「風華?」
「任務の報告書は頼んだ」
風華と、そう呼ばれた砂の国の暗部は、迷うことなく顔を覆う白布を剥がし、素顔を晒す。里を覆う砂のような淡い金の髪が揺れて、現れた瞳の色はオアシスに茂る草葉のような優しい緑。
まだ20にも届かないように見える少女は、大人以上の冷たく冷酷な色をその瞳にのせて、無表情でもう一人に背を向けた。彼女がそこから離れるのは一瞬の出来事で、残された暗部は良く意味が分からないままに、中途半端に手を上げたままだった。
風華は残してきた相棒の暗部を気に止めることをせず、目的の場所へ足を進める。大して遠くもないその場所は、砂と岩国をさえぎる森林地帯の中にある。
覆い茂った草木のを掻き分けた風華は目的の場所を見つけ、顔をほころばせた。幾つかの結界に守られた場所に、広々と花が咲いていた。風華の来訪を喜ぶかのように、色とりどりの花が風に舞い踊り、その花弁を散らした。
「風花―――聞こえるか」
張り上げた声を聞くものは居ない。
花弁だけが風華に降り注ぎ、金の髪に絡まる。
風華は両の手を静かに広げ、大きく息を吸った。
―――願わくは、この風が、この花が、この歌声が、貴女の下へ届かんことを。
女にしては低めの声が、大気を震わし、風を伝わり、花を乗せて、空高く舞いあがった。
鎮魂歌
ああ、見捨てられたのだ。
その任務を言い渡された瞬間、それを理解した。
仕方がないことなのだ。
様々な血継限界の血を引きながら、それらの能力を全く持たず、体力も人並み以下。忍の才も持たず、体術も幻術も忍術も人並み以下。
せめて、人並みの体力を持ち合わせていれば違ったのだろう。
けれど、それすら自分は持っていなかった。
五体満足で生まれ、人よりも弱い身体に生まれた。
普通ならそれでも良かったのだろう。
生まれた場所が普通の家で、普通の親で…それなら、良かった。
けれど持って生まれたのは"風影の長子"という立場で、強さ、を求められる存在だった。
「承知、しました」
上座を見上げる。許しを得てもいないのに頭を上げた無礼については、咎められなかった。知っているのだろう。誰もが分かっているのだろう。この任務の意味を。
黄土の短い髪、人を射抜くような深い、濃紺の鋭い瞳。嫌になるほど似ている、と思った。
当たり前だ。自分の父親なのだから。
深く、息を吸った。
「―――父上」
「………」
目と目が合う。父の瞳に映る自分は、驚くほど無表情だった。感情の示し方など分からない。自分が今抱いている感情をなんと呼ぶのかも分からない。
あえて父上と呼んだ。"風影"ではなく、"父上"と、最後くらい呼んでもいいだろうと思う。
泣けばいいのに、と誰かが言った。
みっともなく泣き喚いて、父にすがり付いて、許しを請うて、そうすれば、何か変わるだろうか。
馬鹿な考えだと、頭の隅で誰かが言う。
そう、本当に馬鹿な考えだ。
涙なんて出ないというのに。
滑稽だな、まるで人形のようだ。
悲しいとは思わない。
ただ、頭を下げた。深く、深く、床に頭が着くほどに。
「お世話になりました」
それが、彼女なりの決別とけじめの付け方だった。
真っ黒な忍装束を身に付けるのは、これで何度目になるのだろうか。そんな他愛もない疑問が頭に浮かび、テマリは己の思考に呆れた。
物心ついた時には既に纏っていたものだから、まるで普段着扱いにされている。この装束で修行を行い、任務へ出され、幾度も幾度もぼろぼろにし、そのたびに新しい物が用意されてきた。命に関わる程の傷もさほど珍しくはなかった。元々身体の弱いテマリは足手纏いでしかなく、ここまで生きてこられたのは風影の長子という肩書きと、地位のためだ。
誰もが足手纏いのテマリを庇った。彼らが仕える主人の長子だから。テマリを死なせるな、という命令も出されてはいただろうから。簡単な任務でも、そこそこ難しい任務でも、彼らはテマリを役立たせようとしてくれたし、彼らが望むだけの役割はなんとかかんとか演じる事が出来たと思う。けれど、そんなやり方では常に上手くいく筈もなくて。それでもテマリが生き残ってきたのは、彼らが必死で守ってきてくれたお陰。
彼らが命をかけても必死で守って、生かした。
そんなんだったから。
命がけで自分を守ってくれた忍には悪いと思う。
彼らは、自分に与えられたこの任務を知って清々したことだろう。もう足手纏いを庇う必要も、小さな子供相手に機嫌を伺う必要もない。
何故自分だけがこうだったのか。
一つ違いの弟は、血継限界を発現する様子は見られなくとも、早々に忍としての才力を発揮し、今では名の知れた傀儡使いに師事を仰ぎ、並外れた才を見せているのだという。
三つ違いの弟は、その性格にこそ問題はあるが、生まれつき備わった砂の化身の力により、並大抵ならぬ力を見せている。忍の才も十分なものを持っているらしい。
同じ風影の子として生まれておきながら、全く異なる、忍として生きるにはあまりにも脆弱な身体。
なんて情けない。
「テマリ様」
扉を叩く音と、落ちついた低い声に、テマリは我にかえる。
テマリにとって初めて聞く声ではなく、兄弟よりも父よりも近しく、親しい人間のものだった。
「風花、入れ」
ゆっくりと開いた扉の向こうに立っていたのは、風花、という名の、風影の長子付きの世話役。
眩しいぐらいの金の髪と、鮮やかな緑の瞳をした、柔らかい雰囲気の女性。
テマリはこの良くも悪くも自分に忠実な世話役を見て、小さく、笑った。普段無表情な少女が笑ったものだから、風化は不思議そうに首を傾げる。
「風花、いつも世話になっている。ありがとう」
唐突な言葉に、風花はわずかに目を瞠り、テマリに頭を下げる。戸惑いに綺麗にふたをして、ありがとうございます、と微笑んだ。
風花は、この少女が気に入っていた。
風影の長子でありながら、身体が弱く、好意的な目で見られる事のなかった少女。少女はそれに対して文句の一つも口にすることはなかったけど、歯がゆく思っているのは知っていた。いつの間にか無表情を徹底するようになったのは悲しかったが、風花は彼女が昔見せた無邪気な笑みを覚えている。
身体が弱く、忍として役に立てなかった彼女が、情報解析能力、暗号解読、戦術軍略、薬草学、医療学といった、様々な知識を求めていたのを誰よりも知っていた。
「テマリ様、これをカンクロウ様より預かっております」
風花の取り出した小さく折られた紙を、テマリは受け取る。ここ最近は暗部の傀儡部隊に入り浸りなカンクロウであるから、実家である風影邸に戻る事は少ない。だからなのか、時折こうして互いの世話役を通じて手紙が届く。
紙を広げて、テマリは息をついた。微妙に歪められた表情は、風花にも読めない。
ひらひらと紙を揺らした後、わずか8歳の子供には似つかわしくない皮肉気な笑みをテマリは浮かべて、肩を竦めた。
「もうすぐ帰る。土産があるから楽しみにしてろ、だと」
「そうでしたか。もしかしたら、また暗部の方と共に他国まで足を伸ばしたのかもしれませんね」
くすくすと笑った風花に、テマリも頷く。カンクロウは好奇心旺盛で、言い出したら聞かない。傀儡使いになると決めた時もそうだったし、今の傀儡使いに弟子入りしたときもそうだった。
「悪いけど風花。私はこれから任務でカンクロウには会えない。土産は預かっていて欲しい」
何気なく、努めて何気ない風を装ってテマリはそう言ったが、風花はひどく残念そうに首を振った。
「残念ですが、私も任務がありますので…その役目は夜叉丸に頼んでおきましょう」
「任務? 風花に?」
眉を潜めたテマリに、風花は笑って頷く事で肯定した。テマリが疑問に思うのも無理はない。風花は昔の任務でかなりの重症を負っており、それの後遺症によって全ての任務から手を引いている。その事を、テマリは知っているのだから、何故任務が、と思うのも無理はないのだろう。
「特別な任務なので」
風花の一族は、砂里でも有名な血継限界の一族である事を知っているので、それ関係かとテマリは頷いた。忍としての任務は何も暗殺や戦闘だけではない。
「風花」
「何でしょう?」
テマリは、風花を眩しそうに見上げて、その手を取る。常にないテマリの動作に内心首を傾げつつも、風花は少女の視線に合わせるために腰をおとした。
深い海の底のような濃紺の瞳の色に、風花は惹きこまれる。きっと、この少女は気付いていないのだろう。
どれだけ不当な扱いを受けても、どれだけ身体が弱くても、どれだけ力がなくても…それでも俯くことをせずに前を向く少女。それを嬉しく、誇らしく、愛しく感じる者が多くいる事に。
彼女の表情が顔から消えてしまっても、その真っ直ぐな性質は変わらなかった。
彼女が上層部に認められる事がなくっても、その瞳が力を失うことはなかった。
だから、テマリはここまで生きることが出来た。
彼女を生かしたいと、誰もが思っていたから。
「初めて会った時の事を覚えているか?」
「勿論です」
きっぱりと述べた風花にテマリは静かに頷いた。
「私は、血に塗れ、泥に汚れ、足を引きずりながら、砂の海を進む貴女をとても綺麗だと思った」
「私を、ですか?」
予想外の言葉に、あっけに取られた風花はぽかんと口を開いて固まってしまう。
テマリと風花が出会ったのは5年前の事だった。
テマリが母と父に連れられ外に出て、砂漠を初めて見た日。ぼろぼろの身体を引きずりながら、風花は砂に帰還した。
彼女の眩しいほどの金色の髪は、血に汚れていながらも、砂漠の強い太陽の光を浴びて、神々しいまでに輝いていたし、砂漠の白い砂の海を背負った姿が、なぜかとても綺麗だと思った。
応急処置が施された傷から流れ落ちる血が鮮烈に目に焼きついて、騒然とする父と母の声も耳に入らなかった。目の前で崩れ落ちた身体を、思わず全身で受け止め、けれど受け止めきれずに一緒に倒れた。父の手配によって病院に運び込まれた彼女の事が、テマリは気になってならず、暇さえあれば病院に行った。風花が手術によって一命を取りとめたと聞いた時、本当に嬉しかった。
彼女が回復して、もう忍として生きるほどの力がないと知り、テマリの世話役にどうか、と言ったのは、母親だった。忍として生きる事は出来なくとも、テマリの教育は出来るだろう、と。護衛としては少し頼りなかったけど、ほとんど風影邸から出る事のないテマリになら問題ない。テマリが外に出るときは他に護衛をつければいい話であるし、忍として優秀だった風花なら、テマリにかなりのレベルの教育を施すことも出来るだろう。
その案を風影は承諾し、風花もまた承諾した。
「なんとなく、あのときに生きる力を貰った気がするんだ」
あのときの彼女はとても美しくて。必死に生きようとする彼女の姿は、テマリのまぶたに焼きついて今も離れない。生きるということは、凄い事なのだと、勝手に思った。
「それは、こちらの台詞ですよ」
風花は笑って、テマリの瞳を見つめる。緑色の優しい色合いをした風花の瞳が、テマリはとても好きだ。
「部隊は全滅、たった一人生き残って、追っ手を交わしながら必死に砂まで戻って…死ぬのだと思いました。私はここで死んで、英雄碑に名を刻まれるのだと、貴女に会うまでそう思っていました」
部下を守れず、自分一人が生き残り、託された機密書を持ち帰る事だけを考えていた。風花にはもう親も兄弟もなく、友とも恋人とも任務で死に別れた。もう失うものはなかったから、この任務さえ終わればいいと思った。部下が託した物を敵に奪われる事だけは我慢ならなかったから、とにかく任務を遂行したかった。
必死に砂漠を進み、ただただ砂の里を目指して、朦朧とした意識を繋ぎとめた。懐かしい里が見えたとき、情けないほどに足が弛緩して、砂に転んだ。頭から砂を被り、傷口にも入り込んだが、もう気にならなかった。
後少しで、この任務も終わりだと考えれば、どれだけ砂に足を取られても、前に進んだ。砂の里のすぐ手前で、人影を見て、彼らにこれを託せば終わりだと笑った。それが誰なのかも分からなかった。
何度か転んで、人影が近くなって、そのうちの一つがこちらに走ってくるのを感じた。だから機密書を取り出そうとして、また無様に転んだ。それを受け止めたのは、砂ではなかった。ひんやりと冷たいような、それでいて温かいような。とっさに瞑っていた目を開いたら、淡い、砂と同じ髪の色が目に写った。紺色の深い瞳が、じっと風花を見ていた。幼い両腕が風花の首に回って、戸惑った。ぎゅう、と必死で抱きついて来る子供の身体が震えていて、どうすればいいのか分からなくて、よく回らない頭で必死になって考えていた。
小さな子供の身体をおずおずと抱きしめたら、抱きしめてくる力が強まったように感じた。ほとんど聞こえなくなっていた筈の耳が、子供の泣き声を捉えた。
「貴女が私を繋ぎ止めてくださいました。生きて、貴女の顔をもう一度見たいと思いました」
嬉しかったのか、悲しかったのか、今となってはもう分からない。
ただ、子供が自分のために泣いているのだと分かったら、自然に涙が出た。
もう何もないと思っていた自分のために、全身で泣いてくれる子供がいた。
それが、ただ、ただ、ありがたいと―――。
「そう、だったのか」
「はい。だから、テマリ様とこうして居られる事が、私にとってとても幸せな事でした」
「―――そうか。…ありがとう。私も、風花が居てくれたから幸せだった」
5年前、お互いに出会えた事が、何よりの幸せだった。
互いが既に過去形で話している事にも気付かずに、そう、2人は笑って別れ、任務へと赴いた。
この任務は、使いにくい駒と、役に立たない忍の抹消を兼ねた足止め任務だと、彼女らは、とても正確に理解していた。