてください」
「いいのかい?」
「血臭は消せない」
冷たくそう言って、少女は印を組む。
次の瞬間にそこに立つのは、1人の暗部。
長い長い黒髪をもち、血を連想させる赤の瞳と、冷たく整った容姿をもつ有名な暗部。
真っ黒に染めた暗部服。
カカシの知る、黒の死神の姿―――。
分かっていたことだが、目の前でこうも変わられると驚かざるを得ない。
たった12の少女が、里の頂点に近いほどの力を持っているのだ。
それはなんて末恐ろしいことか。
そのカカシの考えに気付いたのか、葉月が笑う。
その笑みも、なんと酷薄なこと―――。
静かに葉月は狐の面を被る。
狐の面―――。
何故、狐なのだと…それが今分かった。
あの少年は狐ではないけど、確かに狐に繋がりがあるから―――。
だから、彼女は狐を身に纏う―――。
「それでは、はたけカカシ上忍。後を任せました」
高くもなく低くもなく、中性的なその声は、ひどくよく響く。
その余韻も消えぬうち、ヒナタの姿は消えた。
たった数秒。
それだけで、もうカカシは彼女の気配を見失う。
「黒の死神―――か」
すごいな。と呟く。
あれだけ小さな少女が、今の今まで誰にも正体を知られることなく、日向のおちこぼれの少女を演じきっていたのだ。
尊敬に値する。
そうして彼もその場から姿を消す。
己の教え子と、もう1人に術を施すために。
後日、いつものように任務をこなす下忍たちの姿があった―――。
2005年3月11日。
カカシがヒナタの正体知りました。